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表紙カバーと概要
どんな生き物にもある程度定まった“寿命”がありますが、ヒトだけは例外。医療が進歩し、生活水準があがることで平均寿命はどんどん延びてきています。
医学はあらゆる病気を根絶することを目指していますが、生まれたヒトが死なずに増え続けたらどうなるでしょう?そもそも、生物は自分が死ぬ代わりに子孫を残すことで、自らを進化させてきたのでは?そう考えると、ただ寿命を延ばすことを良しとする医療のあり方にも疑問が出てきます。
医療行為による延命はどこまで是で、どこからが非か?いや、そもそも長寿にどこまで意味があるのか?老いても充実した生き方をしていくには何を心がければいいのか?少子高齢化と呼ばれる日本社会はこれからどのように変化していくのか?「寿命」をテーマに、日本を代表する論客が様々な角度から掘り下げていく「バク論」シリーズの第一弾をお届けいたします!
- バク論 -人の死なない世は極楽か地獄か
- ISBN 978-4-7741-4908-0
- 定価(本体1580+税)
- 池田清彦
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早稲田大学国際教養学部教授。1947年東京生まれ。東京教育大学理学部生物学科卒。東京都立大学大学院で生物学を専攻。山梨大学教育人間科学部教授を経て現職。専攻は構造主義生物学。
「池田清彦オフィシャルブログ」*バク論シリーズの監修者・池田清彦先生の公式ブログです。
- 養老孟司
解剖学者。東京大学名誉教授。北里大学大学院教授。医学博士。1937年神奈川県生まれ。東京大学医学部博士課程修了。専攻は解剖学。
- 武田邦彦
中部大学総合工学研究所教授。工学博士。1943年東京都生まれ。東京大学教養学部基礎科学科卒。旭化成工業、芝浦工業大学工学部教授、名古屋大学大学院教授を経て、2007年より現職。内閣府原子力委員会、安全委員会専門員などを歴任。専攻は資源材料工学。
*エコロジーから原発問題まで、大人気の武田邦彦先生のブログ。
- 安保徹
新潟大学大学院医歯学総合研究科教授。1947年青森県生まれ。東北大学医学部卒。東北大学歯学部助手を経て、90年より現職。専攻は国際感染医学・免疫学・医動物学分野。
*独自の免疫理論にファンも多い、安保徹先生の公式サイトです。
- 上田紀行
東京工業大学大学院社会理工学研究科准教授。1958年東京都生まれ。東京大学大学院総合文化研究科文化人類学専攻博士課程修了。愛媛大学助教授を経て現職。専攻は文化人類学。
*人類学者・上田紀行の研究室のサイト。講演情報も満載です。
- 本川達雄
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東京工業大学大学院教授。1948年宮城県生まれ。東京大学理学部生物学科卒。東京大学助手、デューク大学客員助教授、琉球大学助教授を経て91年より現職。専攻は生物学。
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緩和医療医。1976年茨城県生まれ。岐阜大学医学部卒。笹川医学医療研究財団ホスピス緩和ケアドクター養成コース修了。内科専門研修後、日本最年少のホスピス医(当時)として勤務。現在は東邦大学大森病院緩和ケアセンター副センター長。
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- 古田隆彦
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現代社会研究所所長。前・青森大学社会学部教授。1939年岐阜県生まれ。名古屋大学法学部卒。八幡製鉄(現・新日本製鉄)、社会工学研究所を経て、84年より現職。専攻は応用社会学、消費社会学、人口社会学、未来社会学。
*人口波動をはじめ多岐にわたる研究を行う、古田隆彦先生のサイト。
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上智大学経済学部教授。1947年静岡県生まれ。慶応義塾大学院経済学研究科博士課程満期退学。慶應義塾高等学校教諭、上智大学経済学部助教授を経て現職。専攻は歴史人口学、経済史。
「人口と環境:鬼頭研究室/上智大学大学院 地球環境学研究科」
*人口史研究の第一人者、鬼頭宏先生の研究室のサイトです。
- 石川英輔
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作家。1933年京都府生まれ。国際基督教大学および東京都立大学理学部中退。SF小説『大江戸神仙伝』の発表を機に専業作家として活躍。
- 高木由臣
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奈良女子大学名誉教授。理学博士。1941年徳島県生まれ。静岡大学卒。京都大学大学院理学研究科修士課程修了。同博士課程中退。京都府立医科大学教養課程助手、講師を経て、奈良女子大学理学部助教授、教授。専攻は発生遺伝学、細胞生物学。
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- 久坂部羊
医師。作家。大阪人間科学大学社会福祉学科教授。1955年大阪府生まれ。大阪大学医学部卒。同大学付属病院で消化器外科・麻酔科を研修後、大阪府立成人病センター、神戸掖済会病院医師を経て、在外公館で医務官として勤務。2003年作家デビュー。
執筆者インタビュー
バク論シリーズの第一弾、『人の死なない世は極楽か地獄か』(技術評論社)にご登場いただいた武田邦彦先生(中部大学大学院教授)。昨今のエコロジー、リサイクル問題、原発問題など、様々な分野を横断しながら評論活動を展開されている武田先生に、同シリーズのメインテーマである“科学的ディスカッションのあり方”についてご意見を伺いました。
定説が作られる「空気」をいかに打ち破るか
――いま「バク論シリーズ」の第2弾を制作中なんですが、すでに刊行した第1弾のテーマが「寿命」で、第2弾は「食べ物」。生きることの根幹に関わることをテーマにして、今までになかった形のサイエンス・オピニオン書籍の刊行を目指しています。
今回は、こういうシリーズを展開していくにあたって、武田先生にご助言を伺いたいと思って参上したんですが……。
武田: たとえば食べ物ということで言えば、「朝ご飯を食べなきゃいけない」というふうに言われているじゃないですか。それがすごく正しいことのように思われているわけですが、この種のスローガンはつねに利権が伴っていて、事実はどうなのかがよくわからない仕組みになっているんです。
――利権、ですか。
武田: そう。じつは朝ご飯については20年ぐらい前にずいぶん調べたことがあるんですが、栄養学者のほとんどが「朝ご飯はいらない」と言っていました。なぜかというと、栄養を摂ってから運動するのではなくて、運動でカロリーを消費してから食べるというのが動物のサイクルだから。日本でも、そうした研究をずいぶんとやってきているんです。
実際、世界の文化でもコンチネンタル・ブレックファーストみたいなものはコーヒーとパンだけですよね。なぜパンを少し食べるのかと言うと、カロリー摂取のためではなく、目を覚ますために口を動かすのが必要ということなんです。
当時、栄養学者の方にずいぶん聞いて回ったんですが、結局誰も朝食が必要であるということを言っていなかった。それが、いまになって世の中は朝食が大切だと言いはじめている。
――急に言われるようになったのには理由があるということですね。
武田: それが利権なんです。私が主張してきた温暖化の問題もそうなんですが、「温暖化」という空気を一回作っちゃうとそれが定説のようになってしまって、そうした空気がなぜできたのかについては議論しないところがある。だから、(バク論シリーズのような)定説になっている空気の部分に視点を向けるという内容は非常に面白いんじゃないかと思いますね。
――先生のおっしゃる「空気」の問題は、ほかの食べ物についても言えそうなことですね。
武田: ええ。どういうものを食べるのかについては非常に難しい問題が多いですよ。例えば、長野県と青森県の寿命の差にまつわる問題というのがあって、長野県は平均寿命が一番長い。これに対して、青森県は逆に短いほうなんですけど、両方とも塩分はたくさん摂っている。塩分の摂りすぎは体に悪いと言われていますが、長寿の県も短命の県も両方ともたくさん塩分を摂るんですよ。
しかも、長野と青森に関しては、高地であることや気候が寒いことも似通っている。なのに、どうしてそんなに大きいな差が出るのか。そもそも、塩分が体に悪いって言うのはアメリカ人が言ったことであって、本当の意味では解明されているわけではない。食の分野にはそういうたぐいの話が多いですから、特に誤解を招きやすいんです。
――これだけ多様化しちゃうと、難しいですよね。何がどう健康に繋がるかとか。
武田: 難しいことは難しいんだけど、それ以前につねに利権とくっついちゃうところが問題なのです、今の世の中は。地球温暖化もそうだし、学校給食の問題もそうだし、タバコの問題もそう。もちろん、今回の原発事故もそう。どれも利権とくっついていて、それを打破できないという仕組みになっているわけです。一般の人も少しはおかしいと思うんですが、空気まではなかなか変えられない。
――確かにそういうことは多々ありますね。本来、科学者こそ客観的であるべきなんでしょうが、最初にからめとられちゃうんですかね。
武田: 文科系の人がきちんとデータを見ないのも問題でしょうね。講演でもよく言いますけれど、「福島原発は津波でやられた」と誰かが言うと津波でやられたということになっちゃうんです。防潮堤が5.7mで、津波が15mだから超えてしまったのだと言われると、みんな「そうかな」と思ってしまう。実際に原発事故が起こったのは、防潮堤とは全然関係がなく、施設の両側に回った水が後ろから来たんですよ。
――にもかかわらず、今度は防潮堤を高くすると言うわけですね。
武田: ちょっと高くしても水は回ってきたんだから、そんなことをしても関係ないですよ。そうしたことを発言した人も、鵜呑みにした人も、あまり調べもしていないし、データも見ていない。これは日本社会に潜む病のようなものかもしれないですね。
――先ほどの空気の問題ですね。
武田: そういう空気の中で科学は歪んでしまう。たとえば、僕がいつも原発問題について言っているように、フランスではセーヌ川の上流に原発が2基ある。つまり、セーヌ川には原子力発電所の廃液と冷却水が流れている。
日本だと認められないものが、フランスでなぜ認められているのか? なぜフランスはパリの下流に作らずに上流に作ったのか? これが、科学に対するフランス人と日本人の差なんですよ。ですから、そういった日本人の感覚があるかぎり、地球温暖化にしても、原発問題にしても、寿命の問題にしても、もう一つレベルの高い状態で考えることができないわけです。
――日本人が打破しなきゃいけない課題みたいなものですね。日本人は議論するのが不得手とも言われていますし……。
武田: いや、これは議論以前の問題でしょう。そもそも、議論は意見が違う人がいて、それぞれの違う意見をそれぞれが聞くことを言うのです。そうであるにもかかわらず、日本では自分と違う意見の人の話を聞いているだけで、二重人格って言われる。僕はただ「なるほど」って聞いているだけなんですよ。それはその人に同意しているんじゃなく、その人の言っていることを理解したというだけなのに……。
最近でも、ある放射能の専門家に書籍の編集者やテレビのプロデューサーを介して何回も対談を申し込んでいるんです。しかし、全部拒否です。
僕が先方にお伝えしたかったのは、先生のご研究は絶対否定しません。否定はしませんが、その本を読んだ人、テレビを見た人が、この人はこういう考え、この人はこういう考えっていうことを客観的に知ることは必要ではないですか、とうこと。
ただそれだけなんです。筋はとても通っていると思うんですが、それは日本人的じゃないということなんでしょうね(笑)。
――「バク論シリーズ」ではまさにそういうことをやりたいんですが……。
武田: へんな話、放射線は危ないと思っている人は放射線は危ないっていう本を読むわけです。放射線が安全だと思ったら安全だという本読む。でも、最初にそう思ったことに関する明確な根拠というのはほとんどない。
これと同じように、タバコが危険だと思ったらタバコが危険だという本を読む。タバコが危険という人と安全だという人と両方読んでみようと思わないんですよ。もちろん、人間ですからね、僕の言っていることのほうが間違っているかもしれない。ただ、皆さんがわからないと言っているわけですから、それぞれのスタンスを示すことは最低限必要じゃないですか。
――監修の池田清彦先生もおっしゃっていましたが、日本では論壇誌と呼ばれるものがあっても、その主義主張は一つの枠のなかに収まってしまって、なかなかはみ出たものを掲載させられないところがある。バク論シリーズでは、そうしたセクト的なもの自体を打ち破る本を何とか作っていきたいと考えているんです。
武田: それはいいと思います。私も賛成ですが、日本では空気を作ってそっちに流すほうが受け入れられやすいですからね。みのもんたさんみたいに、空気作りの名人っているでしょう?その意味では、こういう本を定着させるのは難しい面もあるでしょうね。
ただ、こうした切り込み方は池田先生が得意なところでしょうから、うまく続けていけば、いまの日本の空気に違和感を持っている層に受け入れられることは十分あり得ることだと思います。それはとても面白い試みだと思いますよ。
異なる意見も受け入れる。それが民主主義なのだから……
――原発事故以来、先生がメディアに登場される機会もずいぶん増えましたね。その分、バッシングも増えてきたと思いますが……。
武田: まあ、しょっちゅうですよね。この前もインターネットに私に関する批判が載っていたので読んでみたんです。批判っていうのは、読めば自分の論理の欠陥がわかることもある。それで、どんどん直していくと、僕だけが優秀になるわけですよ(笑)。批判している人はまったく変わらないですが、批判された僕のほうは両方の考えを包含して言えるようになるわけですからね。
――なるほど。
武田: ただ、僕が面白いなあと思うのは、「武田邦彦批判」って書いてあっても、じつは全然武田邦彦批判じゃないということ。僕の批判をしているんじゃなく、僕が発言していることについての批判なんです。ところが、それを僕の批判だと思って相手は書いている。
武田邦彦個人を批判しているつもりなので、言葉も汚くなる。批判している内容がわりとまともでも、どうしてもそうなっちゃう。本当は僕の批判じゃなくて、事実の見方についてのやりとりでいいはずなんです。
――でも、普通は事実の指摘であっても、自分自身が批判されていると思っちゃうんでしょうね。
武田: 批判する人が人の批判にすり替えているところもありますからね。実際、そっちのほうがインパクトがあって、関心を集めるかもしれない。内容について批判すれば、みんなが向上していくこともできる んですが、個人の批判では人を蹴落とすようなことにしかならない。そういうケースが多いですよね。
ただ事実を批判すればいいのであって、僕なんかは人を批判するんじゃなくてこういうことは違うんだと、このテーマについては私はこういう意見なんだといくわけなんですが、なかなかそうはならないですね。
――異なる意見の人がいると、感情的にその人を嫌いになってしまって冷静に受け止められないところがあるんじゃないでしょうか?
武田: 心情としてはわかりますが、そういうところに留まっているということは、民主主義を信用してないっていうことなんでしょう。民主主義っていうのは、人の意見が自分の意見と違うことを受け入れて、信用して行動するっていうことですから。
たとえば、先ほどもお話しましたが、フランスは原発を東京でいえば多摩川の上流に作っているようなものですよね。どうしてそうしたことができたのか?それはやっぱり合意しているからなんですよ。
もちろん、異なる意見はあるんですが、「合意したものは守る」という民主的手続きを経ているわけです。意見を交わして合意したものを、自分の考えと少し違ってもそれは仕方ない。問題が生じたら改革せざるをえませんが、その過程においては合意したわけだから、そこを基準にしてやっていく。
――日本ではそこまでしっかり決められないし、守れないですね。先生はさらっとおっしゃいますが、なかなか根が深い問題のような気がします。
武田: 根は深いですよ。日本人はずっとそうやって生きてきましたから。
たとえば、お城に殿様が住んでいる国っていうのは、ある専門家が調べた限り、大きな国では日本しかないそうです。他の国はお殿様も市民も、みんなお城の中に住んでいる。
どういうことかって言うと、日本の場合はお殿様が代理で考えて、代理で死んでくれるんですよ。全部代理。だから外国人が日本へ来て、「日本の殿様っていうのはずうずうしい。自分だけが城壁の中にいて戦争が起こったら住民は皆殺しか」と言いますが、実際はそうじゃないんです。
お殿様に全部預けちゃって、死ぬときもお殿様だけ死ぬんです。切腹っていうのはそういうものなんです。庶民はただそれを見ているだけなんです。外国は市民同士戦って、皆殺しになっちゃうわけですが、日本はそうはならない。
――それが逆に弊害になってしまっている。ある意味で平和の弊害というか……。
武田: お殿様に任せてあとはのどかに暮らしている。日本では、それが制度のようなものなんです。どっちがつらいかというと、じつは権力者であるはずの殿様のほうがつらい。だから、庶民よりも日々の生活は豊かにできるという、そんな感じですよね。
そうした長年続けてきた伝統が今の日本にも影響を残していて、自分で考えたり、決断したりする経験が積めなくなっている。とにかく誰かが考えてくれるわけです。今度の原発事故もそうですが、そうやって考えてくれるものをNHKが報道しているだけなんですよ。暴論に聞こえるかもしれませんが、早くNHKをなくさないと、そういう伝統を打破できないでしょうね。
――全部預けてしまう象徴が「NHK」なんですね。
武田: そうです。べつにNHKが憎いわけではなく、NHKが存在していると正しいことを誰かが決めて、それをNHKが流して、みんなが信用すると。これはお城の時代の人たちと一緒でしょう? それはそろそろやっぱりやめた方がいいんじゃないかと。民主主義の時代なんだから、私たちはそろそろ自分で考えて、自分の意思で行動するべきなんです。
スペシャルインタビューの第2弾は、バク論シリーズ『人の死なない世は極楽か地獄か』(技術評論社)にご寄稿いただいた養老孟司先生。科学であることの本質を解きほぐし、いかに流されずに現実(現象)を捉えていくか? バク論シリーズの今後のあり方をふまえつつご意見を伺いました。
科学を安易に信じない態度が科学には必要なのです
――サイエンス・オピニオン書籍という位置づけで新しいシリーズを構想しているのですが、科学的なものの情報発信について先生はどのような考えをお持ちですか?
養老 まず基本的な話をすると、科学者の9割くらいは自分が専攻してきたことを社会的に活用しない傾向があるんです。特に僕らの育った世代は絶対しない。
たとえば、僕と同じくらいの世代の法学部の先生が総合雑誌に寄稿すると、ジャーナリストのような書き方をしているって怒られちゃう。
僕も大学にずっといたから分かりますけど、自分がやっている仕事を自分と意見の異なるところで発表したりはまずしないですね。日本人はそういう訓練をあまり受けていないですから、そもそも批判に対して自信を持って反論できる人は少ないのではないですか? 叩かれたら腰砕けになってしまうというか。
欧米では、自分の意見を強く押し出さざるを得ないところがありますが、日本の場合はそこまで極端じゃない。ただ、議論をしない代わりにドグマを押し付ける。
――なるほど。知らない間にドグマができてしまうところがありますね。
養老 まあ、唯一の極端といえば戦争中でしょう。一億総玉砕っていう全く論理が通っていないことを平気で推し進めたでしょう? ただ、終戦になったらあっという間に引っ込んだ。本音ではあまり信じていなかったということなんでしょうが、これは科学で言ったら大きな欠点ですよね。
――科学的思考が育ちにくい土壌なんでしょうか?
養老 それ以前に、日本の文化の特徴と言ってもいいでしょう。別な意味であまり抵抗が無い。何を言われようと日本人は結構何でも受け入れちゃうんですよ。かつてのオウム真理教とかね。それで、いいモノも悪いモノもすべて一緒に流してしまう。
だから、変わるときはガラッと変わることがある。明治の時と戦後と、こうした大変革をこの100年あまりで2回やっていますから。
――今はネットであらゆる価値観の分散があって、まとまりようが無いですよね。その中であらゆる流れが突如生まれたりする。
養老 いま申し上げたような土壌があるから、非常に危ないと思いますね。禁煙運動なんか見てもわかるでしょう? はっきりした論理よりも一種の信念体系が重視される。そのへんは宗教の信仰と変わりがないんですよ。
たとえば、副流煙が危険とか言いますが、私に言わせれば、それは宗教と同じ信念体系なんです。科学的に実証されているだろうと言うかもしれませんが、実証されていると感じるのは本人の意識なんですから。
――実証されているからすごい、正しいというわけではない?
養老 だって意識が無かったら実証も何もないでしょ? ということは、飛躍に聞こえるかもしれませんが、科学は意識の産物ということになりますね。ならば、その意識は科学的に確証されているのか?
――なるほど。「科学的に正しい」と言っても、絶対ではないということですね。
養老 「意識とは何か」と問うていくと、神経細胞がつながって電気信号を起こしていると考えるのかもしれませんが、それでどうして意識が発生するのかわかっているわけではない。意識というのは科学的には基礎付けられていないんです。
――意識は科学で基礎づけられていない、なのに科学的であるということで正しいことが実証されたとみんな思い込んでしまう。
養老 だから、信仰に依存しているということなんです。科学的に実証されたことが正しいんじゃなくて、とりあえずそう認めていることだと捉えるのが一番理想的なんです。
――そう考えると、「科学的」という言葉も注意を要するというか、なかなか一筋縄には行かないものなんですね。
養老 物理学が成り立つのは、実験が単純化されていて簡単だから成り立つんです。実際の生物を扱うのとは根本的に状況が違うでしょう?
>だから、京都大学の山岡伸弥さんがやっているIPS細胞だって、普通は科学だと考えられているんでしょうが、あれは厳密に既存の細胞という舞台の上で作られたものですよね。
ということは、基本的にはサラブレッドの育成と同じことです。そこに絶対的な信念体系を求めるとしたらそれは間違い。私からすれば、人間が絶対的なものを考えるということ自体が不思議です。
どうして絶対的なものを信じることができるのか? 科学のなかにも、そういう矛盾は結構あるんですよ。論理的に考えていくとおかしなことが。
結論を求めない「宙ぶらりん」をいかに受け入れるか?
――そうした点をふまえたうえで、科学的という言葉をどう捉えていけばいいんでしょうか?
養老 僕は経験科学であるべきだと思っています。絶対的な信念体系に絡めとられず、とにかく経験的にやっていくしかない。
――経験科学ですか。
これに加えて、もう一つ面倒なのは、意識は後追いだということが証明されてきている点です。たとえば、水を飲みたいから水を飲むと皆さんは思っているけれど、実はそうじゃなくて、脳機能が先に水を飲むほうに向かって動き出した半秒後に水を飲みたいという意識が出る。
だから、頭の中でああしたい、こうしたいという欲求が起こることは、やむを得ない。脳が勝手に動くんだから。だけどそれを止めることはできる。つまり、「モーゼの十戒」は全部してはならないことになる。
――汝殺すなかれ、盗むなかれの世界ですね。
養老 そう。あいつを殺したいと思うことはあるけれど、殺してはならないっていう感じでしょ? こうした話をすると、脳が動いて、それを止めることができるというのは割合に理解できると思うんですが、それを認めるということは極端にいうと「念力」を認めることになってしまうんです。
――念力、ですか?
養老 だって、脳が勝手に動く物理過程に「殺すなかれ」という意識が干渉するということですから。そういう考え方をしていくと、意識の問題が最終的に出てくることはわかりますね?
するかしないかは本人が決定できるということです。当然、そこには社会的な責任感も発生します。科学的ということを突き詰めていくと、こうした問題に突き当たることになるんです。
――科学と言っても、最後の最後には意識の問題が出てくる……そうなってくると、それが絶対とは言えなくなってくる。結構しんどいですね。
養老 ええ。結論を求めない宙ぶらりんな状況で生きていくのはつらいことですから、状況がきつくなった場合、人間はどうしても白黒を付けたくなる。それは科学的というより政治的なものです。タバコを吸うか、吸わないかみたいな。
――賛成か反対かになっちゃう
養老 先ほども言いましたが、戦争中とかもそうだったわけでしょう? その状況では、こういう議論自体がゼロになってしまう。
つまり、どんなことを言っても、どっちに有利かということで白黒を判断する。この国はそういう状況に陥りやすいっていう癖があることを僕はよく知っています。
――そう言われると、日本の社会風土に一番顕著な傾向なのかなと思ったりします。
養老 魚の群れがいっぺんに水槽にぶつかるように、そうだということになったらいきなり動きますからね。そういう中で、僕が言っているような捉え方を根付かせるのはなかなか難しい。その意味では、この本もなかなか売れないかもしれません(笑)。そのへんは上手にごまかすしかない。
――ごまかすしかないんですね。それは確かに難しい課題です(笑)。
「外圧に弱い」のは悪いことじゃない
――シリーズ第一弾の本(「人の死なない世は極楽か地獄か」)をお読みになって、どのような感想をお持ちになったでしょうか?
養老 本川達雄先生がおっしゃっているようなエネルギーの話は面白ですよね。
たとえば、1次産業従事者が1955年頃で労働人口の4割。それがいま3%台ですよ。50年ほどのうちに、10分の1以下になってしまったんです。
なんでそうなったのか? それは本川先生が述べられているように、個人当たりのエネルギー消費量が40倍になったからですよ。自分の作っているエネルギーで仕事をするなんてバカなことはない。
――先生にご寄稿いただいた一節に、「人間の値打ちが下がった。40分の1になってしまった」とありますね。
養老 そう。値打ちが下がったんです。先ほどお話したような日本人の特性で全員がそっちをいいと思って進んでいって、結果としてそういう値打ちを下げる状況を作ってしまった。短期間のうちにこんなに1次産業を捨てた人が多いというのは、歴史的にも皆無に近いんじゃないですか。
言い換えれば、こんなにエネルギーが豊富な時代なんてもう無いということです。それは石油の時代だけ。ですから、私から言わせれば、代替エネルギーなんて考えているのはバカげていることです。何も深刻に考えていない証拠。
いいですか、エネルギーがあるならお前要らないよっていうのがいまの会社なんです。それが、一次産業の衰退以後ずっと起こり続けている。そうした状況では、どうしても過剰なものを作らざるを得ない。
――そう考えると、昨今のエネルギー問題は捉え方がずいぶん表面的なんですね。
養老 この10~20年ほどの間にアメリカで発生していることは、本当象徴的でしょう? エネルギー危機が起こった。石油が切れた。アメリカ人だってバカじゃないから、できるだけエネルギー使わないで人間が暇つぶしすることを考えた結果、グーグルに頼るようになった。
――なるほど。日本の社会はこれからどうなるでしょうか?
養老 日本人っていうのは均質に動くんですよね。別な言葉で言うと、いろんな事が起こっても社会は世間の安定平衡点に立つんですよ。それがとても早いんです。
よその社会では革命が起こっちゃう状況でも、日本では一箇所にまとまって修復しちゃって、常に安定平衡点に落ちる。僕はそれを打ち破るのが「外圧」だと思っています。つまり、外部からエネルギーが注入されると動くんですよ。それを回収するように。
――外圧ですか。
養老 外国の人は「日本は外圧に弱い」と単純に言うけれど、それは外圧がきちんと反映されるということなんですよ。
アメリカに依存してるとか、そういう捉え方は違うと思いますね。もっと構造的なもの。そもそも、ホントに親アメリカの人ってどれくらいいるんですか。
――どうなんでしょうか? 世間一般の人はあまりピンと来ていない気もします。
養老 イデオロギーというのはかなり表面的なもので、その根底にあるものはもうちょっと違いますよね。
――まあ、アメリカが余程おかしくならない限りこれが続くということなんですかね。では、いま話題になっているTPPとかも……。
養老 私がいう意味での外圧ですね。それを上手に使えれば社会は変わるかもしれません。要するに日本を動かすには外圧しかないんですよ。
信念体系を疑い、確かな「モノ」を前提にする
養老 たとえば、私の娘が小学校のときに「お父さん宇宙の果てってどうなっているの?」と言うんですよ。
「ここにモノが入っている空間があるだろ? モノには果てがあるけれど、この空間に果てなんかもともと無いんだよ」……そういう説明をすると怒るんだよ。そうでしょ?(笑)
――普通は空間にも果てがあるようにイメージしてしまいますね。
養老 宇宙の果てっていう言葉を使うときに頭の中に浮かぶのは、立体と同じ、ある空間的なリミットを持ったものですよ。
だけど、宇宙の果てっていう空間ですからね。それはそもそもリミットが無いんです。そうしたリミットが無いっていう概念そのものが子どもの頭には入らないんですよ。
自分がその物体をモデルにして空間を考えるから。何も無いものを考えることはできませんからね。
――それって、子どもに限らないですよね。しかも、一度そういうイメージを持ってしまうと、なかなか離れるのが難しい。
養老 話がそういうところにかかってくると、「先生の話は難しいですね」っていう人が多いんです(笑)。それは僕が前提を言うから。そうすると途端に分からなくなっちゃうんです。先ほど言ったように、自分の旧来の信念体系を持っている人にとっては、それとうまく噛み合わなくなって混乱するわけです。
――その信念体系を見直すって言う人はいないんですかね。
養老 少ないでしょうね。これも先ほど言いましたが、僕自身が非常に良かったと思うのは終戦を体験したことですね。小学二年生の頃のことですが、周囲の大人が全部と言っていいくらいに意見をひっくり返すんですよ。
――信念体系を疑うきっかけになったということですか。
養老 疑うも何も、疑うことが当たり前になりました(笑)。
――リアルには想像できませんが…先生の世代以降はそんな経験はあまりないでしょう?
養老 団塊の世代とは10年しか違わないのに、まったく違いますからね。彼らは平和と民主主義で生きてきたわけで……。
――それが崩れると言うことはよほどのことですよね。そういう体験があるのか、ないのか……。
養老 おもしろいのは、明治維新がどういう影響を与えたのかというと、西郷隆盛とか坂本竜馬とかの名前はすぐ出ますよね。でも僕の考える明治維新というのはそうじゃないんですよ。北里柴三郎であり、野口英世であり、志賀潔であり……何かって言ったら、みんな理科系に行ったでしょ?
戦後の日本がモノづくりで高度成長したのと全く同じなんですよ。徳川300年の価値体制を完全にひっくり返したときに、その時代の子供たちがどう思ったか?
信用できるものは、社会のイデォロギーとかじゃなくてモノだという、そうした感覚を持ったのではないか? だから、北里柴三郎の本音は「ベルリンだろうが熊本だろうが、バイ菌に代わりがあるわけじゃない」ということになる。
――うーん、確かにものすごくたくさんの変化がありましたよね、あの時代は。
養老 その経験のない世代は、やっぱりモノにこだわることはできないでしょ? 僕がモノにこだわるのは、それが信用できるっていうことを知っているから。逆にそれしか信用できない。そこで間違えたら明らかに問題とわかる。
――モノにこだわれないと、世の中が社会科学系に偏っちゃいますね。
養老 だから、僕は社会科学系なんて一切信用してないもの(笑)。いったいどこに拠って立っているんだよ、と思って。
――モノづくりにこだわる理由は、先生の世代ではそういう背景があるんですね。
養老 そうです。僕らや僕らよりちょっと上の世代は、一切理屈を言わないで一生懸命車を作ったり、計算機を作ったりしていた。なぜかというとあいつらは嘘をつかない。ひっくり返るものがない。僕の信念体系はそれですよ。
――嘘をつかないものに拠り所を置くと。
養老 「科学ってなんですか?」と聞かれたら、僕は「自分で責任が取れる体系」と答えるでしょうね。
言ったことがおかしかったら、それはこちらが間違いなんです。他の部門だといくらでも的外れな言葉で言い訳ができますが、そうはいかない。
――自分で責任が取れるって言うのは、一次産業従事者と同じですね。
養老 もしこういう仕事しなきゃ一次産業をやっているね(笑)。
一次産業も嘘をつけない、間違えたらだめですからね。結果が自分に返ってくる。今年は不作だとか、肥料のやり方を間違えたとかね。
――自分が悪い、改善の余地は自分にあると。
養老 それが一番人を育ててくれる場所でしょう。僕は科学をそうしたものとして捉えているし、この点について過去に本も出しています。
(バク論シリーズ)にも)、こうした科学的な捉え方を促すような本作りを望みたいですね。
構造主義生物学の第一人者で、日本の科学分野を代表する論客の一人として知られる池田清彦先生(早稲田大学国際教養学部)監修のもと、1つのテーマ について各分野の専門家が様々な角度から発言をする、これまでなかったサイエンス・オピニオン書籍シリーズ、それがこのたび新たにスタートした「バク論」 です。
今回取り上げた「寿命」のように、今後も「いま最もホットなテーマ」に焦点を当て、読んでためになり、生き方の見直しにつながる“サイエンス・オピニオン”を提供していきたいと考えています。最新情報はこのサイトで紹介していきますので、ご期待ください!
監修者メッセージ
この「バク論シリーズ」の面白いところは、毎回いろいろな分野の識者に集まっていただき、一つのテーマに対して右から左からつっこんでかきまぜる、そうしたこれまでのサイエンス系の書籍になかったディベートの場が提供できるところにあるでしょう。
第1弾で取り上げた「寿命」のように、読者の皆さんがごく普通に関心を持っているテーマを設けていますから、自分なりに読んでみて、「これには賛成! これには反対!」という感じに思索の幅が広げられるはず。もちろん、別の意見を持っているという方は、「オレに書かせろ」と名乗りをあげていただいてもいい(笑)。
自分の意見をただ押しつけるのではなく、まずは他のいろいろな人の意見を聞いて考える。そのためには、そうしたいろいろな意見を同時並行して読むことができる一冊があってもいいでしょう? 特にサイエンス系の分野の場合、学会や一人の編者が一つのテーマで本をまとめても、自分たちの考えに賛同する人を集める傾向にありますから、右から左からというわけにはいかない。自分の意見が強い人だと、「あいつには絶対に書かせない」ということが出てくるでしょ? 僕に言わせれば学会というのは権威ではなくセクトですから、なかなか自由な議論にはならないんです。
その点、僕みたいないい加減な学者が編者(監修)をやっていれば(笑)、内容がガチガチにならず、もっと自由な本が作れるでしょう。まあ、地球温暖化に反対という人と賛成という人がいっしょくたに登場するようなイメージです。毎回ほかでは見られない異色の組み合わせもあって、新しい知見や意外な発見が得られるはずです。読者の皆さんのご意見を取り入れながら、今後も多様なテーマに挑戦していきたいと思っています。
池田清彦