疾走するネット・ダイナミズム

第5回 コンテンツ規制はどうあるべきか?――モバイルコンテンツフォーラムに聞く

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「画一的フィルタリング」の無謀

再び岸原氏の言葉だが,

「インターネットは本来自由であるべきだが,いまや一般社会と同じレベルまできているので,すべてを利用者責任で済ませるわけにはいかない。業界でルールや規制を整理する。その上で必要な法整備を考えればよいのではないか。政府からモバイルやインターネットの規制が発せられたとき,海外の投資家はこぞって日本のネット市場はダメになると判断する。さらなる官製不況を作らないためにも,モバイルビジネスを活性化するためにもまず民間の動きを見てほしい。」

と述べている。

総務省も12月の要請のあと,4月に入ってから,未成年者のフィルタリングはブラックリスト方式が望ましいが,設定はユーザが任意に変更できる状態にするという追加要請を行っている。また,フィルタリング情報については,リスト作成やレーティングを行う第三者機関も活用せよとしている。まだまだ過渡期の混乱は続きそうだが,少なくとも画一的なフィルタリングは問題との認識は行政側も持っているということだ。政府(与党)がどう思っているかは微妙だが,関連のある「ネット上の有害情報」に関する規制では,有害情報の判断は第三者機関が行うという発言も出始めている。

それでも国による規制はけしからん,業界の自主規制も新たな差別や情報遮断を生むという意見もあるが,個人的には,完璧な規制やフィルタリング機能などしょせん不可能だと思うので,現実的な落としどころを探る必要があるとも思う。完璧でなければすべてNGでは議論にもならない。客観的に評価できる事象でも,万人にとって正しい結論を導くこと(それ自体が主観的なので)はまず無理といっていいだろう。

そもそも,未成年に対して一定の権利制限を行うことがそれほど深刻な問題だろうか。主体性とローカルルールを認めつつ段階的に制限を調整していくのが普通だろう。だとしたら,MCFの主張や総務省の一連の要請は,絶望的な隔たりというほどではない。事実,岸原氏によればPTA関係者との会合などで,自分たちの考えを否定する人はいないという。問題は規制の運用をどこまで法律で規定するか,だ。

総務省の要請は,フィルタリングの解除や設定変更は親権者の同意が必要としており,これが適正かどうか意見の分かれるところだが,セーフティネットを考えるならやむをえない部分もある。レーティングの第三者機関にしても,特定の団体を前提としたものではなく,それが複数存在してもかまわないとしている。実際,EMAと同様な別の監視組織も設立されている。通信キャリアやプロバイダ,コンテンツ制作者としては,どのようなフィルタリング機能を実装するか,どの団体の審査やレーティングを受けるかが,商品安全の差別化要素となる可能性もあるということだ。こうなれば,選択肢の多様化,競争原理という点では好ましい状態のはずだ。個人的には,いいフィルタリング機能なら無償でなくてもよいと思っている。無償だけど使えないものになったり国に管理されてしまうなら,ビジネスの原理で動いてほしいからだ。フィルタリングは業界を衰退させるかもしれないが,新しいビジネスチャンスにすることも不可能ではないと思う。

「規制か反対か」よりもセーフティネットを

新しい技術やメディアが登場すると新しいルールも生まれる。このルールは,規則や規制を強化する方向だけではない。あらゆる新しい手順,文化などといった広い意味での「ルール」だ。電子メールは,ビジネスレターのスタンダードを変えつつある。携帯電話は「待ち合わせ」という行為を変えているかもしれない。マクロ的な部分では原子力技術は世界のパワーバランスを変えているし,遺伝子工学や生殖医療は,人間の生死や家族という概念を変えようとしている。

技術そのものは,人権とか正義とか悪とかいった概念には実はなじまない。そのメディアや技術が良いとか悪いとかいった議論は本質的に意味はない。それを規定するのは社会でしかない。社会では一部の暴走を防ぐためにセーフティネット(三権分立とか選挙制度とか)が必要だ。技術やメディアも同様だと思う。規制というと生理的に拒絶反応を示す人もいるが,そうさせないための自治や自律であるはずだ。規制にただ反対するだけでは手段が目的化する愚にも陥りやすい。

岸原氏は,こうも言っていた。

「官僚主義は肯定しないが,官僚の縦割りや縄張り意識,族議員などは,結果的にセーフティネットの機能を果たしていた面もある。とんでもない法律はできにくい構造ともいえる。その意味で議員立法には注意が必要だ。官僚,審議会,委員といったレイヤでのチェックが入らず法律ができてしまう。」

これは,副作用としてセーフティネットの機能があったということで,あるべき姿ではないが,法律による規制はそれだけ危険であり慎重を要するということだ。日本の法律は,違法行為を明確に規定して処罰する傾向が強い。よく,取り締まる法律がないから処罰できない,という状況があるが,そういうことだ。これは,政府や警察が恣意的に法律を解釈するような暴走や統制を防ぐ効果がある反面,不正や脱法行為に対処療法的な規制を生みやすい面もある。

フィルタリングの問題もまさにこの状態といえる。総論でなんらかの規制は必要だからといって,安易に法制化するよりも運用面やアーキテクチャをまず工夫する必要がある。フィルタリング,レーティング,教育,自主規制など,多角的なアプローチが重要だ。そして,もっとも重要なのは,それらを子供たちやわれわれがどのように適用するかだ。この場合,画一的な適用がよいとは誰も思わないだろう。それぞれのポリシーや事情にあわせた修正主義的な適用ができなければならない。

そのためには,それぞれの思惑はどうあろうとも,いろいろな立場からのフィルタリングポリシー,レーティング情報,教育方針が存在すべきなのだ。

著者プロフィール

中尾真二(なかおしんじ)

1961年生まれ。ハードウェア・コンピュータ技術者からアスキーに転職し,およそ10年ほど技術書籍・雑誌の編集に携わる。その後,オライリー・ジャパンで5年ほど企画・編集に従事。編集長時代に当時の日本法人社長とケンカしてクビに(笑)。現在はRBB TODAY,レスポンス他でニュース,コラムなどを編集・執筆。