[自転車イラスト紀行]徒然走稿

第三十三回「野外食」

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多摩よこやまの道の道を走った。

このコースは尾根上に延びているので,ルートにはお店らしいお店はない。

とはいえ,町中であることに間違いはないのだから,尾根から降りれば飲食店には事欠かない。しかし,せっかく緑の中を走っているのだから,コース上でお昼をとるべく,ワンバーナーとコッフェルを持参した。

お昼の場所はコース中程にある小さな公園の小さな芝生広場の上。

自前のお握りと,袋入りのインスタントラーメン。具はコンビニで買った豚の角煮と味付け卵。薬味に前もって刻んでビニルに入れてきたネギをぱらり。

角煮の味付けが少し甘くてくどいけど,サイクリングの途中であればかえっておいしく感じる。

まだ,冷たい風が混じる時期には温かいメニューがうれしい。食後に入れるティーパックの日本茶がまたうれしい。

秋口から春先にかけての自転車旅にワンバーナーは欠かせない。北風で冷え切った体を,温かい食べ物と飲み物は内側から元気づけてくれる。

お湯を沸かしている火を見ているだけでも和まされる。人はプロメテウスに感謝なくてはいけない。

故に,オール電化などで子育てをして,火を扱うことのできない人間をつくってしまうことは,人として退化した種をつくり出すことに等しい……などという勝手な持論は話を横道にそらすだけなのでおいておこう。

ワンバーナー,伝統的な呼び方でい言うと"ストーヴ"を使って初めて自炊したのは十代の時,周遊切符を使って徒歩(電車は使います)で北海道をぐるりと回ったときだった。

高校生だった私には無論のことながら暇はあっても金はなく,なるべく夜行列車で移動して車内で寝るか駅舎で寝るという計画を立てた。

しかし車内と駅舎に寝ることに限定してしまうと行ける範囲が狭くなる。そこでテント泊も可能にしたいと思った。

アウトドアなどという言葉も聞かなかった時代,一般家庭で野営の道具をそろえている家はなかった。

幸いなことに親戚が大学山岳部の顧問していたので,そこからキャンバス製の登山用リュックサック(分厚いキャンバス地,なにも入れなくても重い)⁠六人用テント(分厚いキャンバス地と鉄製ポールの三角テント,とても重い)⁠寝袋,そして灯油ストーヴ(四角くて赤い缶に入っている真鍮製,とても重い)を借りることができた。

このストーヴ,ずっとホエーヴスだと思っていたけど,この稿を書くにあたり調べ直してみたらどうやら国産のマナスルだったようだ。ネットにアップされていた赤い缶と,赤と青の表紙の説明書に見覚えがある。

これらをザックに詰めて車中の人になる。

どうみてもバックパッカーには見えない。実際に車中で「夏山を縦走するのですか」と勘違いされた。

周遊券では急行列車までしか乗れないから(無論,特急料金を別途支払えば特急に乗れるんだけど)⁠列車と青函連絡船を乗り継いで,函館にたどり着くまで20数時間かかった。寝台券も買えないから,背もたれの倒れない車中で長時間過ごすのがとてもつらく,青函連絡船で手足を伸ばして寝転んだとき,なんとも言えない幸せを感じた。

この旅の間,ほとんどの食事はストーヴのお世話になった。

このストーヴというのは,ポッチをひねるとぱっと火がつくというような便利なものではない。

本体を組み立て,如雨露を使って燃料を入れ,燃料タンク内の圧を高めて燃料を送り出すため付属ハンドルを引き出して,シュコシュコと押して引いての「ポンピング」という作業を行い,さらにプレヒート(受け皿にアルコールを入れて火をつけて,ジェネレーター/燃料噴射装置を暖めてやる)して,やっと「点火」の時を迎えることができるのだ。

口で言っても簡単じゃあないけれど,実際に点火するのはもっと簡単じゃなく,ブブブブっと生の燃料が吹き出してしまったり,煤がモウモウと出たりと,慣れるのにしばらく時間がかかった。

しかし慣れてしまえば,こんなに頼もしい相棒はいない。雨が降っていようが,風が吹いていようが,ちゃんと火がついて,短時間でお湯を沸かしてくれる。

札幌や稚内の駅前でインスタントラーメンを作っていると,ぞろぞろと降りてくる観光客が「いいニオイだねえ」⁠昼はラーメンだな」なぞと,こちらに話しかけるような,仲間内で話しているような口調で通り過ぎてゆく。

夏でも冷え込む誰もいない網走駅ではストーヴの火が何よりのご馳走だった。

阿寒湖では,ホテルの中庭を広場だと思いテントを張ってしまい,調理をはじめるとすぐに黒いスーツを着た男に追い出された。ストーヴのゴォーと燃える頼もしい音か,コッフェルから勢いよく立ち上る湯気を誰かに見られたのかもしれない。

この旅で ,今まで(未だに)で一番おいしいと思える野外食と出会った。

白老で食べたスープスパゲッティだ。

旅にあたって,友人たちがアメリカ製のベーコンの缶詰を餞別に送ってくれた。

重かったから早く食べてしまえばよかったのだけれど,みるからに美味そうなラベルにもったいないもったいないと先送りにしている内に,日本海,オホーツクと周り太平洋沿いに戻る旅の最終工程に入ってしまっていた。

降るような星空の下,誰もいない草っ原にテントを張り,寝床を整え,缶詰を開けた。

たっぷりのスープの中に,ごろりと赤いベーコンの塊が沈んでいる。

ストーヴでお湯を沸かし,スパゲッティーをゆでて湯を切り,そこにスープごとベーコンの塊を放り込んで,さらに暖める。

ベーコンの他には何も入れない。

そこいら中,肉の脂のニオイが広がる。

「文句も言わずに運んできたんだから,これくらいのものを食べる資格はあるさ」

独り言が星空に消えた。

このスープスパゲッティには謂われがある。

ヘミングウェイの短編集に収められた『二つの心臓の大きな川』という作品にその元になった料理が登場するのだ。

『二つの心臓の大きな川』は,若き日のヘミングウェイとおぼしきニックという背年が,単独でテント泊の釣行にでかける様子を描いた淡々とした一編だ。

手に入りやすい『ヘミングウェイ全短編1 われらの時代・男だけの世界』⁠高見浩=訳 新潮文庫)から抜粋してみる。

あらためて空腹を覚えた。こんなに腹をすかしたことは,いままでにないくらいだ。最初にポークと豆の缶詰,次にスパゲッティの缶詰をあけて,中身をそれぞれフライパンにあけた。⁠文句も言わずに運んできたんだから,これくらいのものを食べる資格はあるさ」ニックは言った。その声は暗くなりつつある森に異様な響きを残した。それきりもう,声を出さなかった。⁠中略)炎の揺れるグリルにフライパンを乗せた。腹がますますへってきた。豆とスパゲッティが温まってきた。そいつをスプーンでよくまぜた。泡が立ってきた。いくつもの小さな泡が,じわじわと浮かび上がってくる。いい匂いがしてきた。⁠中略)ニックは中身をの半分をブリキの皿にあけた。それはゆっくりと皿に広がった。まだ熱すぎることはわかっている(中略)もういいだろう。皿からスプーンいっぱいにしゃくって,口に運んだ。⁠やったぁ」ニックは言った。⁠こいつはすげえや」思わず歓声をあげた。

書き写していても唾がわいてくる。ましてやニックはここまで辿り着くのに,はるばる荒れ地を横切り,松の根を抜いて地面をならし狭い平らな場所を確保した後,ペグまで手作りする野営の支度を終え,たき火を起こした上で,このスープスパゲッティにありついているのだ。プレヒートどころではない。

豆とポークではないが,自分の中ではヘミングウェイ風のスープスパゲッティにむしゃぶりつき,油だらけの汁一滴残さず平らげ,満足しきって,テントから半身を出して星を眺めながら眠りについた。

そのまま気持ちのいい朝を迎えるはずが,夜中に懐中電灯を持った制服姿の男に起こされる。

「ここは国立公園なので,許可された場所以外での野営は禁止されています」とのこと。仕方なく,撤収を始めた姿に哀れを催したのか,心優しい警備員(警官だったかもしれない)は,早朝,人が出始める前に退去してくれればいいと1泊することを許してくれた。

これが最後の贅沢になった。

この後,白老を出て室蘭,洞爺湖を回って函館に戻る。

貧粗に過ごしたにもかかわらず,もとから底の浅い所持金は150円になり,手持ちの食料もからっぽになった。

北海道と都内の国鉄(まだJRではない)は周遊券で乗ることができる,しかし,このお金を使ってしまったら渋谷から私鉄に乗る切符を買うことができなくなる。

しかし襲いかかる空腹に勝つことができす,函館で大きなフランスパンを買ってしまった。

これを少しずつ囓りながら,20数時間かけて東京に辿り着いたときには,まさに「これほど腹が減ったことはない」状態であった。

渋谷から浜田山にある下宿まで歩けばいいや,と思っていたけど,いざ帰り着いてみると,空腹と荷物の重さに押しつぶされてとても歩くことなどできない。

残った数十円で「家にいてくれ」と祈りつつ友人に電話をかけ(無論,携帯電話もない。不在で十円玉が尽きればアウトだ)渋谷駅まで迎えにきてもらった。持つべきものは友達である。

マナスルの灯油ストーヴは,しばらく手元にあり,意味もなく料理に使ったりしていたが,山岳部の活動が本格的になる冬前に返した。

その後,野営旅行に出かけることもなくなった。

数年後,子どもが生まれ,あいかわらず金のない家族の娯楽としてキャンプは復活した。

最初のファミリーキャンプ用に買ったプリウスのガスワンバーナーは,いまだに自転車旅の相棒として活躍してくれている。

著者プロフィール

杠聡(ゆずりはさとし)

イラストレーター,ライター。東京都日野市在住。技術評論社刊の単行本カバーなど広告,出版でのお仕事をベースに,自転車旅行で出会った風景や人を題材にした作品づくりを続けています。

URLhttp://www.yuzuriha.com

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