『電網恢々疎にして漏らさず網界辞典』準備室!

第3話 PINK FLAMINGOS

出社した和田は、廊下で佇んでいた高野くんにつかまった。身長178センチ、体重58キロ、IQ66(すべて推定⁠⁠。陥没乳首のような口を持つ、ニキビ面のネズミ男。今どきBLでしか見ない銀縁メガネをかけている。

慶大卒。営業一部の腕利き営業マン。この会社の数々の有名プロジェクトを陰で支え、成功に導いてきた。父親は衆議院議員、母親は美術評論家、モサドに叔父さんがおり、商社の社長の従兄弟がいる。一族は全員政治家か医者か実業家しかいない。高野くんもいずれ政治家になるらしい。全部自称。ひとつも本当のことはない(と和田は思っている⁠⁠。⁠虚言癖の男⁠と異名をとる由縁である。

ヒマなときには高野くんの話も楽しいが、今はそうではない。早めに部署に行って準備をしたい。和田は急いでいるので…と高野くんをスルーしようとしたが、危険なオーラを感じて思いとどまった。高野くんが他人の言葉や気持ちにひとかけらの注意も払わないのは、いつものことだが、鳥肌の立つような殺気を放つことが稀にある。そういうときは、逆らわない方がいい。痛恨の一撃を食らいかねない。

  • 「この間も社長に呼ばれて意見をきかれてさ。困っちゃったよ。いちおう僕のわかる範囲で教えてあげたけどね」

高野くんは和田と目を合わせず、床の一点を見つめたまま話し続けている。和田は無言で、BackBeat GOのイヤホンをはめた。脳内に大正浪漫のダンスホールの映像が広がる。

『ダンスダンスデカダンス』を聴きながら高野くんを見ていると、遠い世界の生き物のようだ。うまく人間のふりをしているつもりなんだろうけど、できそこないの虚言男子にしかなれなかった。なりそこないの異邦人。誰か早く教えてあげてください。君には人間なんて仕事は向いてない。どんなことにも才能が必要。君は遠い世界で自由に生きた方が幸福だよ。和田は憐憫の情を抱いた。だが、その思いを表情に出さないようにした。高野くんに隙を見せると、⁠この女は僕に気がある」と思われる。

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ふと気がつくと、少し離れたところで倉橋歪莉が怯えた表情を浮かべてこちらを見ていた。歪莉は和田と目が合うと、悪いことを見つかった子供のように頬を赤らめて顔を伏せた。それから、ムーンウォークのようなすり足で去っていった。

一心不乱にしゃべり続ける高野くんと、うなずきながらヘッドフォンでなにかを聴いている自分の姿は異様に見えるのだろうな、と和田は思った。

始業時間少し前に網界辞典準備室に和田が入ると、すでに他の社員たちは席に着いていた。全員が和田を見る。微妙な空気。冷めたお風呂の温度。暖めなければと和田は思う。

  • 「おはようございます」

そう言って、和田が軽く頭を下げると他の社員も少し頭を下げて、口のなかでもごもご言った。よそよそしい。

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自分の着ている鮭をモチーフにしたスーツに驚いているのかもしれない。カナダのファーストネーションのデザインだ。香水のせいだったら嫌だな、と和田は思う。和田は香水はあまり好きではない。だが、緊張すると自分の身体から甘酸っぱい匂いが出る。人によってはひどく官能的に感じるらしく、誤解を受ける。それを避けるために、今日はブルガリのブルーオムをつけてきた。

  • 「あたし……なにも見てませんから」

席に着くと、和田を見ないようにしながら歪莉が言った。

  • 「見てたでしょ。あたしと高野くんが話しているところ」

この人は、どういう気の回し方をしてるんだろう? 和田は、机の上に資料を置きながらかすかに笑った。

  • 「普通じゃなかったです」

  • 「高野くんがね」

  • 「……和田さんはヘッドセットをしてました。おかしいです」

  • 「高野くんはしゃべりたかったし、あたしは歌を聴きたかった。だからそうしていただけです。倉橋さんは立ち止まっていたいわけでもないのに、立ち止まってました。おかしいのは倉橋さんだと思います。違いますか?」

和田がさらりと言うと、歪莉は泣きそうな表情を浮かべた。この人は、いじめられている時の顔がかわいい、と和田は思った。

  • 「……あたしもそう思っていたところです。あっ、また言ってしまった」

  • 「一回言うたびに額に『肉』って書きましょうか?」

和田がそう言うと、歪莉は固まった。顔から血の気が失せて唇が震えている。

  • 「あなたは霊能者ですか?」

  • 「なんの話です?」

  • 「私が高校時代、額に『肉』ってマジックで描かれていたことをなぜ知っているんです?」

さすがの和田も、いささか動揺した。触れてはいけないトラウマに思い切り手を突っ込んでしまったらしい。ただならぬ歪莉の様子に、室内の温度が一気に十度くらい下がる。全員が無言で、歪莉を見つめる。

  • 「毎日教室に入ると、誰かが私の額に『肉』って描くんです。当番まで決まってました。肉当番です」

不覚にも和田は⁠肉当番⁠という言葉を耳にして笑ってしまった。同時に他の室員も笑い出した。室内の温度は元に戻った。

  • 「ああ、よかった。冗談だったんですね」

和田が笑いながら、そう言うと、

  • 「なにを言ってるんです。冗談なんかじゃないです。ほんとに肉当番がいたんです」

歪莉はむきになって言い返した。

  • 「倉橋さん、受けたからって何度も繰り返すとつまらなくなりますよ。あたしは倉橋さんにつまらない大人になってもらいたくありません」

  • 「私はもう大人ですよ」

  • 「残念ですけど、この部屋にいるのは全員子供です。自覚なしに年齢だけ重ねた醜い子供たちです。ここは大人の『いやいやえん⁠⁠」

  • 「……醜い子供」

  • 「⁠⁠私は大人にはならなかった。ただ醜く年をとっただけだ⁠……不世出のSF作家R・A・ラファティの言葉…あたしの座右の銘です」

そう言うと和田は立ち上がった。部屋の空気はあたたまった。そろそろいいだろう。全員の視線が和田に集中する。さすがに緊張する。身体の奥から、あの匂いが立つのを感じた。胸がきゅっとする。

  • 「みなさんも立ってください。本室の発足に当たり簡単ですが、抱負を申し上げたいと思います」

和田が平静を装って、そう言うと全員が立ち上がった。歪莉も納得できない、暗い顔のまま立った。

  • 「和田安里香です。昨日付で網界辞典準備室長代行を拝命いたしました。常務の宮内さんが名目上の室長ですが、他の業務でお忙しいため、実務は全てあたしに一任されております。この室の一員である限りは、あたしに従っていただきます。高邁かつ遠大な計画の実現めざしてがんばりましょう」

和田は無表情のまま、淡々と語った。笑顔を見せるべきかどうか迷ったが、なめられないように、やさしそうなそぶりは見せないことに決めたのだ。

今週登場したキーワード 気になったらネットで調べて報告しよう!

  • 『ピンクフラミンゴ』
  • 『ダンスダンスデカダンス』
  • ファーストネーション
  • ブルーオム
  • 『いやいやえん』
  • R・A・ラファティ
和田安里香(わだありか)
網界辞典準備室長代行 ネット系不思議ちゃん
年齢26歳、身長162センチ。グラマー眼鏡美人。
社長室。頭はきれるし、カンもいいが、どこかが天然。宮内から好き勝手にやっていいと言われたので、自分の趣味のプロジェクトを開始した。
倉橋歪莉(くらはしわいり)
法則担当
広報室。表向き人当たりがよく愛されるキャラクターだが、人から嫌われることを極端に恐れており、誰かが自分の悪口を言っていないか常に気にしている。だが、フラストレーションがたまりすぎると、爆発暴走し呪いの言葉をかくつらねた文書を社内掲示板やブログにアップする。最近では『裸の王様成田くん繁盛記』というでっちあげの告発文書を顔見知りの雑誌記者に送りつける問題を起こした。
口癖は「私もそう思ってたところなんです⁠⁠。
水野ヒロ(みずのひろ)
網界辞典準備室 寓話担当
年齢28歳、身長178センチ、体重65キロ。イケメン。
受託開発部のシステムエンジニアだった。子供の頃からあたりさわりのない、優等生人生を送ってきた。だが、最近自分の人生に疑問を持つようになり、奇妙な言動が目立つようになってきた。優等生的な回答を話した後に「そんなことは誰でも思いつきますけどね」などと口走るようになり、打ち合わせに出席できなくなった。
内山計算(うちやまけいさん)
網界辞典準備室 処理系担当
年齢32歳、身長167センチ、体重73キロ。大福のように白いもち肌が特徴。
ブログ事業部の異端児で、なにかというと新しい言語を開発しようとするので扱いに困っていたのを宮内が連れてきた。
コンピュータ言語オタク。趣味は新しい言語のインタプリタ開発。
古里舞夢(ふるさとまいむ)
年齢36歳。身長165センチ、体重80キロ。
受託開発部のエンジニア。極端な無口で人見知り。
和田のファン。何かというと和田に近づき、パントマイムを始める。どうやら彼なりの好意の表現らしいが、和田を含め周囲の全員がどんな反応をすべきかわからなくなる。

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