『電網恢々疎にして漏らさず網界辞典』準備室!

第24話 『BUNRAKU』ヱヴァンゲリヲン以降の日本文化は現象学的還元の繰り返しによってリアルを解体し,本質直感である『萌え』を経由して,哲学とヴァーチャルリアリティを融合させた。

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倉橋歪莉は暗闇の中で頭を抱えていた。現象学少女なんて呼ばれても,なにをすればいいかわからない。そもそも自分は,少女などと呼ばれる年齢ではないし,デブでオタクの内山に『少女』と形容されるといまだに処女であることを見すかされたようで恥ずかしい。それにしても,最先端のIT技術を追っている内山が行き着いたものが,哲学とヴァーチャルリアリティの融合とは意外だ。

  • 「倉橋さん,現象学少女として,記憶しておいてほしいことを説明します」

内山に言われたことはなにひとつ理解できなかったし,理解できないものは記憶できない。数日後に,内山の指示に従ってOculusRiftを装着して室員の言語視野にダイブし,実況するなんてミッションインポッシブル。

帰りがけにイケメンの水野が心配そうに声をかけてくれたのが,せめての救いだ。でも,いつも社食で自販機のコーヒーというのは,どう考えても安く見られているとしか思えない。おごってもらって不満を言うのは本意ではないが,せめてスターバックスにしてくれないものだろうか? スターバックスのぼったくりぶりには腹が立つが,ドトールに入ると明らかに女子力が下がるので,純な乙女の二律背反。

  • 「倉橋さんから目を離せないんだ」

え……それって告ってるの? 社食で? 水野の言葉で歪莉の心は,雲雀のように舞い上がった。

  • 「見ていると,放っておけない。時間はかかるかもしれないけど,きっとよくなるから。治るさ」

とたんに,コアジサシのように急降下して水に沈んだ。あたしは,病気じゃありませんと言いかけ,否定すると余計にそれっぽいと思い直した。

どうやら水野は,歪莉のことを心の風邪だか麻疹をわずらった人と思うことにしたらしい。モノクロのワンダースワンを後生大事に守るような,庇護者気取りは止めてほしい。どうせなら,メガドラみたいにちやほやされたい。それとも平成の智恵子抄を気取りたいのか。これというも無理難題を押しつける室長代理の和田のせいだ。

  • 「私もそう思ってたところなんです」

でも口から出たのは,いつもの同調圧力受容言語。自分が憎い。

歪莉は強引に追憶を断ち切った。

─⁠─現象学ってなんのことかなあ

つらくなった時は,TwitterやLINEで慰めてもらうが一番だ。友達も恋人もいない者たちの,その場限りのは儚いパラダイス銀河。ここには,見せかけの優しさが東京ドーム五百個分は埋まっている。

速攻でリプが来たが,それもまたなにを言っているかわからない。超越論的還元とか,形相的還元とか,わけがわからない。

─⁠─あたし,現象学的還元されそうなんですけど,これって大丈夫なのかな?

タイムラインに草が生える。なんだか受けたようだ。

─⁠─ヱヴァンゲリヲン以降の日本文化のテーマは,現実世界を現象学的還元によって解体し,本質直感に至り,世界を再構築することにある。

─⁠─はあ。難しい……

─⁠─簡単だよ。だから,どのアニメにもエスノメソドロジー的実験が含まれている。

─⁠─エスノメソドロジー的実験って?

─⁠─間主観性を共有していない相手との会話。

─⁠─はあ?

─⁠─リアルの解体には贄となる現象学的少女が必要で,それによって世界は解体され,究極の萌えに至る。

止めて欲しい。したり顔で解説しているつもりなんだろうけど,⁠パンダ餅ってなんですか?」という質問に「コパン餅のパンダ版といってもよいだろう」ってわけのわからない回答をするようなのだ。すると,歪莉は「コパン餅ってなんでしょう」と質問するはめになり,同じことが永遠に繰り返され,わからないことだけが幾何級数的に増えてゆく。

夜が白め始めるまで,Twitterで意味不明なことを話していた。こんなことになるなら,メンヘラ垢にこもって,⁠死にたみがましてる」とか言ってちやほや慰めてもらえばよかった。後悔先に立たず,SNSは人を救わず。

雀のさえずりが聞こえる。外の空気を吸おうと思い,歪莉は部屋を出た。

マンションのエントランスを出たところで,ばったり屍屋の輪子にでくわした。動物の死体を拾ってリヤカーに乗せて運ぶ不思議な少女。この少女に出会うたび,自分はすでに気が狂っていて幻覚を見ているのではないという不安に陥る。世界に冠たる大都会東京に,死体集めの少女がいるなんて妄想以外のなにものでもない。

画像

  • 「おはよう」

歪莉は小走りに輪子に近づいた。実在を確認するように,横に立って一緒に歩く。

  • 「ああ,あんたか」

輪子は歪莉の顔を横目で確認すると,興味なさそうに答える。

  • 「今度,会社で現象学少女をやることになっちゃって……」

なんで屍屋にこんなことを話しているんだろうと思いながら,歪莉は問わず語りに近況を話し始めた。

  • 「自分語り,うざい」

ややあって輪子は,吐き出すようにつぶやいた。はっとして歪莉は立ち止まり,リヤカーを引いた輪子はそのまま駅に向かう雑踏の中に消えていった。

ありえない,駅前の雑踏で猫や犬の死体を積んだリヤカーを引いた少女が歩いているなんて。歪莉は,危うく自分の狂気と対峙しそうになったが,すぐに出社の支度しなくちゃと気分を切り替えて,すべてなかったことにした。都合の悪いことは,なかったことにするのが一番。

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  • 『BUNRAKU』
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  • 屍屋の輪子

2014年9月29日,サイバーミステリーに関するイベントを開催いたします。

お申し込み等,詳しくはこちらから↓

サイバーミステリの楽しみ 第一回
http://cybermystery01.peatix.com/
日時2014年9月29日 19:00~20:30
場所株式会社技術評論社(市ヶ谷)
講師一田和樹,遊井かなめ

和田安里香(わだありか)
網界辞典準備室長代行 ネット系不思議ちゃん
年齢26歳,身長162センチ,体重46キロ。グラマー眼鏡美人。
社長室。頭はきれるし,カンもいいが,どこかが天然。宮内から好き勝手にやっていいと言われたので,自分の趣味のプロジェクトを開始した。

倉橋歪莉(くらはしわいり)
法則担当
広報室。表向き人当たりがよく愛されるキャラクターだが,人から嫌われることを極端に恐れており,誰かが自分の悪口を言っていないか常に気にしている。だが,フラストレーションがたまりすぎると,爆発暴走し呪いの言葉をかくつらねた文書を社内掲示板やブログにアップする。最近では『裸の王様成田くん繁盛記』というでっちあげの告発文書を顔見知りの雑誌記者に送りつける問題を起こした。
口癖は「私もそう思ってたところなんです」⁠

水野ヒロ(みずのひろ)
網界辞典準備室 寓話担当
年齢28歳,身長178センチ,体重65キロ。イケメン。
受託開発部のシステムエンジニアだった。子供の頃からあたりさわりのない,優等生人生を送ってきた。だが,最近自分の人生に疑問を持つようになり,奇妙な言動が目立つようになってきた。優等生的な回答を話した後に「そんなことは誰でも思いつきますけどね」などと口走るようになり,打ち合わせに出席できなくなった。

内山計算(うちやまけいさん)
網界辞典準備室 処理系担当
年齢32歳,身長167センチ,体重73キロ。大福のように白いもち肌が特徴。
ブログ事業部の異端児で,なにかというと新しい言語を開発しようとするので扱いに困っていたのを宮内が連れてきた。
コンピュータ言語オタク。趣味は新しい言語のインタプリタ開発。

篠田宰(しのだつかさ)
実例担当
年齢44歳,身長165センチ,体重48キロ。薄い毛髪が悲哀を感じさせる。
社長室。影が非常に薄く,やる気もない。幽霊のよう人物。ただし脅威の記憶力を持っている。温泉とコーヒーに異常な執着がある。

古里舞夢(ふるさとまいむ)
年齢36歳。身長165センチ,体重80キロ。
受託開発部のエンジニア。極端な無口で人見知り。
和田のファン。何かというと和田に近づき,パントマイムを始める。どうやら彼なりの好意の表現らしいが,和田を含め周囲の全員がどんな反応をすべきかわからなくなる。

綴喜堕姫縷(つづきだきる)
容姿は女性,性別は男性。身長172センチ,体重52キロ。
年齢不詳。カナダ,UBC大学卒業。文化人類学専攻。英語とロシア語が堪能。宮内専務の秘書。その前は,バンクーバー支店長の秘書をしていた。
妖艶な美女。独特の雰囲気で見る者を魅了する。サブカル,特に昔のマンガにくわしい。バンクーバー支店で採用したため,本社には詳細な人事情報がない。

著者プロフィール

一田和樹(いちだかずき)

11月6日東京生まれ。バンクーバー在住。

シンクタンクにてIT関連市場調査,製品開発を担当,独立後,インターネットプロバイダなどIT企業の役員,社長を歴任。人材育成にも長け,社長を務めた会社の社員の半数が起業した。

2010年島田荘司選 第3回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞受賞。サイバーセキュリティミステリを中心に執筆,その他,ファンタジーやマンガ原作などもこなす。筆が速いことと,多彩な芸域が特徴。

@K_Ichida

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