『電網恢々疎にして漏らさず網界辞典』準備室!

第41話 『キャリー』和田はワインバーグのごとき叡智をつむぎ,堕姫縷は「すべてのIT企業は,マゾの雌豚の支配するSMアニマルファーム」と断じる。

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仮想世界が幾重もの闇に包まれた。闇が重なるということを和田たちは初めて体験した。漆黒の空間だからなにも見えない。見えないのに,重なっているように感じる。闇のフレークが舞い落ちてできたことを知っているせいなのかもしれない。

  • 「ご自身の手でオキュラスをはずしてください。すべて終わりました」

内山の声で一同はオキュラスを外した。まばゆい光(実際にはどちらかというと仄暗い程度なのだが)に目を細める。水野と堕姫縷は,めをしばしばさせる。

  • 「首尾はいかがでした?」

和田は胸ポケットから眼鏡を取り出してかけながら,彼女にとっての最大懸念事項を質問する。

  • 「予想通りでした。システム哲学とでも言うべきものの用語解説を入手できました。おそらく日本のシステム関係者,とくにインターネット界隈のみなさんに欠けているもの。ネットワークの思想的背景です。非常に有用と僕は考えます」
  • 「サイバーパンクのようなものですか?」

堕姫縷が髪を整えながら尋ねる。

  • 「違います! 中野や高円寺の怪しい店のミニコミではなく,きちんと学会発表できるレベルの内容と申し上げてよいでしょう。チューリングの業績やミンスキーをご覧なさい。システムは,それ自身が思想につながる。正直申し上げて,篠田さん,いや,平坦主義の本質がこんな哲学的な背景を持っているとは思いませんでした。脱帽です」

内山はメインディスプレイに映し出された用語解説から目を離さずに説明した。脱帽という言葉が出たことで和田はいささか驚いた。負けず嫌いのはずの内山に,そこまで言わせるならかなり期待できそうだ。

  • 「お褒めにあずかり光栄です。そもそも私は大学で,コンピュータ言語学とメタ数学を専攻していました」

予想もしていなかった寝台からの声に一同はぎょっとした。

  • 「信じられない。すぐに覚醒するなんて……」

内山が目をむく。確かに前回の結果を見る限り,ダイブしたものはすぐには元に戻らなかった。

  • 「これほど完成度の高いものではありませんが,類似のシステムを我々は持っています。私はそこで修行しました」
  • 「うかつでした。当然,この手のシステムへの習熟度も予想しておくべきでした」

内山が唇を噛む。おおかたの予想に反して,今回の戦いは陰謀論大好き人間,平坦主義者篠田の圧勝だったのだ。

不思議なことにふたりの間には友情が芽生えたようで,この日以来,内山と篠田は妙に仲良くなった。期せずして自分は,星飛雄馬と伴宙太を結びつけた星一徹の役割を担ってしまったのかもしれない,と後に和田は考えるようになる。

といっても,どちらも決して人付き合いの良いほうではないので,たまに親しげに言葉をかわすくらいだ。以前はふたりの間には,ぎすぎすした禅問答しかなかった。それが微笑みを浮かべるくらいに親密になった。

  • 「倉橋さん,しっかりして!」

一方,水野はいまだ寝台の上で目覚めない歪莉の傍らで,オフィーリアの死を嘆くハムレットのごとき悲壮な表情を浮かべて泣いている。いい年して,こんなことくらいで泣くな,と和田は思ったが,口には出さない。簡単に泣くくせに実は神経は人一倍太いこの手の感情的な人間の特性を知り抜いているから,無駄なことはすまいと自分に言い聞かせている。

  • 「で,次は誰に用語を紡いでもらうのですか?」

内山は早くも次の実験に備えているようだ。和田は心を決めた。一気にメインディッシュだ。

  • 「水野さん,お願いします」

歪莉のことを憎からず思っている水野との戦いは,今回の一連に実験のハイライトだ。用語辞典としても異色のものを期待できる。

  • 「ぼ,ぼぼぼぼ僕ですか?」
  • 「全員やるんです。あなたも例外ではありません」
  • 「し,しかし,倉橋さんと戦うことなんかできませんよ」
  • 「戦うのではありません。協力して用語辞典を作るのだと考えてください」

和田がびしりと言うと,水野は黙った。なんだかんだ言っても,この男は目上の人間には逆らえない。ぶちぶち文句をたれるだけだ。

翌週から残りの全室員が用語集を作った。

水野からは童話でわかるIT用語というコラム風の文章が大量に抽出された。すべてのIT関連用語が童話の登場人物に擬人化されている。

  • 「まるで『憂鬱なヴィランズ』みたいですね」

和田はカミツキレイニーの不朽の名作ラノベのタイトルを挙げたが誰もわからなかった。

和田からは,ITパラドクス論。ワインバーグの『ライトついてますか?』的な視点での解説である。

堕姫縷からは性的IT用語。フロイト理論に基づき,それぞれのIT用語が女性器,男性器のどちらの暗喩となっているか,あるいは父親と母親のどちらの暗喩となっているかを解説している。堕姫縷の性的解釈によれば,Macはマゾヒストの象徴であり,利用者は自らの内に秘めたタナトスをサディスティックなタイピングやマウス操作の形で昇華させているのだという。Windowsはサディスティックな男根を象徴しているという。利用者は,マゾの雌豚的な嗜好を隠し持っているという。そう考えると,世の中のIT技術者の多くがWindowsマシンを使い,マゾヒスティックな快感に溺れてブラックな職場環境に耐えている理由が納得できる。彼らは,全員マゾの雌豚なのだ。⁠すべてのIT企業は,マゾの雌豚の支配するSMアニマルファームです」と堕姫縷は断じた。

翌週の週末,3人は博多のドラムというバーで呑んでいた。堕姫縷が内山の慰労をしようと言うのでついていったら,そのまま空港に行き,博多までフライトするはめになった。

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他に客のいないとある中洲のビルの最上階にある古いバー。窓から見える景色が和田になにかを想起させる。

  • 「あら? この景色って……」

和田がそこまで口にすると,懐かしい曲が流れてきた。

  • 「ブレードランナー,愛のテーマ」

無意識のうちに,和田はつぶやいていた。マスターがにっこりと笑う。

  • 「わかっていらっしゃる。オープニングやエンディングのテーマはすぐにわかっても,このテーマをすぐにわかる方はそんなにいません」

堕姫縷は,和田とマスターのやりとりを横目でながめ,グラスを軽くゆすってジンを口に含む。

ここから見る博多中洲はブレードランナーのあの景色に似ているんだ。和田は胸をしめつけられるような思いに囚われた。ある時代を過ごした人々にとって,ブレードランナーは映画以上のなにかだ。

  • 「僕のできることは終わりました」

内山がビールを呑みながら和田に言った。仕事に引き戻された和田の胸がすっと軽くなる。

  • 「あとは室長代理におまかせします。使えそうですか?」

すべての室員から用語を抽出し終わった内山は,軽い疲れをたるんだ身体ににじませて続けた。

  • 「編集して,それっぽく見せれば使えると思います」

株主総会の資料は和田の業務範囲ではないし,そもそも時流に流されやすく知識も知性もない株主になにが受けるかなどわかるはずもない。和田は堕姫縷の顔をちらと見た。

  • 「問題ないでしょう。投資家の腐った脳みそには充分すぎるくらいのできばえです」

堕姫縷は自信たっぷりに微笑んだ。

  • 「ちゃんと読みました?」

こいつは絶対読んでいないと和田は確信を持って尋ねた。

  • 「投資家が読むであろうくらいは読みましたよ」
  • 「つまり?」
  • 「目次を見て,あとは拾い読み」

堕姫縷は笑い,和田と内山もつられて笑った。

翌朝,新幹線の始発で出勤した三人を歪莉の異変が待っていた。

  • 「あ,あの,みんなで私のことを噂してるの知ってるんです」

三人がオフィスに入ると,歪莉がレイプ目で笑いながらつぶやいていた。心の風邪を引いているからといって,みんな同じ症状ではない。和田のみたてでは歪莉は,双極性障害であり,統合失調症ではない。この手の妄想は統合失調症のもののはずだ。もっとも聞きかじり程度の自分の知識では正しく判断などできるはずもないのだが。

  • 「私のことを頭がおかしいと思っているんでしょう。いい年して妖精事務員とか言ってるババアって笑ってるんでしょう」

歪莉の目は完全に据わっている。瞳孔も,ばっちり開いている。薬をやっているか,完全にイっちゃっているかのどちらかに違いないと和田は覚悟した。

  • 「死んでやる!」

歪莉は甲高い声で叫んだ。

  • 「止めたほうがいいですよ」

とっさに和田の口から間の抜けた言葉が出た。この一触即発狂の状況で,あまりにも平和すぎる。

  • 「……私もそう思っていたところなんです」

歪莉は簡単に前言を撤回した。口癖というのは怖いものだと和田は思った。

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  • 双極性障害
  • 統合失調症

和田安里香(わだありか)
網界辞典準備室長代行 ネット系不思議ちゃん
年齢26歳,身長162センチ,体重46キロ。グラマー眼鏡美人。
社長室。頭はきれるし,カンもいいが,どこかが天然。宮内から好き勝手にやっていいと言われたので,自分の趣味のプロジェクトを開始した。

倉橋歪莉(くらはしわいり)
法則担当
広報室。表向き人当たりがよく愛されるキャラクターだが,人から嫌われることを極端に恐れており,誰かが自分の悪口を言っていないか常に気にしている。だが,フラストレーションがたまりすぎると,爆発暴走し呪いの言葉をかくつらねた文書を社内掲示板やブログにアップする。最近では『裸の王様成田くん繁盛記』というでっちあげの告発文書を顔見知りの雑誌記者に送りつける問題を起こした。
口癖は「私もそう思ってたところなんです」⁠

水野ヒロ(みずのひろ)
網界辞典準備室 寓話担当
年齢28歳,身長178センチ,体重65キロ。イケメン。
受託開発部のシステムエンジニアだった。子供の頃からあたりさわりのない,優等生人生を送ってきた。だが,最近自分の人生に疑問を持つようになり,奇妙な言動が目立つようになってきた。優等生的な回答を話した後に「そんなことは誰でも思いつきますけどね」などと口走るようになり,打ち合わせに出席できなくなった。

内山計算(うちやまけいさん)
網界辞典準備室 処理系担当
年齢32歳,身長167センチ,体重73キロ。大福のように白いもち肌が特徴。
ブログ事業部の異端児で,なにかというと新しい言語を開発しようとするので扱いに困っていたのを宮内が連れてきた。
コンピュータ言語オタク。趣味は新しい言語のインタプリタ開発。

篠田宰(しのだつかさ)
実例担当
年齢44歳,身長165センチ,体重48キロ。薄い毛髪が悲哀を感じさせる。
社長室。影が非常に薄く,やる気もない。幽霊のよう人物。ただし脅威の記憶力を持っている。温泉とコーヒーに異常な執着がある。

古里舞夢(ふるさとまいむ)
年齢36歳。身長165センチ,体重80キロ。
受託開発部のエンジニア。極端な無口で人見知り。
和田のファン。何かというと和田に近づき,パントマイムを始める。どうやら彼なりの好意の表現らしいが,和田を含め周囲の全員がどんな反応をすべきかわからなくなる。

綴喜堕姫縷(つづきだきる)
容姿は女性,性別は男性。身長172センチ,体重52キロ。
年齢不詳。カナダ,UBC大学卒業。文化人類学専攻。英語とロシア語が堪能。宮内専務の秘書。その前は,バンクーバー支店長の秘書をしていた。
妖艶な美女。独特の雰囲気で見る者を魅了する。サブカル,特に昔のマンガにくわしい。バンクーバー支店で採用したため,本社には詳細な人事情報がない。

著者プロフィール

一田和樹(いちだかずき)

11月6日東京生まれ。バンクーバー在住。

シンクタンクにてIT関連市場調査,製品開発を担当,独立後,インターネットプロバイダなどIT企業の役員,社長を歴任。人材育成にも長け,社長を務めた会社の社員の半数が起業した。

2010年島田荘司選 第3回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞受賞。サイバーセキュリティミステリを中心に執筆,その他,ファンタジーやマンガ原作などもこなす。筆が速いことと,多彩な芸域が特徴。

@K_Ichida

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