本を読んでも出てくる体験
本を読んでいました。五十嵐貴久の『Fake』(幻冬舎)です。
はじめて読む作家だったので,どんなストーリーなのか見当がつかず,わくわくして読み始めました。冒頭がもたつきましたが,結局巻措く能わざるおもしろさでのめり込みました。すっかり夜更かしです。
その冒頭,なににもたついたのかというと,主人公の紅茶に関する記述です。
秤の分銅に目をやりながら,慎重にティースプーンを傾ける。ディンブラ,ルフナ,ヌワラエリア。
すこしずつ形の違う葉が均一に混ざったところで,ポットの湯を勢いよくそそいだ。濃い清涼感のある香りが漂う。把手を掴(原文は旧字)んで,慎重に揺すった。
鮮やかな赤。美しい。世の中にこれほど純粋な色があるだろうか。
ただ,俺の予想とは少し違った色合いだった。暗い赤になると思っていたが,ディンブラの割合が多かったのだろうか。やや明るめの色だった。初めてのブレンドに試行錯誤はつきものだから,これは仕方がない。
五十嵐貴久『Fake』(幻冬舎)p.12-13
ディンブラ,ルフナ,ヌワラエリアというのは,まるで呪文のように響くかもしれませんが,いずれも地名で,スリランカ産のセイロンティーのブランドです。紅茶といえば,イングリッシュブレックファーストとかアッサムとか,もっと知られているブランドがあるのに,なぜにディンブラ,ルフナ,ヌワラエリアなんでしょうか。
筆者も1995年9月に,まだ「解放のトラ」が現在ほど激しく活動していなかったころにスリランカに旅行したときから,セイロンティー,とくに紅茶農園を訪れたヌワラエリアの紅茶をかれこれ13年も愛飲してきました。最近,ディンブラやルフナも飲むようになりました。単に好きなブランドがおなじだったというだけなのでしょうか。
描写されていることばが,記号や暗号ではなく,実体験として「出てくる」のは,とてもリアルな体験です。単に文字面ではなく,それが目の前にあるものと一致するためです。
同時に呼んでいた片岡義男の『謎の午後を歩く』(フリースタイル)も紅茶の話で始まりますが,そこではオランダ紅茶,というだけでそれ以上詳しいブランドは描写されていません。紅茶であるというだけでも紅茶つながりとはいえますが,わざわざ並べたものが完全一致というのはなかなかのことです。

