禅で学ぶ「エンジニア」人生の歩き方

第15回 荒波のただ中で

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禅語「独生独死独去独来」

ランク:中級 カテゴリ:疲労回復

「独生 独死 独去 独来」という文節で切れまして,⁠どくしょう どくし どっこ どくらい」と読みます。
そのまんま「独り生まれ,独り死ぬ。独り去り,独り来る」って感じです。

袖振り合うも多生の縁,なんて言葉があります。⁠多少の縁」って勘違いするケースがあるようなのですが,正しくは「多生の縁」です。

ご縁ってぇのは大切で有難いもので。
例えば「厄介事を持ち込む人」ですら,それはきっと「かけがえのない,大切なご縁」なのです。まぁ……良薬は口に苦しっても限度があるだろう,と思うことも多々あるとは思うのですが。

そんな「苦いご縁」を含めて,それは「あなたを磨くために大切な」ものなのです。
ましてや。あなたを慈しみ,手助けし,教え,育て,守ってくれるご縁であればなおのこと。

ただ……そんな「ご縁」があたりまえになってしまうと,人はつい「頼ってしまう」ものでもあります。

「忘れるのが哀しいんじゃない。忘れたことさえ忘れてしまって,それを悲しむことさえできなくなることが哀しいの」なんて台詞を聞いたことがありますが。
いつもある「あたりまえ」に。いつしか「あたりまえであることすら失念して」気を払わなくなってくるのが,哀しいかな,人間の常でございます。

では。

「ご縁」があたりまえになり,⁠頼ること」があたりまえになると,どんなことがおきるのでしょうか?

「だれもオレのことをわかってくれない」⁠みてくれない」⁠きいてくれない」⁠かまってくれない」⁠助けてくれない教えてくれない手助けをしてくれない守ってくれない。

そんな不平不満が心の中に充満していきます。

この不平不満の根底にあるのは「わかってくれてあたりまえ」⁠かまってくれてあたりまえ」⁠手伝ってくれてあたりまえ」⁠教えてくれてあたりまえ」⁠守ってくれてあたりまえ」⁠あたりまえのオンパレードです。

でも。
そんな横柄で一方的なご縁を,相手ははたして喜ぶものでしょうか?

今度は逆に。

「やってくれないんなら縁なんていらない」と縁を否定して「一人」になると。はたして,人はどうなるのでしょうか?

一人ということは,つまり周囲は「いないも同然」となります。何せ「一人」なわけですから。周囲は存在しないわけですね。

それで本当に孤高を貫くのであれば……或いはそれは「人嫌いの仙人」として成り立ちうるのかもしれないのですが。

やはり人間は「社会性を持つ生き物」なのでしょう。どうしても「他人との関わり合い」は欲しがるようでして。⁠他人は存在しないけど他人との関わり合いは希望する」という不思議な状態への欲望が,時として心を蝕むことがあります。自己愛性人格障害,という単語を耳にしたことはないでしょうか?

だからこその。⁠一人」ではなくて「独り」なのです。

他人が存在することを知り,他人との縁を認識して,大切にもして。
その上で「その縁に執着しない」ことが,大切なのです。

「回りがちゃんとしてくれない」というあなた。その前に「あなたは相手を理解し,見,聞き,助け,守り,教えてますか?」
⁠一人でいいんだ」というあなた。本当に「まったく誰とも接触さえない状態で大丈夫ですか?」

独生 独死 独去 独来。

独り生まれ,独り死ぬ。
独り去り,独り来る。
回りが周囲が他人が存在することを知り。縁があることを知り。
その上で,その縁に頼り切ることなく寄りかかることなく「独り」であることを知る。

そんな「自立」が,あるいは,とても大切なのではないでしょうか?

禅語「雁度寒潭 雁去而潭不留影」

ランク:上級 カテゴリ:疲労回復

元々は,こんな詩です。

  • 風来疎竹 風過而竹不留声
  • 雁度寒潭 雁去而潭不留影
  • 故君子事来而心始現 事去而心随空
  • 風,疎竹に来たる。風過ぎて,竹に声を留めず
  • 雁,寒潭をわたる。雁去って,寒潭に影を留めず
  • 故に君子は。事来たりて,心始めて現る。事去りて,心は空に随う。

竹林に吹く風。寒々とすんだ淵をわたる雁。
相変わらず筆者好みの美しい光景ですが……最後の「君子~」の文章が気になります。これはなんなんでしょうか?

すこし,話をそらしまして。

口論になるようなシーンが,例えば一つ,わかりやすいのですが……こんな台詞を,言ったり聞いたりした経験はないでしょうか?

「大体君は昔から……」⁠あなたは以前もそうだったわ」⁠そもそも前々から……」⁠こないだもそうだったわよね」などなど。

いわゆる「話を蒸し返す」というヤツですが。このあたりのフレーズが出てくると,概ね,こじれます。
あまり昔のことを「罪を悔いている相手にすら延々とぶつけ続ける」のは,あんまりお行儀がよいことではないと思います。

だからこそ「何かをされた」時に受け流しスルーし平常心を保って感じないようにすることが大切です…………っていう話なのかというと,実はそういうわけでもありません。

概ね「痛覚」というのは,どんな生物にとっても「生命に対する危険信号」なわけです。つまり「ヤバイよ? 気をつけなよ?」というシグナルなわけです。それが肉体的なものであれ,精神的なものであれ。

そのシグナルを「冷静になろう」とか「無心になろう」とか「心を広く持とう」とか,そういう単語で糊塗してしまうと。それはつまり危険の前兆を見逃し,結果として危険本体がやってくるわけです。

危険を「危険」と感じることは,痛みを痛みと感じることは。つまり,辛いことを難しいことを無茶を言われていることを酷いことをされていることを。それはきちんと認識し,過敏ではない程度に反応するなり相談するなり反論するなり防御するなり,しなければならないわけです。

君子は事来たりて心始めて現る。
事去りて心は空に随う。

事が来たら,心を現しましょう。必要な対応を取りましょう。
それが一段落したら,忘れましょう。
⁠起きたこと」は覚えていてもよいのですが,それに付随してくる「負の感情」は,できるだけ早く,忘れましょう。
忘れて,いつもの「ニュートラルギア」に,(くう)に,戻しましょう。

昔をあんまり粘着質にほじくり返してぶり返すのも,それはそれで如何なものか,とは思うのですが。
とはいえそのあたりを「一切気にせず」今目の前の事象にすら反応しない,というのも,少々危険が伴います。

  • 風,疎竹に来たる。風過ぎて,竹に声を留めず
  • 雁,寒潭をわたる。雁去って,寒潭に影を留めず
  • 故に君子は。事来たりて,心始めて現る。事去りて,心は空に随う。

起きたら反応する。
終わったら終了する。

そんな心境に,少し近づいてみるのもまた,一つの修練なのではないでしょうか?

著者プロフィール

がる

こなしている職業を語ると「……で,何屋さん?」と聞かれる,経歴が怪しいエンジニア。「知のコラボ」とか「シナジー」とかって単語で上手に糊塗してみたい。

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