書籍『ピタゴラスの定理でわかる相対性理論』の補講

第9回独創性の原点、アインシュタインの第一論文

今回はアインシュタイン1905年第1論文、Zur Elektrodynamik bewegter Körperについて少しコメントしたいと思います。英語には「On the electrodynamics of moving bodies 」と訳されています。日本語では「運動物体の電気力学」でしょうか。特殊相対性理論に関する論文です。

これは30ページの論文ですが、今日の論文スタイルであればその半分ほどの15ページほどでしょう。それでも今日の標準的な論文の2~3倍の量です。

序論の部分で重要な公理を述べています。

  • (1⁠⁠ 互いに等速関係にある観測者にとって、力学の方程式は同じであり、電磁気学現象と光学現象も互いに同じ法則に従う。
  • (2⁠⁠ 光は、真空中を光源の速度には依存しない一つの定まった速度で伝播する。

そして、序論を意欲に満ちた次のパラグラフで結んでいます。

ここに展開する理論は、他のすべての電気力学と同じように、剛体の力学をベースとする。というのは、この類の理論を記述しようとすると(どうしても)剛体と時計と電磁現象の相関関係を扱うことになるからだ。このことについて十分に論じられていないことが、運動物体の電気力学が今日取り組んでいる困難の根源である。

以降は、力学の部と電気力学の部に分けて、さらに節にに分けて順次理論を展開しています。

公準と公理の使い分け

本書「ピタゴラスの定理でわかる相対性理論」では、公準と公理というコトバについていろいろと議論してきました。本書執筆中に悩んだのですが、このコトバは言語によっても、論ずる立場によっても微妙に違うようです。

本書では佐野茂氏との間で、公準は原論の5つの公準として、後に4つに整理されたものを公理と呼ぶことにしました。英語でにはaxiomという単語とpostulateという単語があります。

本書では公準を一応axiomにあてていますが、postulateが本書の公理かというと微妙です。本書ではp.176に次のように書いています。

英語では公理のことをaxiomといいます。ギリシャ語では公準がアイテーマタ、公理がアキシオマータで、いずれも原義が「お願いする、請う」だといわれています。議論しつくしたあとで「お願いです、これだけは(仮定、規約として)認めてください」という状況を想像してみましょう。

アインシュタインのこの論文では、⁠Voraussetzung」という単語を使っています。この意味を考えるために分解すると「Vor-aus-setzung」であり、

  • Vor=前; 英語のpre
  • Aus=中から外へ;英語のout、out of
  • Voraus=前に出して
  • Setzung=置くこと、動詞setzenの名詞形
  • Voraussetzung=前もって出して置くこと;前提;前提条件

ということになります。

筆者が大学で第2外国語としてドイツ語を勉強していたときには、物理学の論説には「Voraussetzung」は出てきました。そのときは「前提」ぐらいの軽い意味で受けとっており、公理という重い意味まで考えたかどうか記憶にはありません。アインシュタインの論文は英訳されていて、それを見ると「Voraussetzung」は、⁠postulate」になっています。

2と両について

本書やこの記事を、日本語で考え日本語で書いていると何でもないのに、ドイツ語の原文を見るとふと考えることがあります。それは、⁠この二つの公理」というときのニュアンスです。

アインシュタインは、⁠Diese beiden Voraussetzungen」と言っているのですが、英語で直訳すると「these both postulates」になるのですが、イギリス人やアメリカ人はこれを聞くときっと背筋が寒くなるでしょう。何か不自然な英語になるからです。英語では「these two postulates」と訳されているのは「この二つの公理」に対応します。

ドイツ語では単に2は「zwei⁠⁠ (英語のtwo)です。ドイツ語の「beide」からは双の意味を感じます。日本語でも二と両は微妙にニュアンスが異なります。アインシュタインにとってはこの2つの定理は、双対だったのだろうと思います。

第2公理について

アインシュタインの第2の公理は、次と等価になることを解説しておきたいと思います。

(2)光速は、観測者の速度に無関係に同じ値として観測される。

この説明をうまくしている本としてAlan LightmanのGreat Ideas in Physics、 McGraw-Hillがあります。それについて書いてある2ページほどを読んで数日して後に、自分の言葉で綴ってみたのが次のようなものです。

LeerとReell

「Leer」「Reell」はドイツ語です。⁠Leer」は何もないことで英語の「empty」にあたり、真空は、⁠Leerer Raum」です。

「Reell」は数学用語の「real」⁠実数の「実⁠⁠)であり、実際にあるものというイメージがあります。私ども日本人にはRとLの音声の区別がないので「Leer」「Reell」も同じように聞こえますが、実は大きな違いです。

ところで、色即是空、空即是色は「Leer」「Reell」も同じだという意味でしょうか? それとも全然違うというのでしょうか? 

もしドイツ語で「Leer ist reell」⁠Empty is real)などと言ったら、何かしら哲学的な意味が出てくるのでしょうか? 

ちなみに、中国語の「色」には物質の存在という意味があり、⁠是」は英語の「is⁠⁠、⁠be⁠⁠、⁠are」などに相当します。ドイツ語なら「sein」「ist」です。

注釈:
「色即是空、空即是色」は、仏教用語で般若心経の空の思想を表現したもの。万物は固有の実体をもたず存在するだけであり(空とみることで煩悩や妄想がなくなり⁠⁠、空であることで万物が成り立つ(執着のない眼でみると意識に生き生きとした現象が現れる⁠⁠。

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