書籍『ピタゴラスの定理でわかる相対性理論』の補講

第14回 相対論から量子力学への展開と日本の時代

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前回は,電磁波と電子の波動の類似と違いについて語りました。エネルギーと運動量に関する不変量の関係,あるいはエネルギーと運動量に関するピタゴラスの定理を出発点とした波動の不思議を見たともいえます。それはアインシュタインの光量子と電子の作用に関する現象でもありました。今回も別の観点から,この仮説の奥深い意味を語ってみたいと思います。そして日本が世界の物理学を牽引していくようになる経過も見ます。

E=hν の凄さ―相対性理論とのつながり

光のエネルギーは,その周波数ν に比例して であるとアインシュタインが示唆したのは意味深長です。筆者も大学の専門課程でこれを聞いたときに,教養課程の物理から学んだ知識による直感とは違うので釈然としませんでした。質点の振動のエネルギーは振幅が変わらなければ周波数の2乗に比例しますからν 2が出てきそうですが,アインシュタインはじっと我慢して「1乗に比例」と見抜きました。湯川秀樹はこの凄さに感心したことを『アインシュタイン選集3』[※1]の中で述べています。

この対談は読む価値が高いと思います。対談相手の谷川安孝が指摘しているのですが,量子論と特殊相対性理論の論文を同じ年に出していて,両者の関係には深いものがあるはずなのに,アインシュタイン自身は何もいっていない,その点が不思議です。

光は波動か粒子かの議論があって,ホイヘンス(1629-1695)によって波動だということになり,「それならば媒体があるはず,それをエーテルとしよう。」という議論を経て,マイケルソン-モーレーの実験によってエーテルなるものは存在しないことがわかったわけです。アインシュタインはこれにヒントを得て,光は粒子かもしれないと思いついたのかもしれません。湯川も同じようなことを言っています。

アインシュタインは3月論文の最初の部分で,光はQuanta(量子Quantumの複数)とみなすべきだと述べており,あとで統計力学の数学手法をたくみに使って慎重に量子説を展開しています。

このときアインシュタインは,ほぼ2カ月ペースで物理の画期的な理論を発表していたのです。この状況を何と表現したらよいのでしょうか? 

たしかに3月論文と6月論文は独立の事柄を扱っているようですが,光のドプラー効果による振動数の変換が電磁エネルギーの変換則と一致していることで,表裏一体の関係があるように見えます。6月論文でアインシュタインは,光のドプラー効果の計算をして,2つの座標系間の比率が電磁エネルギーも周波数もの比になることを見つけて,その不思議を特記しています。

つまり,相対性理論から電磁エネルギーと周波数の関係が1乗だとういうことになります。この意味では,アインシュタインの相対性理論と量子論が首尾一貫しています。谷川氏が指摘しているのは,このあたりのことを含んでいると思います。

6月論文と古典的な運動エネルギーの考察から9月論文ではE=mc2 を得ています。このように見ていくと,アインシュタインの頭のなかでは熱力学,電磁気学,運動力学,光電現象は一体となっていたのだと思います。そして量子力学と相対性理論が萌芽したのだといえるのではないでしょうか?

当時Wärmetheorie(熱理論)という言葉はありましたが,相対性原理は「絶対」に対する「相対的」な原理という意味であって,アインシュタインの理論が特殊相対性理論と呼ばれるようになったのは後のことです。量子力学はまだありませんでした。

ここで筆者はまた思うのですが,ギリシャから始まったユークリッド幾何の論理やニュートン力学で構築された物理では黒体輻射を説明できなくなり,ブレークスルーが必要になったというのは,非ユークリッド幾何の誕生に似た状況だったのではないでしょうか? そこに登場したのがプランクとアインシュタインであり,それが前々回のテーマでした。今回は,光量子仮説からキックオフされた量子力学が,新しい進展を始めた1923年あたりからのことを少し語りたいと思います。

ここで付記したいのですが,アインシュタインが1905年の相対性理論の時空の理論をさらに発展させて一般相対性理論を完成させたのが1915年です。それは重力と空間の曲がりを結びつけ,光が重力によって曲がることを主張したものです。当時は第1次世界大戦中でしたが,この理論はオランダ経由で対戦国イギリスに伝えられます。大戦直後の1919年に航空機による日食観測によって,イギリス海軍のエディントンはアインシュタインの理論を証明しました。アインシュタインの名声を確固としたのがこの時です。

コラム:1923年 時代が動く

  • コンプトン(米) アインシュタインの光量子仮説を実験で確認
  • ルイ・ド・ブロイ(仏) 物質波の仮説
  • ボーア(デンマーク):ゲッティンゲンで講演
  • 仁科芳雄:ケンブリッジを経てゲッティンゲンに留学していたが,もうそこからは得るものが無いと感じていた。ボーアの講演に感激した彼はコペンハーゲンのボーアの元に留学先を変更し以後5年間研究する。
  • マックス・プランク(独):因果律と意思の自由の講演
  • 1925年:ハイゼンベルグ(独):マトリックス力学
  • 1926年:シュレディンガー(墺):波動力学を発表
  • 1927年:ハイゼンベルグ:不確定性原理提唱
  • 1928年:ディラック(英):波動力学と特殊相対性理論を融合して陽電子を予言
    仁科が帰国して日本の量子力学・原子物理学が新しい時代に入る。

光量子仮説から18年後,ふたたび時代が動く

以前にも記したように1922年のノーベル物理学賞がアインシュタインに授与されたのですが,それは1905年に発表した光電効果の意味深さが認識された結果だといわれています。このように,アインシュタインの光量子仮説が受け入れられるまでに年月を要したわけです。

上のコラムはその翌年の1923年に,時代が動き始めたことを示唆しています。

前々回ではケルビン卿が20世紀明けに行った「物理学の雲」の講演のことを書きました。ケルビン卿の期待に反して,物理学の雲はどんどん大きくなってきました。プランクやアインシュタインの切り開いた物理学による混乱を整理するために,炭酸ナトリウムの製造法で財をなしたエルネスト・ソルベーによる財政援助で,第1回ソルベー会議が1911年にベルギーのブッリュセルで開かれました。司会は数カ国語を話すローレンツで,主役はプランクでした。メンバーはアインシュタイン,ラザフォード,ポアンカレ,マリー・キューリー,ゾンマーフェルトでした。ハーゼンエールもおりました。

その会議の討議録を編集していたのが,フランス貴族で科学者のモーリス・ド・ブロイです。弟の19歳のルイ・ド・ブロイは,製作中の討議録を読んで深い感動を覚えて科学の道に進むことをして決意しました。彼の出番はそれからほぼ10年後になります。

コメント

  • Re:

    >高橋氏
    マルチポストするな。うざいぞ。

    Commented : #2  漫才師 (2009/10/29, 09:03)

  • ふと気がつくと、相対論の基礎は楕円で、中高生の初等幾何でした。

    ふと気がつくと、相対論の基礎は楕円で、中高生の初等幾何でした。
    下手な説明を試みましたが、著作権等はないので、吟味を願います。
    優秀な方々に活用して欲しいと思いお知らせのページを作りました。
    ここ掘れ、ワン!ワン!
    http://www7b.biglobe.ne.jp/~rotch/

    Commented : #1  高橋博志 (2009/10/19, 12:01)

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