禅で学ぶ「エンジニア」人生の歩き方

第9回聴き方と問い

どうしても我々は、答えにBoolean値を求めがちですが、実際にはそんなに白黒がはっきりすることは少なくて、むしろ「すべては(それぞれに異なるとしても)灰色である」ことも少なくないのが現実です。

そんな中、如何に質問し、如何に答えるのでしょうか?

いわゆる「禅問答」という言葉から想起される、Boolean値に留まらない世界を少し垣間見てみたいと思います。

禅語「隻手の音声」

ランク:新人 カテゴリ:コミュニケーション

せきしゅうのおんじょう、と読みます。⁠隻手の声」という言い方もありますね。

隻手とは片手のことです。 これは、こんな公案(お話し)から来ています。

「両の手を打ち合わせたら音がする。では片手ならどんな音がする?」

さてもまた奇妙な話です。 そも「両方の手を打ち合わせたその行為で」こそ初めて音が出るのに、片手で出た音を聞けとは、どんな意味なのでしょうか?

ここでいくつかの、伝わっている話を列挙していきます。 その様々を一つずつ眺めていきましょう。

ある僧侶は一年をかけて悩み通しました。
別の僧侶は「右の頬を右手で叩いて音を出した」と言います。
さらに別の人物は「隻手の声を聞くよりも両手を打って商いをせん」と言い放ちました。

さて。 どれが正解なのでしょうか?

……と考えたあなたに質問をしましょう。そもそも「正解」とはなんでしょうか?

質問には、相手の思いが住み着きます。 極々当然ではあるのですが、相手は何かを思い、何か理由があって、問いを放ちます。
無論「何となく」な問いもあるでしょうが、それでもその奥底には、時として当人ですら気付かぬほどに深い理由があるものです。

もし、その問いに対して「正解」というものが、正しい解というものがあるとするのならば。
それは「問いを放つに至った深い理由を解きほぐすもの」であると、私は思います。

つまり「正解」に至る道を探そうとするのであれば、まずは「その問いが放たれた理由」という源流を深く知る必要があるのです。

では。
和尚は、どんな想いで「隻手の音声」という問いを放ったのでしょうか?
そして、答えた方々は、それをどのように捉えたのでしょうか?

話を、システムの現場に戻してみましょう。

システム開発において、お客様に、先輩に、同僚に、問われる場面というのは幾千幾万あります。

では。
あなたはその問いの「裏側にある想い」を、どれほどくみ取り、思いを馳せ、感じようとしているでしょうか?

例えば。
先輩から、1つのルーチン(関数でもファンクションでもクラスでもプログラムでもシステムでも)を組み上げるように言われたとしましょう。

「**というルーチンを組みたいのだが、できるか?」
これもまた一つの立派な公案です。

昨今、さまざまな検索エンジンがあり、多くの方々がさまざまなBlogや記事やwikiを書かれています。
あちこちに山のようにソースコードが落ちていて、コピペをすればある程度までのものは組み上がってしまうなんてことも多いでしょう。

そんなさまざまを用いて、考察もせずに組み上げることを。果たして本当に先輩は望んでいるのでしょうか?
先輩は何を想定して、何を思って、何を望んでその公案をあなたに出したのでしょうか?

あなたの出した答えは果たして「正解」だったのでしょうか?

例えば。
お客様から「この機能ってできるかなぁ?」という問い合わせがあったとしましょう。

その問い合わせが「文章をそのまま、文理的に解釈すればできない(工数的に無理だったり予算的に無理だったり技術的に無理だったり⁠⁠」とします。

そこで「その機能は現状では無理です」と答えれば、お客様はおそらく「………そうですか」と引き下がっていくでしょう(多分⁠⁠。

お客様は、何を思って「そんな無茶」を言い出したのでしょうか?
例えば、そこには深い理由や、聞いてみれば簡単な「別の解決策」はなかったのでしょうか?

あなたの出した答えは果たして「正解」だったのでしょうか?

質問の裏側にあるさまざまに。
あなたは思いを馳せているでしょうか?

隻手の音声。

あなたは、音無き音に耳を傾けようとしているでしょうか? それとも「そんなものはない」と一言で切り捨ててしまうのでしょうか?

今一度。
音無き音に耳を傾け、問いの裏側にある心に思いを馳せてみませんか?

禅語「百不知百不会」

ランク:中級 カテゴリ:コミュニケーション

ひゃくふち ひゃくふえ、と読みます。簡単に一言で片付けると「何も知らないよ」という禅語です。

……何も知らない、って、それがどんな意味をもつ言葉になるんでしょうか? ましてや、我々のような「知っててなんぼ、山のような知識を持ってなんぼ」の職業において。

さて。 一つ立ち戻って、考えてみましょう。

「知っている」って、なんでしょうか? それは本当に「知っている」のでしょうか?
似たような言葉で「できる」という言葉があります。
⁠できる」って、なんでしょうか? それは本当に「できる」のでしょうか?

知っている、できる、という言葉を使って、少し深く、さまざまを掘り下げてみましょう。

  • Excelができる。
  • Webを知ってる。
  • などなど。

では質問です。⁠Excelができる」って、なんでしょう?
入力ができること? マクロが組めること? グラフが書けること? 果たしてなんでしょうか?

できるって、なんでしょう?

「Webを知っている」って、なんでしょう?
歴史を? バックボーンになる技術を? RFCを? HTMLとCSSを? Common Gateway Interfaceを?

知っているって、なんでしょう?

そうして、それ以上に怖いのが。
⁠知っている」⁠できる」と慢心した瞬間から、学ぶ努力を、聞く姿勢を、失ってしまうことです。
なにかをやる前に、自分の狭い知識だけで判断して「できない」と断じてしまうことです。
⁠わかっている」⁠知っている」⁠できるから」と、学ぶことを放棄してしまうことです。

もしかしたら、あなたの知らない「より深い知」があるかもしれないのに。今手元にある「知」が邪魔をして、⁠より深い知」を得る機会を失ってしまうのだとしたら。
それは、とてももったいない、残念なことだと思いませんか?

だからこそ。
自らを戒めるために、この言葉をつぶやくのです。

百不知百不会。
何も知らない、何もわかってない、と。

知っていることにこだわらない。知らないことにこだわらない。
大切なら得ればいいし、いらないなら捨てればいい。そんな自由な心を得ればこそ、次の一歩が進めるのではないか、と思います。

知らないことには素直に学び、わからないことは経験を積む。
余計なものを持たない、というあたりは第1回目「放てば手にみてり」の禅語でもやったことですね。

百不知百不会。
何も知らないまっさらな自分になって、自由な心でまた一つ、何かを学んではみませんか?

禅語「万法帰一」

ランク:上級 カテゴリ:コミュニケーション

まんぽうきいつと読みます。⁠万法帰一 一帰何処(万法は一に帰す。一はどこに帰すか?⁠⁠」という公案ですね。

これは「師匠が弟子に放った」ものではなく「弟子が師匠に放った」ものです。 これに対して和尚は「我在 青州作一領布杉重七斤(故郷の青州で一枚の麻衣を作ったが、重さが七斤もあったことがあるぞ⁠⁠」と答えたと言い伝えられています。

……さてはて。
なにかずいぶんとずれた返答のようにも見えるのですが、そこにはどんな意味が含まれているのでしょうか?

韻を踏む、という言葉があります。
昔ですと和歌なんかで「言葉にすれば 音もよし」などという褒め言葉がありましたし、童謡で韻を踏むものも多いですね。

暗記もので語呂合わせなんていうのもあります。⁠一夜一夜に人見頃」で平方根を覚えたりなんていう記憶があるかたもいらっしゃるのではないでしょうか?

いろは歌は仮名文字を覚えるための手習い歌ですし、最近ですと、uchicoというサイトさんで「ラップに合わせて歴史や文法を暗記する」なんていうものもあるそうです。

飛行機に乗る前の注意事項を「韻を踏んで」アナウンスしたら、普段は全然聞かない乗客たちが熱心に聞き入った、なんて事例もあります。

ここに潜むのは「ユーモア」という精神です。

無論、まじめに語ること、受け答えすることも大切なことではあります。 でも、延々とまじめな受け答えばかりを続けられると、どこかで人間は退屈をしてしまいませんか?

無論「そんなことではいかん」というのは簡単です。でも、それは伝える努力の一部を放棄してはいないでしょうか?

第5回でやりましたが、 規矩行い尽くすべからずであり、好語語り尽くすべからずです。

杓子定規一本槍ではなくて。
相手の状況を、相手の心の「もう一枚奥」を考えて。その上で「その奥の方の気持ちに」適切な答えを出してあげるのもまた一興なのではないかと思うのですが、如何でしょうか?

また、 質問には、相手の思想が背景が思いが見えてくるものです。

そうして、時として「妙に力んだ質問」「言い負かし、否定するための質問」なんていうのもあるわけです。或いは「不安で押しつぶされそうな質問」「自虐的な質問」があるかもしれません。

そんなときにこそ、センスが問われるのです。

平凡な言葉で非凡なことをいうよりも。
非凡な言葉で平凡なことを言う方が、万倍も難しいのです。

相手に伝えるために最も大切な部分を抜き出し、相手の背景に合わせてもっとも伝わりやすいような比喩にする。そうして、そこに少しの笑いを、ユーモアをくわえて相手の興味をひく。

それはとても「チャレンジング」なことではないでしょうか?

例えば。
アインシュタインは、相対性というものを説明する時に、こんな説明をしたことがあるそうです。

「熱いストーブの上に一分間手を載せてみてください。まるで一時間ぐらいに感じられるでしょう。ところがかわいい女の子と一緒に一時間座っていても、一分間ぐらいにしか感じられない。それが相対性というものです」

はたして、これは不真面目な受け答えなのでしょうか?

そうして。一番はじめの和尚の答えを、もう一度思い出してみましょう。

「万法は一に帰す。ならば、一はどこに帰すのか?」

おそらく。まじめな人間なら「一は万法に帰す(一帰万法⁠⁠」と答えることでしょう。すべては一つであると同じくらいに、一とはすべてのことなのですから。

でも。和尚はこう答えました。
⁠一枚の麻布なのに、七斤もの重さがあったんじゃよ」
一というものの重さを、感じませんか?

とある漫画ですと「一は全、全は一」に対して「全は世界、一は俺」と答えた主人公もいましたね。筆者の大好きな漫画の一つです。

万法帰一。
問いには、相手の想いが潜んでいます。

でもだからこそ「それを超えるような」ユーモアで相手の心を解きほぐすのもまた楽しからずや、だと思いませんか?

軽快軽妙な口調と濃厚重厚な背景。それもまた一つの魅力なのではないでしょうか。

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