禅で学ぶ「エンジニア」人生の歩き方

第12回トラブル

「その後、 [Objects] は死ぬまで幸せに暮らしましたとさ」という締めの文句は、物語としては、極めてよくあるタイプの締め言葉かと思うのですが。

現実にそういった「一切なんのトラブルも障害もなく、一生を平穏無事に運用しました」というのは、それが人生であれシステムであれ、なかなかに稀であると思うのですが如何でしょうか?

であるとするならば、あんなトラブルやそんなトラブルに遭遇した時にどうするのか。

そんな時のための禅語をいくつか紹介したいと思います。

禅語「衆生本来は迷道の心」

ランク:新人 カテゴリ:疲労回復

いくつかの禅語を合わせて解説をしたいのですが、主題を、上述の禅語にしてみようと思います。

上述は、正確には「本来成仏は仏の妄語 衆生本来は迷道の心」という禅語で、これは「衆生本来成仏」という禅語に対する反語のような形になっています。

「衆生本来成仏」では「人は皆、本当は仏様なんだよ」と救いの手をさしのべているのですが、それに対して「反語がある」っていうのも、果たしてどうなんでしょうか?

ここで、今回の2つ目の禅語が出てきます。

それは「日暮れて 行人は路岐に迷う⁠⁠。
実際には、こんな文となります。

「如何なるか是れ仏 即ち心 是れなり
 梅山梅子は 多時に熟す
 苦風、酸雨 林の烟を断つ
 日暮れて 行人は路岐に迷う」

1回目の序文でも書きましたが、本質的に、仏教は概ね「清濁を併せのむ」宗教観を持っています。

つまり。⁠悟り」を求めるのであれば、同じくらいに「迷い」を許す心を持っているのです。

っていうか冷静に考えまして。⁠まったく迷わない心」ってのも、想像付かなくないでしょうか?

久米の仙人だって、長い修行の末に「若い娘のふくらはぎで法力失って」ますしねぇ。ましてや我々凡人たるや、迷うや迷わざるや。

欲望も不安も迷いも。
そういった様々は、人間にとって不可分なものでもありますし、その揺れ幅は、きっとなにがしか「必要で有用」なものなのではないでしょうか?

迷悟一如、なんて禅語もございます。
迷いがあるからこそ悟れるんだ、と。

バグがあるから、デバッグの手法が生まれるのです。クラッカーが多いから、セキュリティに強い、技術者とかチームとかサービスとか会社とか国とかが生まれてくるのです。スパゲティなプログラムがあればこそ、構造化プログラミングやオブジェクト指向プログラミングにつながるのです。要求が定まらないから、XPだのアジャイルだのといった開発手法が生まれるのです。

必要は発明の母、です。

もちろん、その「必要性」は最小限にとどめておきたいのは、それはそれで人としての偽らざる本音かとは思いますが。

とはいえ、それを忌避して無謬を求めるのも、果たして如何なものかと思うのですが如何でしょうか?

衆生本来は迷道の心。

迷いを忌み嫌うのではなく、迷いっぱなしになるのではなく。
迷った上で、その迷いを「有益に使う」って考え方もまた、一興なのではないでしょうか。

禅語「心こそ 心惑わす心なり」

ランク:中級 カテゴリ:疲労回復

中級でも、いくつかの禅語を入り乱れさせながらお話しをさせていただきたいと思います。

まず冒頭にありますのは。全文を「心こそ 心惑わす心なり 心に心 心許すな」と書かれるものになります。

ここにある、同じ漢字を用いている「心」という言葉は、それぞれ「まったく異なる基底classをもつ、異なるインスタンスである」ことをしっかりと感じ取っていただければと思います。……厄介なことに、非常に似たintafaceを持っているので、色々と間違えやすいのですが。

さて。
人はどうしても迷い悩む生き物です。

初級でも書いた、迷悟一如、なんていう境地にたどり着ければよいのですが。無常(常ならず)とわかってはいつつも、やはり安定を求めるのは人の性かと存じますが如何でしょうか。

システムトラブルは「リカバリやインフラの設計を見直す」よいチャンスだとは思いますが、さりとて「毎日システムトラブルがある」というのは、心にも懐にも体にも対外的にも、大変によろしくないものがあるのではないかと愚考いたしますが如何でしょうか。

色々と思い悩んで、それなりにいろいろなところでいろいろをあさりますと。
よく出てくるのが「無心の境地」というやつになります。

一生懸命に「思い悩まない無心の境地」を求めて、色々と修行をしたりする方もいらっしゃいますし、そこまでいかないにしても、日々修練を自らに課しているかたもいらっしゃると思うのですが。

そんなときに、こんな禅語が背後から襲ってきます。なかなかに、奥も深けりゃ怖くもあるのが禅語の世界です。

「思わじと思うも物を思うなり 思わじとだに思わじやきみ」

「無心」を求めるということは。
つまり「何も思わないようにしよう」「思っている」ことにほかならないんですね。

禅が求める大本の一つは「分け隔てのない世界⁠⁠。

つまり「何かを思っている」に対して「何も思っていない」で対抗しようとしても、それは「わけ隔てている、偏った、アンバランスなモノ」でしかないんですね。

ではどうするのか。

「思わない」ということも、思わなきゃいいんです。話は簡単。言うは易く行うは難し、というやつではありますが。

心は揺れるもんです。思う時は思っちゃうもんです。
揺れるなと思ってもゆれ、⁠思わないようにしよう」と思ってしまうのが避けられないのであれば。

揺れる時はゆれるにまかし、思う時には思うにまかして。
⁠今すべきこと」に集中してしまえばよいのです。

何も思わなければ。無心でいることができれば。
どんなことにも対応できますが、同時にそれは「なにもできていない」ことでもあります。

何かを思い、有心でいることができれば。
予想外の対応には苦労をしますが、その分、心を置いているところには適切かつ早急な対応が可能です。

その「どちらか」ではなくて、双方をバランスよく追い求めてみることが、もしかすると「より大切」なことなのではないでしょうか。

思うことを、思わないことを思って心に惑わされるのではなく。

今本当に大切な成さなければならないことに、心を留め置いてみては如何でしょうか?

禅語「あたかもよし」

ランク:上級 カテゴリ:疲労回復

意味合いはまさにそのまんまなのですが。
なにがどのように「そのまんま」なのかを書いてみたいと思います。

いわゆる「大いなる禍」というものが、IT業界には(いえきっとほかの業界でも同じようなモノだと信じたいのですが⁠⁠、少なからず散見されます。

それがまだ、自分の側に多大なる瑕疵があれば受け入れることもある程度容易かとは思うのですが(受け入れ難い方は是非「過ちて改めざる是を過ちという」という言葉を噛みしめていただければと思います⁠⁠。

時として「相手側に、より多大なる瑕疵がある」であるとか、さらには「どう考えてもこちら側に瑕疵が見あたらない」ような、いわゆる「理不尽」という単語で表現されるような状況が発生することも希ではないと思うのですが如何でしょうか?

そんなときに。禅語では、こんなことを言ってきます。

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
是はこれ災難をのがるる妙法にて候

「死ぬ時には死ね」とはまた大分と如何なものかと思われるのですが。果たしてこの禅語は、こんな身も蓋もない発言を通して、なにを伝えようとしているのでしょうか?

スポーツなんかでよく出てくる話なのですが。
⁠余計な力を限りなく抜いて、柔らかく動くことができる」のは、ある程度までのレベルにおける一つの目標になります。

つまり「自分の力を100%発揮できる状態」ですね。そこができるようになってから「実力を底上げをして、100%の意味する値がより大きくなるようにする」わけなのですが。

例えば、なにがしかトラブルに見舞われた時に。

怖い避けたいどうにかしなきゃ逃げたい、という思いが。或いは逆に、なんとかしなきゃ出来るはずという思いが。
どこかで力みを生んでしまった瞬間に「自らの力が発揮しきれない」状況が生まれます。

いわゆる一つの「力んでしまった」状態ですね。

そうして。
その力みは総て「なんとかして禍を避けたい」という思いが発端になっています。

だからこその

あたかもよし

であり

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候

なのです。

災難を禍を「逃げよう」と思うのではなく。
自然体で受け止めるからこそ、自らの全力を用いることができるのです。あるいは言い方を変えると「力まずにいられる」からこそ、とりあえず「己の100%で対応ができる」のです。

だからこその「災難をのがるる妙法」なのです。
とある有名な漫画で、41歳のパパさんの、素晴らしい一言があります。
次に禍と対面した時には。是非、パパさんの一言をつぶやいてみては如何でしょうか?

これでいいのだ

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