書籍『ピタゴラスの定理でわかる相対性理論』の補講

第14回 相対論から量子力学への展開と日本の時代

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コペンハーゲンに俊才つどう

イギリスのラザフォードのもとで研究していたニールス・ボーアは,コペンハーゲンにもどり1921年に理論物理学研究所を開設します。新しい学派を旗揚げした彼のもとに各地から俊才が集まってきました。1923年,ゲッティンゲン大学に留学中の仁科芳雄は,ボーアの講演を聞くや彼のもとに移ったほどです。

1923年コンプトン(米)は,光の粒子性を実証する実験に成功しました。それに刺激されたルイ・ド・ブロイは,運動するすべての粒子は運動量に反比例した波長をもつという大胆な仮説を提唱します。これは彼の引き出しの中にしまってあった考えであり,ヨーロッパNo.1の物理学者の地位を得てベルリン大学教授になっていたアインシュタインのもとに早速届きます。

ここで二人の提唱をまとめると,

  • アインシュタインの提唱:エネルギーE と周波数ν の関係 E
  • ド・ブロイの提唱:運動量pと波長λの関係 ph/λ
      ⁠電子に対してはpmv; m=質量,v=速度)

となります。

この2つのことを土台にし,さらにボーアのポテンシャルに関する考えを合体した画期的な理論を1926年に提唱したのは,チューリッヒ大学のシュレディンガーでした。この大学はアインシュタインが学んだ連邦工科大学(ETH,エコールポリテクニーク)と通りを一つ隔てたところにあって,いわばツイン大学をなしているように見えます。

光の波動と電子の波動の違いを含めてこのあたりのことを書いたのが,拙書『図解・わかる電気と電子』⁠ブルーバックス)[※2]です。参照してみてほしいと思います。前回もこのあたりのことを紹介してアニメーションを一つ提供してみましたが,試していただいたでしょうか?

1925年ごろから物理学者の興味が量子力学に移ります。ボーアのもとに留学していたドイツのハイゼンベルグは,後に行列力学と呼ばれるようになった量子力学を発表します。このように,時代の寵児は波動力学のシュレディンガーと行列力学のハイゼンベルグです。これらは量子力学の2系統です。その次に脚光を浴びたのがイギリスのディラックです。1928年,彼は相対性理論とシュレディンガーの波動力学を融合して,陽電子を予言しました。ここで言う融合のなかには,ローレンツ共変性という問題もありました。前回指摘したように,シュレディンガーの波動方程式はローレンツ共変にならないために,特殊相対性理論とは矛盾します。この矛盾を天才的な数学手法で切り開き,その論理から予言した陽電子が1930年アメリカのアンダーソンによって宇宙線から確認されために,彼の説に信頼性が寄せられるようになったわけです。

コラム:マックス・プランク:1923年,因果律と人間の自由意志

少し横道にそれますが,大学教養課程で物理学以外に筆者の印象に残ったのがマックス・プランクの講演 Kausalgesetz und Willensfreiheit(Causality and Freedom of Will, 因果律と意思の自由)のテキスト版の講読でした。68歳のプランクが,1923年2月17にベルリンのプロイセン科学アカデミーで行った公開講演です。前述のコラム「1923年時代が動く」に記したように,この年は物理学の発展にとって重要な年でした。

当時No.1の物理学者が,物理学の原因・結果の法則と人間の意思の自由という尊厳の対立関係を語った講演ですが,単語のすべてを辞書から拾って複雑なドイツ語文法の講義をききながら解釈するといっても,何を言っているのかわかりませんでした。その理由の一つは,ドイツ語は当然のこと,当時のヨーロッパ文化の時代背景,そして量子力学に造詣の深い物理学者でないと,こういう話の講釈は困難ではないかと思います。

しかし有難いことに,ドイツ文学の教授の,工学部の学生には第一級の物理学者の思考を原文で理解させようという熱意を感じましたし,クラスメートの中には克明に予習をしてくるのか,自然に理解できてしまうのか,教授がこの難解なテキストのどこを指定してもメペペラと読んで訳が口から出てくる友人もいました。

ちなみに,インターネットで見つけたのですが,この訳がある大学の大学院の受験問題の題材になっていることを知りました。物理学の因果律の問題は,簡単なことではなく,湯川秀樹も深くこの思索をしていたことを後の話題とします。

日本の時代が始まる

前々回の1904年と1905年のコラムに,長岡半太郎の原子モデルのことを1行だけ記しました。残念ながら東洋・日本の物理学はその存在すら認められていなかったこともあって,量子力学誕生の前夜の長岡の発想は見過ごされてしまいました。

量子力学のあと,場の量子論,素粒子論へと進むところから日本の物理学者の貢献が顕著になります。7年半の欧州留学のうち5年をコペンハーゲンのニールス・ボーアの研究室で過ごし,1928年に帰国した仁科芳雄(1890-1951)にはポストを提供する大学がなく,彼は理化学研究所の長岡半太郎の研究室に所属しました。

ここで重要なのは,仁科が京都大学で量子力学の講義を行って湯川と朝永に大きな影響を与えたことです。それがいつのことだったかについては,1928年説と1931年説があります。31年の5月から1カ月というのは確実ようですが,帰国後まもなく(二人が学生のとき)という資料もあるので,ひょっとすると2回だったのでしょうか?

仁科は,31年の京都大学での集中講義の直後に理研で仁科研究室を立ち上げ,朝永を自分のもとに採用します。このとき湯川は,母校の講師になりますが,第2番目の帝国大学―京都大学―は保守的になってしまったためか,新しい量子力学を受け入れる雰囲気がまだなかったようです。

1929年,仁科はハイゼンベルグとディラックを日本に招待しています。

ノンフィクション作家松尾博志が,湯川と朝永の生涯の交錯を徹底的に調べて,⁠電子立国日本を育てた男』を著したのは1992年です。このタイトルと湯川・朝永が結びつかないのだが,それについては次回に別の視点から稿をあらためたいと思います。

松尾によると,この二人の講演を聞いた湯川と朝永は対照的な大きな影響をうけています。朝永は彼らの話を聞いて量子力学がはじめて腑に落ちたと感じたのに対して,湯川は,彼らに対抗意識を覚えたようです。この若いヨーロッパの学者を迎えている日本の教授たちの対等と卑屈の入り混じった雰囲気を見て,自分は外国などに留学はしないで日本でよい仕事をするのだという決意を形成します。当時,留学で箔をつけ,仕事の種も外国で仕込んでくるのが日本の学者の常識だった時代に湯川は異例の決心をしたといえます。ハイゼンベルグとディラックはまもなくノーベル賞を得るのですが,湯川と朝永もノーベル賞を獲得したことを読者はご存知のことと思います

こうして新しい展開は意外なところから動きだしました。阪大の同僚で東大出身の伏見康治が見つけてきたフェルミのイタリア語の論文から,湯川は(パウリが予言した)ニュートリーノという素粒子のことを知ります。それをヒントに原子核の中で陽子同士を引付けあっている核力を解明しようと眠れない夜が続くことになります。そしてついに電子の200倍の質量の中間子という仮説によって,新しい量子力学の理論をつくりだしたのです。中間子は,陽子間の斥力をおさえ,電荷を持たない中性子をも結合させて原子核を安定にする核力を媒介とする粒子です。

1934年の晩秋にそれをセミナーで聞いたときのことを回想して伏見は「湯川の話の筋を理解できたのは坂田さんを除いて私だけではなかったかと思う」と語っています。坂田昌一は湯川の最初の弟子で1942年に名古屋帝大に移り,伏見は1961年名古屋大学に設立されたプラズマ研究所所長になります。

松尾によると,この2人を含めて周辺の人々は湯川の中間子仮説は理論としては理解できたが,本心で認めたのは八木秀次だったようです。湯川が東京駒込の理化学研究所に理論公表の挨拶に行ったとき,仁科もすぐにはその理論を受け入れることは困難だったようです。精々面白いねという社交辞令の激励だった様子を松尾は書いています。しかし頭の切れることでは湯川よりは上だと自他ともに認めていた朝永は,先を越されたなという実感をもち,湯川の理論を早速受け入れて自分の理論の構築に向かったようです。

翌年(1935)2月に日本物理学会欧文雑誌に掲載され,世界各地の大学に発送されたのですが,ほとんど図書館の倉庫に置かれたままだったようです。つまり東洋の国の物理学雑誌は捨てることもできない紙くず扱いだったのです。

量子力学の生みの親ともいえるニールス・ボーアが仁科の計らいで来日したとき,湯川は彼に会って中間子論について意見を求めたのですが,ボーアは新粒子には冷淡でした。不思議なことに物理学の歴史をたどると,ひとたび大御所となった学者は保守的に変身します。

湯川の予言した中間子は,当時の加速器ではこの粒子を飛び出させるのは無理としても,ウィルソンの霧箱を利用して宇宙線の中から見つかる可能性はありました。しかし日本の研究機関で確認しようとしなかったことは,当時の実験物理学者の見識の甘さか執念不足だったか,反省があったようです。

1936年にまたしてもカリフォルニア工科大学のアンダーソンが宇宙線の中に新しい粒子を見つけたという報告が届きました。乾板10000枚の中の1枚に質量が電子の120~400倍と推定される粒子の痕跡があったのです。アンダーソンらは霧箱で追い続けて質量240倍と決定しました。この新粒子によって湯川の名が知られるようになったのですが,それは湯川の予言した中間子とは違うものであることがやがてわかります。イギリスのセシル・パウエルが,湯川のπ中間子を確認したのは1947年です。

坂田は中間子には2種類あるという理論を発表していました。その後中間子には多くのものがあることがわかり複雑になります。

コラム 国際政治の中で

歴史は動きます。アインシュタインの式とされるE=mc2 が政治的・軍事的な意味をもつようになったのは,ドイツのハーンとシュトラスマンによるウラニウムの核分裂現象の発見(1938年)によるものでした。この核分裂によって質量が減って大きなエネルギーが発生します。湯川は中性子と陽子の間の強力な核力の説明をしたのですが,この核力のたがをはずして分裂させる方法をドイツ人物理学者が見つけたのです。核分裂によって質量が減って光のエネルギーに変化するときに,中性子が放出されてそれが別の原子核を分裂させるという連鎖反応の可能性が見つかったのです。

この連続反応を使うことによって強力な爆弾ができるだろうという状況が,国際政治のスイッチを入れたようなものです。それは1939年です。ドイツのヒトラー政権は爆弾製造の研究を開始します。このとき,ヒトラーによるユダヤ人迫害のため,アインシュタインはアメリカに逃れて以後,高等研究所(Institute of Advanced Study,日本ではプリンストン高等研究所として知られている)で学者生活を送ることになります。シュレディンガーはアイルランドに亡命し,時の首相がアメリカの向うをはって設立したダブリン高等研究所の所長になっていました。

多くの学者がドイツを去るなかハイゼンベルグはドイツにとどまり原爆開発の仕事を余儀なくされていたようですが, 事情は複雑でハイゼンベルグも大変な苦難を体験します。