書籍『ピタゴラスの定理でわかる相対性理論』の補講

第15回 ライバル同士の対話

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2.湯川と朝永(東北大学のグランドで場と素粒子を論じる)

ドキュメンタリー作家松尾博志は,湯川と朝永の生涯の交錯を徹底的にたどろうとした。その仕事をしていくと,そこに八木秀次という「書き手の心をひきつける科学者」が浮上してきたという。そして『電子立国日本を育てた男』⁠文藝春秋)として結実した。タイトルに若干の不自然さを感じるのだが,それには訳がある。八木という人物は人の才能を多方面で人を開花させたからだ。

その例を年代順に3つ挙げよう。八木は,1914年から翌年まで無線技術のためにロンドンでの留学中に大英博物館の東洋学者アーサー・ウェーレーの日本語(といっても古典)と漢文読解の手助けをする。その結果,ウェーレーはやがて源氏物語を英訳し(The Tale of Genji)一躍有名になった。

もう一つは仙台の東北大学で指向性アンテナを発明して,日本の電子工学を担う人材を育成した。このことを疑う人はいないだろう。

そして,日本の物理学を1930年代に世界レベルに引き上げる環境と人材を,大阪大学に築いたことだ。

この本の第7章(湯川秀樹と朝永振一郎,P.199)に,京都大学にいた湯川秀樹が仙台で八木に始めて会ったときのことと,多分その翌日の昼休に東北大学のキャンパスグランドで朝永振一郎と新しい粒子の予言について,小枝で数式を書きながら論じた場面が克明に書かれている。この場面が何とも不思議である。

歴史を遡る。1922年にアインシュタインは,来日したときのことを後年になって思い返して,本多光太郎,日下部四太郎,愛知恵一,石原純がいた当時の東北大学は物理学の脅威だといった。このなかで日本の鉄鋼・金属産業の発展に大きな足跡を残したのが本多であり,八木との交友も深かった。

八木がドイツ(ドレスデン⁠⁠,イギリス(ロンドン⁠⁠,アメリカ(ハーバード)での3年半にもおよぶ研修を終えて仙台に戻ったのは1916年だが,3年後の1919年に東北大学に工学部ができて,彼は電気工学科を創設した。

イノベーションの実績は物理学科から電気工学に移っていった。国力を左右する技術が波長の短い強力な電波の発振と受信技術である。1920年には八木が留学していたドレスデン工科大学では大きな進歩があって,東北大を日本の弱電技術の中心にしようとしていた八木の士気を高めていたに違いない。

1923年に,学生が実験中に不思議な現象を見つけたのがきっかけで,1925年にはいわゆる八木アンテナの原理が確立され,宇田の詳細な実用化研究によって八木・宇田アンテナが発展した。

1927年には,岡部金次郎が陽極分割型マグネトロンを発明して強力な超短波を発信する真空管ができる。東北大学に発明・発見の雰囲気がみなぎっていたのだ。それは八木秀次という異才によるものだと筆者は思う。

ところが,1931年に大阪帝国大学の設立があって,学長を引きうけた長岡半太郎は八木に物理学科の創設を頼んだ。しばらくは600kmも遠方の東北帝大との兼務である。彼は理論物理の若手として朝永と湯川を候補リストに挙げていた。しかし朝永は,すでに仁科が理研に獲得していた。1933年の四月,東北大学で数学物理学会の年次学会があり,物理関係者は仙台に集まっていた。

湯川は,八木を市内に借りていた応接室に訪ねて,窮屈な京都大学から新設の大阪に移りたいと願った。八木は即決した。おそらく,内気そうで静かな声の内面にある大望を湯川に感じ取ったのだろう。

その翌日の昼休みだろう。湯川はクラスメートだった朝永と大学のグランドを散歩し,立ち止まって小枝で地面に数式を書きながら,けったいな粒子のことを話題にして朝永の考えを聞こうとしたのだ。この問題で対等に議論できる相手は,日本には朝永しかいなかったのだ。

このディスカッションを辿ってみて凄いと思うのは,クラスメートであると同時に,ともにノーベル物理学賞をとることになるライバル同士の心理描写である。

松尾はこのあたりについて膨大な資料を集めて考えた。核力を解明するための量子力学についての鋭さにおいて,通常の文科作家とは違う松尾は,この2人がこのときに思ったことはこれしかないと確信して書いたという。

朝永は誰からも優秀で快活と認められていた。余裕を感じさせていたに違いない。湯川は第三高等学校の時代から,ドイツから来る物理の雑誌をねずみが餌をかじるように読んでいた。京都大学の講師時代といっても,日本に物理学の先端を教える大学があることすら欧米には知られていなかったときに,真剣に原子核の中の内部の陽子と中性子を結びつける強力な力を正攻法で理論づけようとしていたのだ。

核内にシュレディンガーの波動方程式が適用できるかどうか疑問視されていたときに,波動方程式を持ち込み,電子が核力に関与しているだろうというハイゼンベルグの仮説を堂々と批判した。

このとき東北大のグランドで湯川は,よもや朝永が理研で類似の問題で,先を行っているのではあるまいかと詮索していた。しかし朝永は,⁠けったいな粒子」の存在を湯川から聞いて,たじろぎ始めたのだ。兎が亀に追い越され始めたことを感じたのかもしれない。翌日,湯川は「核内電子に関する一考察」と題して発表した。そのときの仁科芳雄の質問の様子は資料にも残っていて,松尾はそれにもとづいた記述をしている。読者にはこの書を手にとって読んでいただきたい。

ちなみに湯川はこのときの発表を論文にはしなかった。松尾が言うように,突っ込みを怠ってしまったのか,あるいは,湯川は納得のいかない中途半端な論文を書きたくなかったのだろうか? その前年の1932年に陽子とほとんど同じ質量を有し電荷をもたない粒子の証明がイギリスのジェームス・チャドウィックの一連の実験によってなされた。これが中性子である。そこで問題になっていたのが,原子核内の複数の陽子同士を結びつける強力な引力(これを核力という)β 崩壊という現象だった。β 崩壊とは中性子がβ線(電子)とニュートリーノの組を発生して陽子に変化する現象である。β線が発生するので,核力を担う粒子として電子が核内にあるだろうという予測があった。このとき,湯川も朝永もニュートリーノをまだ知らなかった。ヨーロッパではオーストリアのパウリがその存在を語っていたが自信がなく論文にはしていなかったので,物理の辺境の地日本には聞こえてこなかった。

ここで「粒子と場」について筆者のコメントを加えよう。電子は物質の最小単位の一つで粒子である。光にも最小単位の光子がある。光は電磁波でもあるが,電磁波と並存する光子が最小単位であれば電磁界(電磁場)にも最小単位がある。つまり場の量子である。ということは場と量子は対の関係をもつ。核内の局所に働く力の場の対になる量子が電子だろうという発想があったし,湯川もそう考えた。ところがシュレディンガーの波動方程式を立てて解析すると核力の到達距離が実際よりもかなり大きくなってしまうのが,湯川の問題だったのだろう。もう一つ,スピンが合わないことも問題だった。

逆に,核力の場の範囲を実験からわかっている数値にすると,質量のかなり大きな粒子(量子)が存在することになり,⁠そんなものあらへんで」ということになったのだ。