書籍『ピタゴラスの定理でわかる相対性理論』の補講

第15回 ライバル同士の対話

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八木と湯川

1933年5月に,湯川は阪大に移って講義を始めた。論理明晰だったが,迫力なく学生には眠気を催すしゃべり方だったらしい。それから1年になろうとするある日の夕方,湯川は八木の部屋で痛烈な面責を受けた。湯川は大学卒業後5年になるが論文がなかった。そのことは本書のp.30~36に「湯川秀樹の鬱屈」という見出しで書かれている。部分を引用しよう。

「君が去年の春に仙台の学会で発表した核内電子の研究を聞いて,私はなかなか面白いと思ったよ。量子力学の一番先っちょに取り付いて,ほかのだれもがやっていないようなことを考えていると思った。私は君のそこを買ったんだよ。…………あの発表は結局論文にはしなったらしいが,それはいいとしても,その後もいっこうに論文がでてこないではないか。…………⁠⁠ 八木は,この苦言では本当は君ではなくて朝永君を採りたかったということまで言って,湯川の自尊心を十分に傷つけている。いや,普通なら傷つけられるし,そのために出勤もできない心理状態になっても現代では不思議ではない。

(ここは『電子立国日本を育てた男』第8章P.251になるが)八木が同年6月に半年の海外出張に立つ前に,湯川は今度は伏見康治を引き合いに出されて論文を促された。湯川は八木が帰国するまでに核力の問題を解決したかった。伏見が見つけたフェルミのイタリア語論文でニュートリーノを知ってヒントが得られて,八木の帰国とほぼ同時に計算ができ上がって,セミナー発表,論文執筆となったことは前回に書いた。これも松尾の著作をもとにした記述である。

湯川の1935年の論文※5はproton(陽子)とneutron(中性子⁠⁠ という用語で論じているが,定冠詞の使い方が正統な英語とは違っているのかドイツ語の影響を受けているのか,1個のprotonと1個のneutronの関係を厳密に論じているのか,文体だけでは判然としないところがある。彼の英語にケチをつけようというのではなく,陽子のほかに中性子の存在がほぼ実験で確認された直後にこれらの粒子の間の核力を,日本語を母語として漢籍にも明るく,ドイツ語と英語が使える頭脳で導きだしたことが重要である。それを英語で論じたのだ。⁠湯川は大戦中は対戦国の英語を使わず,同盟国のドイツ語で論文を書いた。)

この英語論文では,ハイゼンベルグのいうPlatzwechselという用語はドイツ語のままになっている。これは英語に直訳すればplace exchange あるいはposition exchangeであり,陽子と中性子が核力粒子(中間子)をキャッチボールするとき,互いの位置を交換することである。しかし独・英の技術用語辞典を調べると,最初にphantom transportationとあって幻想輸送というふうな神秘的な意味をもつ用語かもしれない。

この論文の脚注に,陽子と中性子の作用に関する計算にはハイゼンベルグの理論を使ったが,朝永に負うところが大きかったと記している。

松尾によると,欧米の物理学者が回想して,⁠新粒子の発見の驚きよりも,それが既に日本で予言されていたという驚きのほうが大きかった。」という。

この物語で重要なのは,アインシュタインの相対性理論を超えて自然の解明を数学を駆使した人々の交錯であり,松尾のテーマである。こういう問題を,読者にわからせようとやさしく書いたものではなく本質に迫って書いたものを読むことこそ大事だと思う。そういう意味で松尾の『電子立国日本を育てた男』は勧められる。復刊を求める人が多いが絶版状態であるので,読者には古書市場から入手してほしい。本書は,東北大での抜山平一との対決の場面も豊富であり2段組475ページを超える。できれば松尾に期待したいのだが,ノンフィクションの標準スタイルで写真や資料を添えて八木・湯川・朝永に的を絞って書き直してほしい。

八木は1936年に兼務が解かれて東北大学への影響力を完全に失う。湯川と朝永のディスカッションがされたグランドは,八木が工学部と理学部を往来したときに歩いていたところではあるまいか。1933年にはまだ八木の雰囲気は十分に残っていたと思う。そこにはさまざまの発明発見の場ができた。量子力学では,場は量子と並存する。発明・発見の場の量子は人である。湯川と朝永がちょうど陽子と中性子のようにいたとすれば中間子は誰だっただろうか?

湯川はみずからのペンで八木のことを書き残していない。湯川がノーベル賞を授与された当時,八木は戦時研究の咎による公職追放の身だった。八木は謹んでいたのか自分の関与など発言をしていない。

筆者は,恩師成瀬政男先生(東北大学精密工学科教授の後,職業訓練大学校校長)からは,戦後の八木と湯川の人間関係のことを聞いていた。学術関係者の会議などで湯川は八木には尊敬と畏敬の念を抱いていたようである。もしあのとき八木の苦言がなく,今日ように挨拶としての激励の言葉が強調されていたら,湯川理論の完成は遅れたかもしれない。そうすればきっとヨーロッパの誰かに先んじられていただろう。

囲碁・将棋の世界の指導者は,アマチュアやお客さんは褒めるが,プロの棋士を目指す見込みのある者は絶対に褒めないという。

作家松尾が言うように,八木の最大の業績は湯川にノーベル賞を獲らせたことかもしない。湯川と朝永の東北大学のグランドのディスカッションは当事者二人がそのご何度も思い返して語ったという。

朝永のその後

戦争によって欧米と情報が遮断されているとき,湯川を中心とする量子力学が深められた。朝永は相対性理論を取り入れて理論を発展させて繰り込み理論というものを作っていた。それは量子力学の計算を進めていくと,有限値であるべき物理量が無限大になってしまうことをかなり高い精度で解決する理論のことで,英語ではrenormalization theoryと呼ばれている。このことをイギリスに生まれてアメリカで活躍したフリーマン・ダイソンが次のように述べている。

"All the papers of Professor Tomonaga and his associates which have yet been published were completed before the end of 1945(6?). The isolation of these Japanese workers has undoubtedly constituted a serious loss to theoretical physics."

(朝永教授とそのグループによって発表された論文は1945年の年末以前に完成していたものだった。日本の研究者が隔離されていたことは理論物理学にとっては深刻な損失だったことは確かだ。)

朝永が繰り込み理論を世界に向けて発表したのは1947年のことだ。ダイソンは文学と数学の両方に才能を備えた物理学者で,朝永と一緒に仕事をしていたファインマンとシュウィンガー3人の理論のつながりを明らかにした。そういうこともあって,この3人が1965年のノーベル物理学賞を受賞したのだが,ダイソンは3人枠から漏れた。

参考資料
[※1]湯川秀樹:アインシュタイン選集3,共立出版
[※2]John Stachel: The collected papers of Albert Einstein, Volume 2, Princeton University Press, 1989. 本書は650ページを越えるが,ザルツブルグの学会の質疑応答の部分はp.589に23行で語数では150語ぐらいのもの。p.590にドイツ語を引用しながら英語で短かい解説がある。
[※3]Andrew Warwick: Master of Theory, The University of Chicago Press
[※4]砂川重信:理論電磁気学,紀伊国屋書店
⁠電子立国日本を育てた男 -八木秀次と独創者たち-』松尾 博志 ⁠著⁠⁠  文藝春秋 復刊ドットコム
[※5]">Hideki Yukawa Onthe Interaction of Elementary Particles