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第3回 偉大な開発者,すぐれたリーダーが勝てなかった「老いの現実」

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FORTRANって何?

科学の世界におけるニュートンやアインシュタインのように,コンピュータの世界にも「この人がいなければ,今日の発展はなかっただろう」と思わせる偉人や天才が少なからず存在する。3月17日,そんな偉大な開発者のひとり-コンピュータプログラミングの世界に「コンパイル」という概念をはじめてもたらしたスーパーハッカー-ジョン・バッカス(John Backus)が,その生涯をオレゴンの自宅で閉じた。82歳だった。

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John Backus氏(写真提供:IBM)

プログラミング言語「FORTRAN(FORmula TRANslation)」は,バッカスとその部下たちによって生み出された世界初の高水準言語である。つまり,人間が理解できる言葉で書かれたはじめてのプログラミング言語だ。現在でも,数値計算が主流の科学技術研究所などではなくてはならない存在だ。ソフトウェアという言葉すら存在せず,プログラミングとはマシンごとにプログラマが直接,数字を延々と入力する作業を指していた時代にあって,機械語への翻訳を「コンパイラ」なるものに担当させようと思いついたバッカスの創造力には驚嘆するしかない。

FORTRANを知らない若い世代の開発者でも,XMLの規格である「バッカス‐ナウア記法(Backus-Naur Form,BNF記法)」くらいは聞いたことがあるはずだ。バッカスが考案し,その名が冠されたこのメタ言語は,後のプログラミング言語設計に多大な影響を与えた。FORTRANとBNF記法,主にこの2つの功績で,バッカスは1977年に「コンピュータ界のノーベル賞」とも言われるチューリング賞を受賞している。

TEAM FORTRAN

だが,バッカスのすごさは開発者としての偉大な業績だけにとどまらない。
バッカスは1950年にIBMに入社し,1954年にFORTRANの原案に当たる企画書を上司に提出している。企画承認後すぐに"Programming Research Group"が結成され,バッカスは3年にわたってこの開発チームを率いることになる。もっとも会社との約束は最初,半年だったらしい。

「人間に近い言葉で,ラクに,速くプログラミングをしたい」と考えた企画力,速攻で行動に移した実行力,そして長期間チームを指揮する統率力…,バッカスは自身がすぐれた開発者であると同時に,類まれなチームリーダーでもあったのだ。

メンバー採用においてもバッカスはユニークだった。結晶学者,暗号の専門家,チェスの名人…また,当時としては珍しく大学を出たばかりの若い女性もアーキテクトとして採用している。偏見にとらわれず,自分が優秀だと信じた人間を雇い入れ,適材適所に配置する,言葉で言うのは簡単だが,並みの管理職にできることではない。「彼は私たちにコラボレーションの大切さ,楽しさを教えてくれた」と女性メンバーのLois Haibtは後に振り返っている。

チーム名はいつしか"TEAM FORTRAN"に変わり,メンバーは10名になっていた。お堅い社風のIBMにあって,彼らはかなり浮いた存在であったらしい。当時,これまた歴史的開発者のひとりであるRobert BermerがIBMに在籍していたが,TEAM FORTRANのことを「四六時中,オフィスにめりこんで仕事をしているような連中だった」と語っている。真夜中にデバッグを行い,巨大な704(IBM製のスーパーコンピュータ)の横で仮眠を取り,息抜きに雪合戦に興じる彼らに冷たい視線をくれていた社員も多かったはずだが,バッカスは彼らを守り通した。動かないプログラムにうんざりし,意気消沈しているメンバーがいれば「失敗した? いいことじゃないか,また動かない方法がひとつ見つかったんだ。たとえ失敗するとしても,手を抜いて取り組んではいけない。つねに"Work Hard"だ」と励ました。

1957年2月,LAで行われた「Western Joint Computer Conference」で,大勢の顧客を前にFORTRANは初のデモを行った。同じ数値計算をアセンブラとFORTRANで行い,正確さと速さを比較するものだった。結果はFORTRANの圧勝。息をのむ顧客たちを見て,デモを行ったメンバーのIrving Zillerは「もしかして,俺たちはすごいことをやってしまったのかも…」と実感したという。

晩年の家庭回帰と老いへの恐怖

FORTRANの成功で名声が高まったバッカスだが,仕事に没頭しすぎる人間の典型だったのか,家庭を顧みることはほとんどなかった。2人の娘-ポーラとカレン-をもうけた妻・マージョリーとは1966年に離婚,娘たちが父親を見かけるのは週末かバケーションだけだったという。

バッカスはIBMのフェローとして1991年まで同社で勤め上げたのち,引退生活に入った。引退後も,伝説的開発者を慕う若い開発者を気軽に自宅に呼び,ときには議論を闘わすなど,プログラミングの世界から完全に離れることはなかった。だが2004年,2番目の妻・バーバラが亡くなると突然,娘のポーラと孫娘のアリーが住むオレゴン州アシュランドに移る。「家族のことを,もっと知りたい」がその理由だったが,あまり地域社会にはなじめなかったらしい。ただポーラの愛犬・ダイナはバッカスによくなつき,毎朝一緒に散歩をしていた。

「老いて思うように脳が働くなっていくことに,父はとても苦しんでいた」と娘たちは言う。「ナーシングホームで,よだれを垂らして徘徊するような老人にはなりたくない」と語っていたバッカスにとって,容赦なく襲いかかる「老い」という現実を受け入れることは筆舌に尽くしがたかったに違いない。

バッカスの家族は死因を明らかにしていないが,ただの老衰ではなかったのだろう。数々の輝かしい実績を残し,「イノベーションはトライアル&エラーの繰り返し」とチームを鼓舞して前に進んできた黎明期のスーパーハッカー。今,世界中の開発者がその死を悼んでいる。

著者プロフィール

階戸明(かいとあきら)

起きてからまず海外ニュースサイトのハシゴをしないと1日を始められない海外ニュースウォッチャー。英語は英検準一級の資格を持ち,日本人と話すより英語圏の人のほうがウマが合う。

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