2009年11月13日
出すのは面倒だし、すぐに連絡はとれるけど
子供の頃,年賀状は,学校の先生や特に仲の良いクラスメイト,親戚,近所やお稽古事のお友達といった,日々の生活や行事で深く関わる実に様々な方に対して出していたのではないでしょうか?
私には,拙いながらも心からの「感謝」「尊敬」「友情」「親愛」を素直に添えることができ,年賀状を書くこと自体が純粋に楽しかった記憶が残っております。
しかし,成長と共に知り合いも更に増え,時間に追われる日常が続きます。その中で年賀状の宛名を前にした一人一人に対する思い入れが,いつの間にか一枚一枚に対する面倒臭さに変わってしまってはいないでしょうか。
「いかに枚数を減らすか」ということばかり考えるようになり,「利害関係の有る無し」に重点を置き始めます。次には「メールで送ろう」「携帯からにしよう」と,どんどん形骸化して行く。終いには貰う側からするとダイレクトメールのようなものになってはいないでしょうか。
「とりあえず出しておけばいい」―― そのような,単なる自己満足の年賀状ほど空しいものはありません。
それ以上に問題なのは「誰それとは最近交流がないから今年はもう出さなくても良いだろう」と,一時かもしれない没交渉の状況で関係を断ってしまうことです。
確かにどんなに長い間交流が無くても,今はメールや携帯電話で気軽に「元気?覚えてる?」と声を掛ければ返事は来るでしょう。そこからまたすぐに交流が始まるかもしれません。けれど,例え年1回の年賀状のやり取りだけだとしても,お互いの息災を定期的に確認し合う心の交流の生み出す絆は太く強いものです。そういったものが今の我々には欠けてしまっているような気がします。
「義理」賀状の枚数を減らしてみませんか
その昔,江戸の講(※)では初対面では「本名を名乗り合わない」という暗黙の了解がありました。「八度の契り」といって,初対面の方にはそう簡単に名前等を明かさないという,慎重な人付き合いを促す教えもあった程です。
講で何度かご一緒し,家柄や肩書き等を抜きにその方の本質を知って初めて名乗り合う。それから親戚同様の付き合いが始まる。そして,死ぬまで続ける覚悟でお付き合いを始めたといいいます。
こんなことばかりを申しますと,特にお若い方には煩わしく感じる方も多くいらっしゃるかもしれません。しかし,現代人の広く浅い人間関係から成り立つ社会の脆さを,やはり昨今の年賀状の在り方が象徴しているように思えるのです。
それでもここ数年は,一度は年賀状をメールに替えた方々が,再度年賀状でご挨拶をくださるようになりました。それは一人一人が必要性に気づき,実践なさった結果です。
個々が自ら疑問を持ち,変えて行く事の出来る社会。そうならば我々の未来も決して暗いことばかりではないと思えます。
この年末は,お仕事やお付き合いで出す形だけの「義理」賀状の枚数を減らしてでも,けんかしたままになっているあの人や,以前お世話になったあの方へ,短くとも心のこもった一言を添えた年賀状をお書きになってはいかがでしょうか。
次回で最終回となります。「実践的な年賀状のあれこれ」についてお話させて頂きます。
- ※ 講とは
- 同じものを学ばんとする有志の集まりのこと。長屋のおかみさん同士が家事を教え合ったりしたものから,哲学的な論議をするものまであった。