疾走するネット・ダイナミズム

第8回 ネット時代に著作権は不用か?

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かみ合わない「主張」

ネット上では,とかく権利主張する側を安易に攻撃する風潮があるが,そこは冷静になったほうがいい。ウェブ媒体もそういう意見にビューが集まりやすいので,媒体のポリシーとは無関係に関連記事やそういう論調を結果的にあおっている部分もあるからだ。とくに成熟しきっていない広告モデルの媒体市場は,注意が必要だ。テレビ同様に広告収入(=ビュー)のためのコンテンツが氾濫する危険性がある。もっとも,それがCGMでありウェブ市場だという考え方もなくはないが。

いくつかのネット上の主張を見てみよう。

オリジナルの作者が無断複製やネットでのグレーな利用を批判することについて,そもそも著作物に純粋なオリジナルなんて存在しない,たいていの作品は類似のものをたどることができる,という意見がある。宗教哲学で似たような考え方がなくもないが,本能と理性の境界がじつは明確にできないのと同じで,完全な創造とただの複製の間にはかなり幅の広い段階や状態がある。この極論は思想としては面白いが,実社会では対して意味がない理屈だ。あるいは,⁠××」ジェネレータというテキスト生成ソフトがあるが,あれがもう少し進歩すれば,その作家の作品と区別がつかなくなるかもしれないともいう意見もあるが,これは単に「チューリングテスト」の話をしているだけだ。機械と人間の区別が本当につかないとしたら,その機械は人格を持った人間とみなせばよい。

ネット上では権利主張をゆるくしてコピーも派生著作物も容認したほうが,権利者も含めたビジネスが活性化するという意見はどうだろうか。典型的なものは,ウェブの動画投稿やパロディ作品などを見てオリジナルを買ったという例だ。こういった現象は,じつはネットに限ったことではない。ネット以前の時代でもクチコミやパロディ,別媒体での無断利用がオリジナルの売上に貢献したことがないとはいえないだろう。それほど法律を修正しないでも,現行の著作権法でもネット上の利用について柔軟な運用は不可能ではない。

なおこれについては,権利者側も注意が必要だ。レコードや本が売れなくなっているのは,ネットだけが原因ではないはずだ。ライフスタイルや価値観の多様化,飽和市場でのビジネスモデルの転換などじつに複雑な要因がからみあったものであるはずだ。したがって,ネットがCDの売上に影響はないという研究結果はじつは厳密な検証が不可能であるのと同様に,ネットだけに拒絶反応を示しても収入が上がるわけではない。月並みだが,時代に即したスタイルを考える必要があるはずだ。

欧米にはフェアユース(Fair Use)という考え方があるが日本にはないという意見もある。たしかに法律用語としては存在しないが,その概念が存在しないわけではない。⁠引用」は法的な規定と判例等で耐性の高い解釈ができているが,それ以外の利用がすべてNGというわけではない。そもそも著作権侵害は親告罪だ。当事者が認めれば問題ないわけで,GPLやCCLが成立しているのはそのためだ。ちなみに,誤解している人がいるが,⁠引用」とは権利者に無断できる著作物の利用行為だ。法律用語としては「引用を許可して欲しい」というのは正しくない。

著作人格権を否定する人もいる。人格権は著作と同時に発生し,消滅させることはできない。具体的な権利としては,その作者であることを主張する権利,勝手に内容を変えさせない権利など,経済活動や効果と直結しない著作物の根源的な権利だ。欧米の著作権法にはない概念なので不用ではないかというものだ。欧米にないものはすべて不用という理屈には無理があるが,ネット上での利用の障害になっている事実もある。財産権の部分で実質的にカバーできるはずというものだ。確かにその可能性は高いし,一考の価値はあるが,現状の体系の根幹をなしている部分だけに,既存契約への影響が大きい。極端にいえば,ある著作物が,作者のものではなく,出版社やテレビ局のものになってしまう。同じ著作物やキャラクターに対して複数の「原作者」が存在してしまう可能性が増える(現状でもそういう訴訟の事例はある)などの問題が懸念される。

既得権に固執しているのは誰か

ユーザ側は基本的に著作物を「消費」するだけなので,生産者側の都合は考慮しない。それは別に間違いではないが,あまりに全体を見ない消費が中長期的には経済活動を破綻させるように,近視眼的な主張は考え直したほうがいい。⁠使いたいからコピーに制限をかけるな」⁠クリックだけでコピーできるんだから金など払う必要はない」⁠ただのダウンロードに金をとるな」といった理屈はわからないでもないが,消費するだけでは「生態系」を破壊し,結局市場を消滅させるのはいくつもの歴史が証明している。ネットでコピーや派生物がいくらでも作れるから問題ないという意見は危険でもあるし,そもそもその発想自体が創作やクリエイションを否定することにならないだろうか。

iPhoneのコピー商品(右:中国製)
ネットの自由な発想や文化が海賊版やコピー商品の温床といわれないようにしたい。これらは表裏一体かもしれないが,先進国や法治国家においてそれが違法行為のいいわけにはならない

翻って,ネットは個人を情報発信者にせしめ,個人サイトを「メディア」たらしめ,だれでも「クリエイター」になれると喧伝されている。ネット上ではだれでも消費者でありながら制作者であるということだ。ならば,⁠権利者」を安易に糾弾することは自分たちの活動範囲を狭めることになる可能性がある。過去の制作者の権利は解放させ,自分たちの権利も同様に解放するのだろうか(そう主張している人もいるが)⁠既得権益というが,ユーザも過去のインターネットの「法的にグレーなコピー」「規制」の埒外だった「既得権益」に固持していないだろうか。

これは,まさに筆者自身に対する問いかけでもある。

著者プロフィール

中尾真二(なかおしんじ)

1961年生まれ。ハードウェア・コンピュータ技術者からアスキーに転職し,およそ10年ほど技術書籍・雑誌の編集に携わる。その後,オライリー・ジャパンで5年ほど企画・編集に従事。編集長時代に当時の日本法人社長とケンカしてクビに(笑)。現在はRBB TODAY,レスポンス他でニュース,コラムなどを編集・執筆。