2013年6月、AppleからiOS 7をフラットデザインという考え方のUIに変更するという発表がありました。
現実世界に実際にある物の質感をUIに取り込んだ視覚的なデザインをスキュアモーフィズムと言います。iOS 6まで採用されていたことがよく知られています。
一方フラットデザインは、その名の通り平面的な視覚的印象が強いのが特徴です。Windows 8でもiOS 7に先駆けてフラットデザインのUIが採用されています。
しかし、いったいなぜ突然2つのOSがフラットデザインを採用することになったのでしょうか。スキュアモーフィズムからフラットデザインへの移行は、単なる見かけ上の変更ではなく、コンピュータの本質に向きあわなければならないほど深い意味を持っています。今回はその背後にあるメタファやコンピュータの本質であるメタメディアという観点から、フラットデザインへの移行の意義を考えていきます。
メタファ
スキュアモーフィズムの根幹はメタファ(比喩)です。これまでのUIの表現の多くは、基本的にメタファでできていると言えます。ボタン、ページ、スクロール、フォルダ、デスクトップ、ごみ箱など、これらは現実世界をモデルにした比喩表現です。ボタンは機械のボタンスイッチの表現ですし、ページはノートや本の表現です。
メタファの利用は、日常生活で使ってきた知識をコンピュータ上でも利用できるため、コンピュータが何であるかわからない人にとっても、その機能や役割を類推可能にしています。
UIの歴史的には、メタファの導入の価値は高く、コンピュータを広く一般の人にとってそれが「何であるか」「何ができそうなのか」を示したと言えます。Mac OSやiOS 6までスキュアモーフィズムが積極的に使われてきた理由は、美観だけではなくユーザが機能を類推可能にするためだったのです。
メタメディア
コンピュータにとってメタファが重要な理由はほかにもあります。それは、コンピュータが「メタメディア」だからです。メタメディアとは、パソコンの父とも言われるAlan Kayが述べたものです。メタメディアとは、道具やメディアにでも何にでもなることを意味し、まったく見たこともない表現や役割が可能であることを示しています。
コンピュータはメタメディアで、言わば「何でも装置」であるがゆえに、何であるものなのかを定義していくことが本質にあります。そこにメタファという方法が有効なわけです。つまり、もともと計算機であるコンピュータが、文書作成装置になったり、楽器になったり、お絵描き装置になったりするということ自体もメタファなのです。コンピュータソフトウェア、アプリケーションのレベルでもメタファは使われています。
メタファによるメタメディアの表現の限界
しかし、メタメディアをメタファによって定義することにも限界はあります。文書作成や楽器などは、これまでの私たちの文化にあったこと置き換えです。しかしコンピュータにはもっとより多様な表現が可能です。ここにメタファの限界があり、真に多様なメタメディアとしてのコンピュータの価値を発揮しようとするとメタファでの発想はいつまで経っても既存の文化や概念の置き換えしかできません。
ですから、メタファを脱却した自由な発想がこれからより重要になってきます。この発想からすると、メタファが根幹にあるスキュアモーフィズムも不都合が生じてくるわけです。
メタファの限界により、すでに部分的には破綻が起きています。たとえばWindowsにもMacにもディレクトリを「フォルダ」として表現するわけですが、フォルダの中にフォルダが無限に入れ子にできます。これは現実世界ではあり得ないことなので、コンピュータのファイル構造の理解に誤解を与えてしまいます。もしユーザがコンピュータの原理を理解しているのであれば、メタファやスキュアモーフィズムによって表現することは不要になるだろうと言われることもあります。
また、スキュアモーフィズムは「世の中に存在していないものの表現」を行おうとしたときに壁にぶつかります。たとえばiPhoneやAndroidなど、膨大なユーザが生活のあらゆる場面でネットワークに自由にアクセスする新しいプラットフォームでは、それ特有のアイデアやサービスが生まれる可能性が高まります。そこでは既存概念では説明しにくい価値が多くなり、それを参照すべきメタファがなく、スキュアモーフィズムのデザインは不都合です。
すなわち、以下の2点が、デジタル世界ネイティブのデザイン、フラットデザインへの転換をもたらす結果となったと考えることができます。
- メタファの限界により誤解を与える可能性がある
- 現実世界にはない新しいサービスはそもそもメタファでは表現しきれない
フラットデザインの世界
上で説明してきた流れから言えば、メタメディアという表現の自由度と柔軟性を行使し活かしていく流れがフラットデザインの世界です。物理的制約を表現する必要もなく、文化も表象する必要もなく、コンピュータの性能やデバイスの性質を活かして自由にデザインする世界です。
たとえば、非常に軽快な操作で有名になったTodoアプリに「Clear」がありますが、これはTodoのアプリだと言われなければまったくわからないほどこれまでの何にもたとえられず、「何であるか」の手がかりがありません。ただし、そのぶん動きが自由ですし、これまでにたとえられない気持ち良い軽快な動きをします。これはプロモーション映像[1]からもわかると思います。
メタファ抜きに直感を作れるのか?
さて、フラットデザインがいくら制約なしの自由な表現の世界だからといって、本当に自由な世界かと言えばそうでもありません。
まず制約となるのは、コンピュータの性能とデバイスレイヤのインタフェースです。たとえば、マルチタッチとそうでない環境では設計の考え方は当然変わってきます。
もう1つは人間の知覚や認知、身体性が設計の制約となります。たとえば、UIの動き方、画面の隠れ方などは人間の知覚にとってプリミティブな要素です。たとえばiOS 7のパララックス効果[2]を使った奥行き表現は、人間の知覚の特性からの設計と言えるでしょう。
こういったデバイス特性と人間特性の相互理解、インタラクション手法の発見がUIを進化させ、次世代のスマートフォンUIのネイティブを作っていくことになります。これが蓄積されると、その世界観(ルール)が生まれ、次第にそのデザインから人は直感を利用できるようなると考えられます。
こういった要素レベルでのUIテクニックも、今後蓄積され重要になるのは間違いありませんが、さらに重要になるのは、そのアプリケーションの定義力とプロモーション力ではないかと思います。
アプリケーションの設計は、それが何をするものであるかという価値は常に重要ですが、フラットデザインではそれが何であるかを示すことは、メタファが少ない分スキュアモーフィズムに比べて難しくなります。したがって、フラットデザインのようなメタファをあまり許容しない世界では、定義力がより重要になります。定義力とは、何が問題であり、何を解決するのか、問題と解決の明瞭さです。
さらに、どうUIが振る舞うのか、どう問題を解決するのか、楽しむかのデモンストレーションとプロモーションが重要になります。
UI設計の未来
今回はメタファ、メタメディアという視点からスキュアモーフィズム、フラットデザインについて触れました。UI設計は、どのようなメタファを採用するかや、アプリケーションが扱う問題と解決の範囲をどのくらいに設定するかに依存します。これまでのUIはメタファは中核となる方法論でした。フラットデザインという世界は、ある意味でUIにおける挑戦です。つまりUIの表現や体験の幅が広がることにつながると同時に、メタファなしにどこまでUI設計者がユーザに価値を伝えられるのかが鍵になってきます。