WSEA(Web Site Expert Academia)

第9回Webの外側に生まれる余白を“検索”(その2)

情報社会のこれから

水島:

だから、僕は情報社会のことを考えていくと、そこから取り残される人や、今日の情報システムだけでは掬い取れない領域のことがどうしても気になるんですよね。

前田:

そこが水島先生の研究のメインテーマに関わる部分なんですね ?

水島:

そうです。社会全体を1つの大きなシステムだと仮定して、そのシステムに今のデジタル技術のシステムが重なったときに、どうなるのかということ。デジタル技術は、今日の社会システムの原理を加速させるだけじゃなく、それとは逆に、違うものが生まれることを促してしまう側面も持っているので、そのあたりがどういうふうに働くのかなあ、と。

前田:

僕自身も、インターネットが熱くなったときには、技術万能主義的・知のエリート主義的なことに対してすごく影響を受けました。⁠Googleってかっこいい」みたいな印象も受けましたし。

けれども、やっぱり、水島さんの先ほどの視点と同じで、さっきの梅田さんの話がもう象徴的なんですけど、よくよく考えると、全然そうじゃない、という結果も生まれていて。ある人のところに集中して情報も知識もお金も集まって、そしてそれをこなせる人というのは本当に限られているんですよね。

うちの『関心空間』の取締役の宮田の話なんですが、彼はもともと『関心空間』に入る前はネットの分野でも音楽関係の仕事に縁が深かったんです。そのころに、ある人が「人間というのは一生に1曲だけ名曲を作れる。それはある程度どんな人でも作れる。でも、名曲を連続して作ることはほとんどの人ができない。そこにプロとアマの差がある」という話をされたそうで。そのとき、宮田は、世の中に知られざるままの名曲が人の数分だけあるなら、それを集約するシステムがあればいいんじゃないか、と考えたそうなんですよね。

それで、⁠100%クリエイティブな人間というのはなかなかいない、芸術家くらいしかない。でも、人間は時々⁠おおっ⁠と言うようなクリエイティビティを発揮する瞬間があって、それを自分は集めたい。⁠関心空間』ではそういう思想が感じられる」と。僕自身もそう考えてまして。ヒーローを作ろうとするんじゃなくて、100個のうち1個だけ輝いているものがあれば、そこを通じて「キミもけっこうできるじゃん」という感じで、つながり合いたいと思っているんです。

それがそのさっきの話につながると思うのですが。貧しい人を救うとか、そういうことじゃないんですよね。

水島:

ええ、そうじゃないですね。そもそもこのトレンドに乗らない=貧しい人と設定して分けてしまうこと自体が、おかしいですよ。

前田:

たとえばblogも、1つは、エントリとトラックバックという半構造物として、ある人たちにとってはすごくツールとして簡便になって、それがRSSみたいな形で網羅的に集約できるしくみで。

それは『関心空間』も同様なんですけれども、そういったものがどんどん洗練されると、たとえば俳句のようなああいう知識のフォーマットみたいなものがネットに生まれるんじゃないかと、おぼろげなんですけれどもすごく感じることがあります。それは、プアな人とリッチな人を名前を外して並べるようなもので。

水島先生は句会に行ったことありますか? あれは名前を書かないで句を投じて、筆跡も1人に統一させて、みんなで「これが良い」⁠あれが良い」と評価し合う。ああいうのは、すごく、匿名社会というか、クリエイティビティにおいて上下関係がなく、クリエイトだけをお互いに楽しみに合う、磨き合う、みたいな感じですよね。

編集:

先入観とかは入ってこないですよね。

前田:

そう。すごく良い句を書いていて「オレの心情にすごい共感した!」と思っていたら、それ、嫌いな人が書いた句だったりとかね(笑⁠⁠。

余白、近接領域、投企

東海大学文学部広報メディア学科
助教授 水島久光氏。
「Googleは僕らが生きている世界の
一部しか照らしていないのに」
東海大学文学部広報メディア学科助教授 水島久光氏。「Googleは僕らが生きている世界の一部しか照らしていないのに」

水島:

その、好きとか嫌いとかが、全体のコンテクストを支配しすぎるのもけっこう危険なんですよ。僕もけっこういろんなところで、人をあけすけに批判するけど、別にその人を嫌いなわけではない。好きとか嫌いとか、あるいは、できる奴できない奴とか、それこそ勝ち組負け組とか、そういうふうにバイナリに処理することで満足してしまうことは、すごく危険だと思いますね。そんなふうに単純に処理しきれないもののほうが、実は多い。リックライダー[1]が昔、⁠人とコンピュータとの共生」と言いましたけど、'50~'60年代のコンピュータ思想家のほうが、この割り切れなさに気付いていたんじゃないかな、と思ったりするんです。

前田:

すごく古いですけど、そのアンドロイド思想でいうと、フィリップ・K・ディック原作[2]の映画『ブレードランナー』で、アンドロイドが人間と物質的には寸分たがわないんだけれども、感情だけがインプリメントできなくて、それで殺し合いをしちゃうという話がありましたよね。何か、それが、コンピュータの外側に生まれる余白として、人間に必要なものとして、あの映画を見たときから、ずーっと感じているんです。

水島:

だから、僕は『関心空間』に最初から興味を持っていて。僕も作りたかったんですよ、ああいうのは(笑⁠⁠。今の前田さんの話で言うと、⁠関心空間』は余白生成装置だったんですよね。

前田:

そうですね。教育工学の世界で、近接領域発見というのがあって。それは、学習している人は、自分の能力のちょっと先というのは、どうしてもわからないので、外側にいる先生が、この人はこっちのほうには伸びやすい能力を持っていると思ったら、そっちのほうにゲージを与えることによって伸ばす、ということで。

これが、インターネットをやっていると、けっこう狭いところをぐるぐる回っているんですよ。僕が言うのもなんですけど、調べ物をするときにGoogleとYahoo!で引っかからなかったら ⁠ない」って思っちゃうんですよ。

水島:

ははは(笑⁠⁠。

前田:

でも、図書館に行ったら膨大な情報があるんです。そりゃそうですよね、⁠PCにも載っていない)何十年か前の情報にしかインデックスがないのに、40年以上前の情報は(PC上には)ないでしょう。そういうものは(図書館に行けば)いっぱいあるのに、⁠ない⁠⁠ と思ってしまう。

それで、近接領域を自分でどんどん伸ばせる人、これは、よくセルフ・エフィカシー(self-efficacy:自己効力感)と言って、⁠まだある」⁠どこかにある」と、自分の能力を引き伸ばす…。

水島:

そうそう、そうなんですよね。それが実は哲学でいえば、ハイデカーがいうエントブルフ(Entwurf⁠⁠、英語でいうと、プロジェクションなんですよね。

前田:

投企ってやつですね。

水島:

そう、投げ出す、ということ。プロジェクトと言うと、企画のこと、プロジェクターっていうと投影機のことだとみんな思うんですけど、この言葉の本質は、自分を投げ出すという行為にあるんですよね、世界に。それをアシストするものが、実は社会にはいろんな形で存在していてね。それを辿りながら、人間というのはうまくここまで生き延びて来たはずなんですよ。

それは今おっしゃったような、サーチエンジン万能主義のような、自分の手の届くところにすべての解を求めようとすることの、本当は対極にあって、誰も何も意味付けをしていないもののほうに一歩踏み出していく、ということがどういうふうにできるかが大事なんですね。だからそれをアシストするしくみとして技術を考える必要がある。しくみって言っちゃうと、自動的に解を出すオートマトンをイメージするけれど、そうじゃなくて、情報処理プロセスに関与し合うようなもの、かな。

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