『電網恢々疎にして漏らさず網界辞典』準備室!

第27話 『ライフ・オブ・ブライアン』妖精事務員たみこが脳内風景をスキップする時,F通は1円入札しサバンナの鹿を見た和田は手紙を書くことにする。

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  • 「百歩譲って,もしもそうだとしても」

和田が篠田の顔を見た。篠田も和田をにらみ返す。

  • 「なんで倉橋さんが,そのたみことかいう妖精事務員に変身するんです?」
  • 「それは私にもわかりません。むしろ,この装置の開発者である内山くんならわかるのではないでしょうか?」

篠田が言うと,全員が内山を見た。マッドサイエンティストよろしく白衣姿で立ち働いていた内山は,居心地悪そうに顔を赤らめる。

  • 「おそらく,彼女にとって現象学的還元に耐えやすい姿なのでしょう。現象学的還元は,いわば大気圏突入のようなものです。他人のATフィールドを無効化した上で,さらに世界認識の前提となっている相互主観性を破壊します。なみたいていの衝撃ではありません」

内山は,みんなの視線を受け,しれっと答えた。説明を聞いた全員の頭に,クエスチョンマークが浮かぶ。

  • 「ちょ,ちょっと待ってください。この実験は安全だったはずでしょう。今の言い方だと精神に危険な負荷がかかるように聞こえます」

水野が青ざめた顔で抗議した。

  • 「安全ですよ。肉体的な損傷を受ける可能性は皆無です。実験中に暴れ出して怪我をする可能性はありましたが,拘束衣によって完全に封じ込めましたので,その危険もありません。精神的なダメージを受けることはありえますが,倉橋歪莉さんにとっては,それはたいした問題ではありません」
  • 「たいした問題ではないって,どういう意味です?」
  • 「僕の基準では彼女は,常人の境界域を越えています。わかりやすく言うと,どのような精神的ショックを受けても今以上悪くなることはない」
  • 「なにを言ってるんです! 彼女は,ここで働いている常識ある社会人ですよ。ちょっと変わってるだけだ。それを狂人扱いするなんて,ひどすぎる」

画像

水野は,そう言うと同意を求めるように和田を見た。

  • 「あたしは,当室の室員は全員社会不適合者だという仮説を持っています。ここはいわば,⁠社会不適合者の穴』です」

平然と答える和田に,水野は驚きのあまり口を大きく開き,ぱくぱくと開けたり閉じたりした。それを見た和田は,半魚人みたいだと思う。

  • 「彼女は過剰適応がひどすぎます」

内山は,被験者の脳内のお花畑をスキップする妖精事務員たみこを目を細めてながめる。

  • 「ツイッターを使えば『つい廃』となり,総務に移籍すれば人間関係過敏症になる。外部の刺激に対して過剰に適応してしまう。長すぎる針を持った山嵐のジレンマ型人間なのです。過剰適応はビッチか喪女を産みます」

内山の説明の解説に,水野をのぞく全員がうなずいた。

  • 「やめてください。なんで,みんなでよってたかって彼女を異常者扱いしていじめるんです」

水野は,両手で頭を抱えてかがみ込んだ。碇シンジの形態模写か! と和田は突っ込みたくなった。

  • 「適材適所です。ご覧なさい。倉橋さんは,他人の頭の中で現象学少女として楽しそうにしています」

内山がそう言うと,ベッドに横たわる歪莉の上に,妖精事務員たみことなった歪莉のホログラフが現れた。アルプスの草原を駆け抜けるハイジのように,元気いっぱいで楽しそうだ。砂漠のような被験者の脳内風景の中でスキップを続けている。

  • 「な,なんであんなに楽しそうなんだ」

顔を上げて歪莉を見た水野は,呆然とした。

  • 「彼女は受け入れられることが好きなんです。現象学少女として,まるごと相手に没入することは,彼女ののぞむことでもあったのです」
  • 「そんなバカな。あんなに嫌がっていたのに……」

水野は再び頭を抱えたが,全員の視線はホログラムに向けられたままだった。

  • 「童貞をこじらせた受験生みたい。⁠タッチ』のみなみちゃんはビッチだって言われると,本気で怒ってケンカするタイプね」

堕姫縷が水野を横目で見て苦笑する。

  • 「みなみちゃんは,ビッチじゃない」

水野がお約束のセリフを返したので,堕姫縷は吹き出した。

その時,歪莉のスキップが止まった。明るかったホログラフ画像が暗くなる。

  • 「みなさん,お静かに……なにか様子がおかしい」

内山が緊張した声で宣言した。

  • 「どういうことですか?」

和田は一歩前に出て,ホログラフの歪莉をじっと見つめる。

  • 「被験者の脳内に,ビジネスモンスターが形成されています。侵入してきた現象学少女という異物に対する抗体のようなものです」

内山が歪莉の横のベッドに横たわる男性被験者を指さした。中性洗剤で洗われたカニのように,ぶくぶくと泡を吹き出し首を左右に振っている。

  • 「ビジネスモンスター?」
  • 「あるいは,人工生命体エスノ」

全員はぽかんとした表情を浮かべる。内山は時々わけのわからないことを言うが,今日は格別にひどい。目の前で起きている事態は,それを上回るシュールさだが。

  • 「彼がなにを言っているのかわかりますか?」

堕姫縷が和田にささやく。

  • 「なんで私に訊くんです? 内山さんに直接訊けばいいでしょう」
  • 「彼は私と違う言語を話しているような気がするんです,時々ですけど。今,私が彼と話しても意思疎通できない自信があります」
  • 「言語は同じだと思いますが,文化圏は確実に違うでしょうね。私たちの世界は多様な文化圏を内包しています。自社が大規模漏洩事件を引き起こして被害実態がわからない時にとりあえず被害者にはビタ一文金は払わないと宣言してすぐに撤回した教育大手B社のような会社や,競争入札を1円で落札して後から1円じゃできませんって平気で言い出すF通のような会社や,うちは官僚より官僚的って社員が誇らしく自嘲するN電気のような会社や,WAFを早い段階で導入したのがよっぽどうれしかったのかアプリケーションバナーでWAFの製品名を出しまくってた……」
  • 「わかりました。わかりました。それ以上言わないでいいです。危険すぎます」

堕姫縷は,あわてて和田の口を手で押さえた。

  • 「ここはアフリカのサバンナです。猛獣やハゲタカの多様な生命と文化が混在しているんです」

和田は,堕姫縷の手を引きはがした。それからホログラフに登場した人工生命体エスノに果敢に立ち向かおうとしている現象学少女あるいは妖精事務員たみことなった,歪莉を見る。

  • 「あらかじめ失われた『サバンナの鹿』みたいね」

和田は,手紙を書こうと思った。それから手紙の届く頃に電話をしたい。でも,いったい誰に?

今回登場したキーワード 気になったらネットで調べて報告しよう!

  • ATフィールド
  • つい廃
  • 『社会不適合者の穴』
  • 山嵐のジレンマ
  • ハイジ
  • 『タッチ』のみなみちゃんはビッチ
  • 人工生命体エスノ
  • サバンナの鹿
  • 手紙

和田安里香(わだありか)
網界辞典準備室長代行 ネット系不思議ちゃん
年齢26歳,身長162センチ,体重46キロ。グラマー眼鏡美人。
社長室。頭はきれるし,カンもいいが,どこかが天然。宮内から好き勝手にやっていいと言われたので,自分の趣味のプロジェクトを開始した。

倉橋歪莉(くらはしわいり)
法則担当
広報室。表向き人当たりがよく愛されるキャラクターだが,人から嫌われることを極端に恐れており,誰かが自分の悪口を言っていないか常に気にしている。だが,フラストレーションがたまりすぎると,爆発暴走し呪いの言葉をかくつらねた文書を社内掲示板やブログにアップする。最近では『裸の王様成田くん繁盛記』というでっちあげの告発文書を顔見知りの雑誌記者に送りつける問題を起こした。
口癖は「私もそう思ってたところなんです」⁠

水野ヒロ(みずのひろ)
網界辞典準備室 寓話担当
年齢28歳,身長178センチ,体重65キロ。イケメン。
受託開発部のシステムエンジニアだった。子供の頃からあたりさわりのない,優等生人生を送ってきた。だが,最近自分の人生に疑問を持つようになり,奇妙な言動が目立つようになってきた。優等生的な回答を話した後に「そんなことは誰でも思いつきますけどね」などと口走るようになり,打ち合わせに出席できなくなった。

内山計算(うちやまけいさん)
網界辞典準備室 処理系担当
年齢32歳,身長167センチ,体重73キロ。大福のように白いもち肌が特徴。
ブログ事業部の異端児で,なにかというと新しい言語を開発しようとするので扱いに困っていたのを宮内が連れてきた。
コンピュータ言語オタク。趣味は新しい言語のインタプリタ開発。

篠田宰(しのだつかさ)
実例担当
年齢44歳,身長165センチ,体重48キロ。薄い毛髪が悲哀を感じさせる。
社長室。影が非常に薄く,やる気もない。幽霊のよう人物。ただし脅威の記憶力を持っている。温泉とコーヒーに異常な執着がある。

古里舞夢(ふるさとまいむ)
年齢36歳。身長165センチ,体重80キロ。
受託開発部のエンジニア。極端な無口で人見知り。
和田のファン。何かというと和田に近づき,パントマイムを始める。どうやら彼なりの好意の表現らしいが,和田を含め周囲の全員がどんな反応をすべきかわからなくなる。

綴喜堕姫縷(つづきだきる)
容姿は女性,性別は男性。身長172センチ,体重52キロ。
年齢不詳。カナダ,UBC大学卒業。文化人類学専攻。英語とロシア語が堪能。宮内専務の秘書。その前は,バンクーバー支店長の秘書をしていた。
妖艶な美女。独特の雰囲気で見る者を魅了する。サブカル,特に昔のマンガにくわしい。バンクーバー支店で採用したため,本社には詳細な人事情報がない。

著者プロフィール

一田和樹(いちだかずき)

11月6日東京生まれ。バンクーバー在住。

シンクタンクにてIT関連市場調査,製品開発を担当,独立後,インターネットプロバイダなどIT企業の役員,社長を歴任。人材育成にも長け,社長を務めた会社の社員の半数が起業した。

2010年島田荘司選 第3回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞受賞。サイバーセキュリティミステリを中心に執筆,その他,ファンタジーやマンガ原作などもこなす。筆が速いことと,多彩な芸域が特徴。

@K_Ichida

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