『電網恢々疎にして漏らさず網界辞典』準備室!

第33話 『恋の罪』コペンハーゲン解釈に基づく多重世界は現象学的還元によって接近し,「生まれて初めてのお泊まりで発狂したら悲しすぎます」と『狂気の歴史』はドグラマグラ・シンドロームを呼び覚ます。

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水野の部屋で呆然としたり,空中浮遊を試みたりしていた歪莉は,零時近くなると帰って行った。泊まっていってもいいんだよ,なにもしないからと言う水野に対して,⁠生まれて初めてのお泊まりで発狂したら悲しすぎます」と答えて帰って行った。

発狂するかもじゃなく,もうしているかもしれないから危ないんだと水野は言えなかった。いつまで経っても優柔不断な自分に水野は失望した。

歪莉を見送った後で,なけなしの勇気を振り絞って和田にメールを送った。歪莉は,もう限界だ,これ以上見ていられない。そう書いたのだが,和田の返事はそっけなかった。

  • 「現象学少女に変身した倉橋さんは,いままで見たことがなかったくらいに生き生きしています。仮に彼女が危険な精神状態にあるとしても,この実験は彼女をよい方向に導くと思います」

お前は戸塚ヨットスクールか! と水野は叫びそうになってこらえた。ブラックIT企業の雄と呼ばれる会社に勤めている自分が言えることではない。この時代にあっては,誰も正気を保つことなどできないのだ。せめて歪莉を近くで見守るしかない。

和田と堕姫縷,内山は,渋谷のチアーズというバーで篠田についての調査報告書を肴に呑んでいた。和田と堕姫縷がともに強い関心を持ったのは,篠田の恋愛事情だった。

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  • 「縁は異なもの味なもの,と申しますが,まさか篠田さんにそんな激情な過去があるとは思いませんでした」

堕姫縷がため息をついて,報告書をバーカウンターに置いた。シックなバーに,日本人離れした堕姫縷の容姿はよく似合う。

  • 「あの革命万能主義の篠田さんにも恋に溺れた時代があったんですね」

和田はうなずいて,マティーニを呑み干した。

  • 「いえ,あれは現在進行形です。より正確に言えば,⁠恋している篠田宰⁠と⁠恋していない篠田宰⁠のふたりが同時に存在しているのです。現象学少女に触れた瞬間に,そうなります。シュレーディンガーの恋愛日記です」

内山の答えに和田と堕姫縷は,顔を見合わせた。いつもながら内山の言うことは理解不能だ。

  • 「はい?」

和田があらためて内山の顔をしげしげと見る。ふだんは,大福のように白くぽっちゃりした顔が,酒のせいでいちご大福のように赤らんでいる。内山が飲酒しているのを見るのは初めてだ。

  • 「説明していませんでしたが,現象学的還元には多重世界の精神距離を縮める効果があります」
  • 「なにを言ってるのか,全く理解できません」

和田と堕姫縷が声をそろえる。

  • 「コペンハーゲン解釈に基づく多重世界解釈は,実用性がないため看過されています。しかし,世界を現象学的に還元した場合,観察者自身の精神世界と世界解釈が融合し,パラレルに存在している多重世界の精神距離を極端に接近させることがあります」
  • 「……多重世界が相互に干渉することはありえないはずです。そんなことが可能になったら,あらゆるものが崩壊してしまう」

堕姫縷が異を唱えた。

  • 「これはあくまでも現象学少女と篠田さんが観る夢なのです。物理世界に干渉することはなく,当然なにも崩壊しません」
  • 「精神世界に影響があるんじゃないですか?」
  • 「それは大丈夫です。このお二方の精神はあらかじめ崩壊していますので,崩壊を心配する必要はありません。くわしく申し上げると,回復しては崩壊するという過程を何度も繰り返しています。その崩壊はカタストロフィ理論によって予測可能であり,リスクは限定的です」
  • 「どんなリスクが発生するのですか?」
  • 「ドグラマグラ・シンドロームです」
  • 「なんで理解不能な現象の説明に,理解不能な言葉を使うんです。ようするにどういうことか端的に説明してください」

堕姫縷は,いささかいらついてきた。

  • 「正常と異常の境目は,文化的なもので明確な境界は存在しないということです」
  • 「内山さん,答えになっていません。もしかして酔っています?」

和田も禅問答のような応答にうんざりしてきた。

  • 「……アルコールは思考を鈍らせます。さきほどの答えが,室長代理の期待に添わなかったとしたら,それはあなたか私のどちらかの認知がアルコールによって悪い影響を受けているのでしょう」
  • 「私,少しわかります」

堕姫縷がシュリヒテシュタインヘーガーのお代わりを頼みながら口を挟んだ。

  • 「フーコーですよね」

極限まで冷えた液体がグラスに白い膜を作る。堕姫縷の言葉に,内山はうなずいた。

  • 「現代社会においては,貨幣価値に換算可能な生産活動を営めるか否かが正常の境界線です」

堕姫縷はシュリヒテシュタインヘーガーを一口すするとつぶやいた。

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和田安里香(わだありか)
網界辞典準備室長代行 ネット系不思議ちゃん
年齢26歳,身長162センチ,体重46キロ。グラマー眼鏡美人。
社長室。頭はきれるし,カンもいいが,どこかが天然。宮内から好き勝手にやっていいと言われたので,自分の趣味のプロジェクトを開始した。

倉橋歪莉(くらはしわいり)
法則担当
広報室。表向き人当たりがよく愛されるキャラクターだが,人から嫌われることを極端に恐れており,誰かが自分の悪口を言っていないか常に気にしている。だが,フラストレーションがたまりすぎると,爆発暴走し呪いの言葉をかくつらねた文書を社内掲示板やブログにアップする。最近では『裸の王様成田くん繁盛記』というでっちあげの告発文書を顔見知りの雑誌記者に送りつける問題を起こした。
口癖は「私もそう思ってたところなんです」⁠

水野ヒロ(みずのひろ)
網界辞典準備室 寓話担当
年齢28歳,身長178センチ,体重65キロ。イケメン。
受託開発部のシステムエンジニアだった。子供の頃からあたりさわりのない,優等生人生を送ってきた。だが,最近自分の人生に疑問を持つようになり,奇妙な言動が目立つようになってきた。優等生的な回答を話した後に「そんなことは誰でも思いつきますけどね」などと口走るようになり,打ち合わせに出席できなくなった。

内山計算(うちやまけいさん)
網界辞典準備室 処理系担当
年齢32歳,身長167センチ,体重73キロ。大福のように白いもち肌が特徴。
ブログ事業部の異端児で,なにかというと新しい言語を開発しようとするので扱いに困っていたのを宮内が連れてきた。
コンピュータ言語オタク。趣味は新しい言語のインタプリタ開発。

篠田宰(しのだつかさ)
実例担当
年齢44歳,身長165センチ,体重48キロ。薄い毛髪が悲哀を感じさせる。
社長室。影が非常に薄く,やる気もない。幽霊のよう人物。ただし脅威の記憶力を持っている。温泉とコーヒーに異常な執着がある。

古里舞夢(ふるさとまいむ)
年齢36歳。身長165センチ,体重80キロ。
受託開発部のエンジニア。極端な無口で人見知り。
和田のファン。何かというと和田に近づき,パントマイムを始める。どうやら彼なりの好意の表現らしいが,和田を含め周囲の全員がどんな反応をすべきかわからなくなる。

綴喜堕姫縷(つづきだきる)
容姿は女性,性別は男性。身長172センチ,体重52キロ。
年齢不詳。カナダ,UBC大学卒業。文化人類学専攻。英語とロシア語が堪能。宮内専務の秘書。その前は,バンクーバー支店長の秘書をしていた。
妖艶な美女。独特の雰囲気で見る者を魅了する。サブカル,特に昔のマンガにくわしい。バンクーバー支店で採用したため,本社には詳細な人事情報がない。

著者プロフィール

一田和樹(いちだかずき)

11月6日東京生まれ。バンクーバー在住。

シンクタンクにてIT関連市場調査,製品開発を担当,独立後,インターネットプロバイダなどIT企業の役員,社長を歴任。人材育成にも長け,社長を務めた会社の社員の半数が起業した。

2010年島田荘司選 第3回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞受賞。サイバーセキュリティミステリを中心に執筆,その他,ファンタジーやマンガ原作などもこなす。筆が速いことと,多彩な芸域が特徴。

@K_Ichida

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