『電網恢々疎にして漏らさず網界辞典』準備室!

第38話 『ベティ・ブルー』オペレータ依存型のシステムの脆弱性を突いて,スーパードルフィーが舞い降り,常闇のアザトースの世界が顕現する。

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はたして篠田は,オペレータ依存型のシステムの脆弱性を突いた攻撃を行うのだろうか?和田たちが見守る中,シンキングマシーンズの黒い筐体の瞬きが広がる。輝く光は天空の星にも似て,見る者を魅了する。ひとつひとつがCPUすなわち頭脳の動きに連動している。中高年が幼い頃に見たSFアニメの電子計算機そのものの姿を具現した知的モンスターがこのマシンだ。

究極の戦場へ赴く歪莉と篠田は寝台の上で目を閉じている。その周囲にいるのは,オキュラスを装着した準備室室員たちだ。全員そろって頭におかしな器具をつけている様子は,かつて日本を席巻した怪しい宗教あるいはできそこないの半魚人を彷彿させる。

唯一,内山だけがオキュラスを装着していない。水野は,それでいいんですか? と内山をなじったが,純粋な観察者がいなければ貴重なデータがとれないという反論であえなく引っ込んだ。

  • 「映像来ます」

内山が落ち着いた声で宣言すると,和田,水野,堕姫縷はたちまち篠田と歪莉の精神世界に飲み込まれていた。茫洋として果てしなく,濛昏として狭隘な闇が現れた。

先だってのような派手な空間を予想していた3人は突然なにもない空間に放り出されてしばらく自失した。からっぽの,何もない空間だ。ただ儚々とした空間ばかりが,そこに広がっている。

  • 「なんでなにもないんですか? 故障ですか?」

水野が不安そうに叫ぶ。

  • 「いえ,システムはすべて正常に動いています。この空間は篠田さんが意図的に作り上げたものだと推測します。彼は,自身の力で現象学的還元を施した後の空間をもデザインできるのでしょう」
  • 「なにを言ってるんだか,さっぱり」

堕姫縷がため息をついた。重力すら存在しない空間に漂う3人の頭上から,まばゆい光が下りてきた。

  • 「現象学少女あるいは妖精事務員たみこです」

大根を抱いたシュールな姿で,光に包まれた歪莉が漆黒の中空から舞い降りてきた。降り立つ場所はないから近づいてきたというべきなのかもしれない。

和田,水野,堕姫縷は自分たちが上昇しているのか,下降しているのか,どちらかの方向に移動しているのか,それとも同じ場所にとどまっているのかすらわからない。わかるのは,互いの相対的な位置だけだ。

  • 「なんだかすごく不安です。なにもないということがこれほど恐ろしいものだとは思いませんでした」

水野が震える声でつぶやいた。和田も堕姫縷も同感だ。上下左右のわからない距離感もなにも喪失した空間にいることがこれほど怖いものだとは思わなかった。底の知れない根源的な畏怖を覚える。

  • 「当然です。虚無は不安と恐怖を生み出す源です。アザトースをご存じないのですか?」
  • 「原初の混沌。万物の創造主……」

虚空で堕姫縷がつぶやいたのを水野と和田が見る。おそらくサブカルに属することのなのだろうが,内山と堕姫縷の知識が重なるものにろくなものがあるとは思えない,と和田は嘆息する。

  • 「その通りです。これは篠田さんが仕掛けてきたオペレータ依存型のシステムの脆弱性を突いた攻撃なのでしょう。あるいは,そのための前哨戦」

画像

内山の説明を聞きながら,和田は空に浮かぶ歪莉を見た。まったく恐怖を感じていないようで,大根を撫でながらあどけない少女の笑顔をふりまいている。笑顔だけなら救いがあったが,大根を抱いているおかげで狂気を感じさせる。

  • 「倉橋さん」

水野が歪莉の名を呼びながら近づこうとしたが,空気もなにもない空間のため,ただじたばたともがくだけでまったく移動できない。

  • 「無駄です。この空間に篠田さんが現れない限り,なにもできないでしょう」

内山が冷ややかに諭す。水野は口惜しそうに,唇をかみしめ拳を固める。

そのとき,どこかからチム・チム・チェリーの歌声が響いてきた。赤い閃光が四人の足下の無限の闇底から天上に向けて走る。

  • 「篠田さんが来ました」

内山が叫ぶ。赤い閃光を追うように,闇の底から美しい少女がやってきた。深紅の傘,黒革のコートに赤のセーター,黒のミニスカート。耳の上できれいにそろえられた漆黒の髪の毛はヘルメットのようだ。

  • 「人間じゃない」

堕姫縷は,近づいてくるその姿を食い入るように見つめる。

  • 「スーパードルフィーじゃないですか。いったい,どういうこと?」

スーパードルフィーという言葉の意味を解する者はいなかったので,堕姫縷の言葉は宙に浮いた。

  • 「ああ,もう! スーパードルフィーはボークス・造形村が開発した新しいタイプの球体関節人形です。あの美しさを見てください」

堕姫縷の説明を聞いても,他のメンバーはそうなんだというくらいの反応しか返さない。堕姫縷とは通じるものがあると感じていた和田も,ここまでくるとわからないといった様子でぽかんとした顔で堕姫縷と球体関節人形を見比べている。そこでさきほどの内山の言葉を思い出した。

  • 「まさか……」

和田がうめきを漏らす。

  • 「そうです。あの美少女が篠田さんです。予想外のメタモルフォーゼを遂げましたね。いったいどういうことを……」

内山はそこで言葉を止めた。しばらく黙ったままだ。その間にも傘をさした少女と妖精事務員たみこの距離は近づいてゆく。

  • 「こ,これは『傘をさしたパズル』だ」

傘をさした少女を観察していた内山が絶句した。

  • 「なんですか,それは?」

水野と綴喜がほぼ同時に声を上げた。

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  • 『ベティ・ブルー』
  • ただ儚々とした空間ばかり
  • アザトース
  • チム・チム・チェリー
  • スーパードルフィー
  • 『傘をさしたパズル』

和田安里香(わだありか)
網界辞典準備室長代行 ネット系不思議ちゃん
年齢26歳,身長162センチ,体重46キロ。グラマー眼鏡美人。
社長室。頭はきれるし,カンもいいが,どこかが天然。宮内から好き勝手にやっていいと言われたので,自分の趣味のプロジェクトを開始した。

倉橋歪莉(くらはしわいり)
法則担当
広報室。表向き人当たりがよく愛されるキャラクターだが,人から嫌われることを極端に恐れており,誰かが自分の悪口を言っていないか常に気にしている。だが,フラストレーションがたまりすぎると,爆発暴走し呪いの言葉をかくつらねた文書を社内掲示板やブログにアップする。最近では『裸の王様成田くん繁盛記』というでっちあげの告発文書を顔見知りの雑誌記者に送りつける問題を起こした。
口癖は「私もそう思ってたところなんです」⁠

水野ヒロ(みずのひろ)
網界辞典準備室 寓話担当
年齢28歳,身長178センチ,体重65キロ。イケメン。
受託開発部のシステムエンジニアだった。子供の頃からあたりさわりのない,優等生人生を送ってきた。だが,最近自分の人生に疑問を持つようになり,奇妙な言動が目立つようになってきた。優等生的な回答を話した後に「そんなことは誰でも思いつきますけどね」などと口走るようになり,打ち合わせに出席できなくなった。

内山計算(うちやまけいさん)
網界辞典準備室 処理系担当
年齢32歳,身長167センチ,体重73キロ。大福のように白いもち肌が特徴。
ブログ事業部の異端児で,なにかというと新しい言語を開発しようとするので扱いに困っていたのを宮内が連れてきた。
コンピュータ言語オタク。趣味は新しい言語のインタプリタ開発。

篠田宰(しのだつかさ)
実例担当
年齢44歳,身長165センチ,体重48キロ。薄い毛髪が悲哀を感じさせる。
社長室。影が非常に薄く,やる気もない。幽霊のよう人物。ただし脅威の記憶力を持っている。温泉とコーヒーに異常な執着がある。

古里舞夢(ふるさとまいむ)
年齢36歳。身長165センチ,体重80キロ。
受託開発部のエンジニア。極端な無口で人見知り。
和田のファン。何かというと和田に近づき,パントマイムを始める。どうやら彼なりの好意の表現らしいが,和田を含め周囲の全員がどんな反応をすべきかわからなくなる。

綴喜堕姫縷(つづきだきる)
容姿は女性,性別は男性。身長172センチ,体重52キロ。
年齢不詳。カナダ,UBC大学卒業。文化人類学専攻。英語とロシア語が堪能。宮内専務の秘書。その前は,バンクーバー支店長の秘書をしていた。
妖艶な美女。独特の雰囲気で見る者を魅了する。サブカル,特に昔のマンガにくわしい。バンクーバー支店で採用したため,本社には詳細な人事情報がない。

著者プロフィール

一田和樹(いちだかずき)

11月6日東京生まれ。バンクーバー在住。

シンクタンクにてIT関連市場調査,製品開発を担当,独立後,インターネットプロバイダなどIT企業の役員,社長を歴任。人材育成にも長け,社長を務めた会社の社員の半数が起業した。

2010年島田荘司選 第3回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞受賞。サイバーセキュリティミステリを中心に執筆,その他,ファンタジーやマンガ原作などもこなす。筆が速いことと,多彩な芸域が特徴。

@K_Ichida

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