『電網恢々疎にして漏らさず網界辞典』準備室!

第42話 『羊たちの沈黙』どのようなシステムも究極的には正しく動作することを誰も保証できないという真理に目を背けるシステム屋は,致死量ドーリス。

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株主総会の2日前の深夜,倉橋歪莉は夜の街をさまよっていた。こともあろうに網界辞典のプレゼンターをまかされてしまったのだ。⁠過去の実績を考えると,倉橋さんが適任だと思います」和田が言いだし,水野をのぞく全員が賛成した。歪莉と水野が,室長である和田が適任ではないのですか? と問いかけると,⁠私は最初にプロジェクト全体の説明を行います。その後で,倉橋さんに網界辞典そのものの説明をしていただきます」としゃあしゃあと答えた。どうせ説明するなら,全部やってくれればいいのに,と歪莉は思ったが,一介の室員には抗うすべはない。自分はしょせん冷静と情熱の間をメンヘラしている現代日本の下層カーストにしか過ぎない。

株主総会といえば,その結果如何で株価にも甚大な影響が及ぶことになる。責任は重大だ。ろくな実績のないIT企業にとって,株価は売上や利益以上に重要な指標となっている。⁠設立以来,順調に成長しているのは資本金」というのは笑い話ではない。その資本金は,濡れ手に粟の金儲けに目がくらんだ個人投資家と人の命で商売する保険屋,そして税金と年金をどぶに捨てるのが仕事の政府がこぞって出資したものだ。いわば悪魔のおこぼれ。金融資本主義の亡者に義理立てする必要はないが,株価が下がった責任を問われたくない。

歪莉はプレッシャーのあまり怪文書でも流したくなった。先に怪情報で株価が下がっていれば責任を問われないと思ったのだ。しかしすぐに思い直した。他人が自分に仕掛けた悪さの尻尾はつかめないが,自分が他人に仕掛けた悪さはすぐに露呈するという法則がある。怪文書を作ったのが自分だとわかれば間違いなく致死量ドーリス。

突然のプレゼンター指名以来,会社の廊下を歩いていると周りの社員が自分の噂をしているように思えてならない。自分のことを陰で嗤っている。そんなはずはないと頭ではわかっていても,廊下で誰かの姿を見るたびにその思いに囚われてしまう。時には,声が聞こえることがある。しかも耳からではなく,頭のどこかから響いてくるのだ。

メールもなにも全部見られているに違いない。会社が社員のデータを勝手にのぞき見ているのだ。それだけではなく,グーグルやヤフーの社員に私用アドレスのメールも見られているかもしれない。NSAの職員の中には,自分の恋人や配偶者のメールやネSNSのやりとりを勝手にのぞいていた連中もいたというから,あながち妄想とは言い切れない。

自分を盗聴してなんになるんだと思う一方,なんの影響力もない,どうでもいい人物だから盗聴して嗤い者にしても差し支えないだろうとという判断もありそうだ。

幻聴や妄想が統合失調症の典型的な症状だというのは,ネットで調べて承知していたが,自分が統合失調症であるはずはないから,聞こえているのも憶測していることもすべてリアルなのだ。

歪莉は会社の社員の顔を思い浮かべた。頭も性格も悪いのがそろっている。そもそもIT技術者は愚かだ。チューリングの停止性問題やチャイティンのオメガを知らないから,納期という概念が成立すると信じている。どのようなシステムも究極的には,正しく動作することを誰も保証できない。その証拠にあらゆるシステムには不都合が存在し,修正を繰り返してもなくなることはない。さらに,納期に間に合うように完成したシステムも皆無だし,納期に間に合ったシステムは未完成で許容できない機能不全を内包している。

そこまで考えてプレゼンのことを思い出した。社内いじめじゃないか,と歪莉は怒りと悲しみにつつまれた。そもそもあのへんてこな部署に異動したのも解せない。自分以外は,使い物にならないトンデモ人材ばかりだ。そこそこ頭がキレそうに見える和田も単なる不思議ちゃんに過ぎない。不思議ちゃんというのは頭の回転が遅いのを天然っぽい演技で隠している計算高い嘘つきだ,と歪莉は確信している。

自分をいじめている連中に復讐してやりたい。猫の死体を買ってきて盗聴しているヤツらの家のポストに詰め込んでやる。陰口をたたいているヤツらの口を畳針で縫い付けてやる。ネットのうらみはらさでおくべきか!!!

歪莉はネットの匿名アカウントのフォロワーの中でもとくに自分をちやほやしてくれている数人に,網界辞典室員と社長の殺人を依頼しようと思い立ち,まず安全に通信するための匿名暗号通信のためのツールをインストールしようと考えた。しかし技術に疎い歪莉には,何をインストールすればよいのかわからない。小一時間ネットサーフィンして,NSAの盗聴作戦と警察庁の検閲のことはなんとなくわかったが,肝心のツールは皆目わからないままだ。

途方にくれた歪莉は頭を冷やすために深夜の街に散歩に出て,そのまま何時間もさまよい続けている。すでに当初の頭を冷やす目的のことなど,どこかに行っている。

バチバチと音を立て,間欠泉のような光を投げている街灯の向こうに,見覚えのあるリヤカーが現れた。小さく寂しげなそのシルエットを目にした歪莉は,屍屋の輪子とすぐにわかった。顔の半分は幼く美しく,もう半分は醜く爛れている。小柄な身体で大きなリヤカーを引く姿は痛々しい。しかし,もっと痛々しいのは,そのような子供を生み出す社会の現実だ。

  • 「こんばんは」

歪莉の挨拶に輪子はつぶれかけた目を向けたが,興味なさそうにすぐにそらして歩き続けた。

  • 「古い機械の記憶はすべて白日の下に晒されることになるね」

歪莉の横を通り過ぎる時,輪子がつぶやいた。

  • 「どういう意味?」
  • 「計算速度が向上すれば数年後に全ての暗号は実用的な時間内に解かれ,電子署名は意味を喪失する。電子の記録は改竄し放題になる。デジタルデータの実効性は常に数年間しか保証されない。匿名暗号通信もログを残しておけば,数年以内に全て解読されるさ」

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突然なんの話だろうと訝しく思うが,どこから突っ込んでいいのかわからない。

  • 「あたしの死体を買ってくれない?」

とりあえず口を開くと,自分でも予想しなかったような言葉が飛び出した。知らぬうちに希死念慮に取り憑かれていたらしい。

  • 「いいけど,その金,誰がいつ受け取るの? 自分は死んでるから受け取れないよ」

輪子はまったく動じず,冷ややかに応じる。

  • 「あっ,なんてバカなんだろう。死んだらなにもできない」
  • 「死んだら屍屋になればいいのさ」
  • 「屍屋!? あ,あたしがどれだけがんばってきたと思ってるの? この会社で認められるためにいろんなことをしてきたんだってば」

言ってから屍屋を営む輪子にひどく失礼な言い方だったと気がついた。

  • 「でも,不幸なんだろ?」

輪子は気にする様子もなく,淡々とした口調で返してきた。

  • 「それはそうだけど……きっと運が悪いのよ」
  • 「運が悪いのは努力を怠るための言い訳。だって運が悪いというのは成功確率が他の人よりも低いということだから,試行回数を増やせばいいだけのことでしょ。他の人が10回に1回するのに自分は100回に1回しか成功しないなら,10倍やればいいだけのことだよね」
  • 「なんで正論を言うの? 正論なんか聞きたくない」
  • 「そうやって逃げてばかりだから行き場がなくなるのさ。逃げればその場所には戻れなくなる。どんどん居場所が減っていって,屍屋に行くしかなくなる」

歪莉は言い返す言葉もなく,そこに立ち尽くす。輪子はそのままリアカーを引いて去って行った。

チアノーゼになりながら赤ワインを嘔吐するもうひとりの自分がリアカーの荷台にいたような気がして歪莉は身震いした。これじゃ粗忽長屋だ。


突然ですが,ここで著者からの緊急連絡です。本連載は次回をもって休載となります。お覚悟はよろしくて?

『網界辞典 終わっちゃったよアンケート』を実施しております。我こそは網界辞典愛読者を自認する方は,ふるってご参加ください。人気キャラ投票や再開への熱い意見の記入など楽しい内容となっております。いただいた意見は,編集部に送りますので,くれぐれも個人を特定できるような情報は書かないでください。

網界辞典 終わっちゃったよアンケート
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今回登場したキーワード 気になったらネットで調べて報告しよう!

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  • 計算速度が向上すれば数年後に全ての暗号は実用的な時間内に解かれ,電子署名は意味を喪失する
  • 粗忽長屋
  • お覚悟はよろしくて?

和田安里香(わだありか)
網界辞典準備室長代行 ネット系不思議ちゃん
年齢26歳,身長162センチ,体重46キロ。グラマー眼鏡美人。
社長室。頭はきれるし,カンもいいが,どこかが天然。宮内から好き勝手にやっていいと言われたので,自分の趣味のプロジェクトを開始した。

倉橋歪莉(くらはしわいり)
法則担当
広報室。表向き人当たりがよく愛されるキャラクターだが,人から嫌われることを極端に恐れており,誰かが自分の悪口を言っていないか常に気にしている。だが,フラストレーションがたまりすぎると,爆発暴走し呪いの言葉をかくつらねた文書を社内掲示板やブログにアップする。最近では『裸の王様成田くん繁盛記』というでっちあげの告発文書を顔見知りの雑誌記者に送りつける問題を起こした。
口癖は「私もそう思ってたところなんです」⁠

水野ヒロ(みずのひろ)
網界辞典準備室 寓話担当
年齢28歳,身長178センチ,体重65キロ。イケメン。
受託開発部のシステムエンジニアだった。子供の頃からあたりさわりのない,優等生人生を送ってきた。だが,最近自分の人生に疑問を持つようになり,奇妙な言動が目立つようになってきた。優等生的な回答を話した後に「そんなことは誰でも思いつきますけどね」などと口走るようになり,打ち合わせに出席できなくなった。

内山計算(うちやまけいさん)
網界辞典準備室 処理系担当
年齢32歳,身長167センチ,体重73キロ。大福のように白いもち肌が特徴。
ブログ事業部の異端児で,なにかというと新しい言語を開発しようとするので扱いに困っていたのを宮内が連れてきた。
コンピュータ言語オタク。趣味は新しい言語のインタプリタ開発。

篠田宰(しのだつかさ)
実例担当
年齢44歳,身長165センチ,体重48キロ。薄い毛髪が悲哀を感じさせる。
社長室。影が非常に薄く,やる気もない。幽霊のよう人物。ただし脅威の記憶力を持っている。温泉とコーヒーに異常な執着がある。

古里舞夢(ふるさとまいむ)
年齢36歳。身長165センチ,体重80キロ。
受託開発部のエンジニア。極端な無口で人見知り。
和田のファン。何かというと和田に近づき,パントマイムを始める。どうやら彼なりの好意の表現らしいが,和田を含め周囲の全員がどんな反応をすべきかわからなくなる。

綴喜堕姫縷(つづきだきる)
容姿は女性,性別は男性。身長172センチ,体重52キロ。
年齢不詳。カナダ,UBC大学卒業。文化人類学専攻。英語とロシア語が堪能。宮内専務の秘書。その前は,バンクーバー支店長の秘書をしていた。
妖艶な美女。独特の雰囲気で見る者を魅了する。サブカル,特に昔のマンガにくわしい。バンクーバー支店で採用したため,本社には詳細な人事情報がない。

著者プロフィール

一田和樹(いちだかずき)

11月6日東京生まれ。バンクーバー在住。

シンクタンクにてIT関連市場調査,製品開発を担当,独立後,インターネットプロバイダなどIT企業の役員,社長を歴任。人材育成にも長け,社長を務めた会社の社員の半数が起業した。

2010年島田荘司選 第3回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞受賞。サイバーセキュリティミステリを中心に執筆,その他,ファンタジーやマンガ原作などもこなす。筆が速いことと,多彩な芸域が特徴。

@K_Ichida

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