ログは活用するためのもの
筆者にとって、ライフログシステムは生活の細部を記録し、それを現在進行形の生活にすぐに役立てることが目的です。
この点で、「ログシステム」と呼ぶのは、やや不適切なのかもしれないと考えています。というのは、ログというと、単に「記録することを目的としている」ように聞こえてしまうためです。
もちろん、筆者自身はかなりの記録癖をもっており、細かいことを記録していますし、捨てても気づかないくらいのさまざまな資料を後生大事に抱えています。そうでなければ、ライフログシステムを研究しようなどとは思わなかったはずです。
ログや記録には目を奪われがちですが、重要なことは、記録したログをどう活用するか、ということだと考えています。同時に、先走った観念やアイデアだけでなく、じっさいに記録したログを運用してみることも重要です。ログや記録に基づいた実例こそが説得力をもつだろうからです。
1,400程度の機能
筆者の運用しているライフログシステムは、2013年1月時点で約1,400程度の機能をもつようです。「ようです」というのは、システム全体を把握できるようになっていないことと、規模が大きするためです。ターゲットが人生全体であるため、必然的に規模は拡大しつづけているわけです。
このシステムを常時動かしています。
コンピュータのメインの機能としては、メーラー、スケジューラー、ビューアーがベースとなっていますが、それぞれのソフトや機能は分離しておらず、連携して動作するようになっています。
メールが届くと、その内容に応じてWebにアクセスしてログインした状態でブラウザが開くとか、メールと掲示板とFacebookの発言を区別せずにシームレスに行えるところが、通常のシステムとは異なるところです。
たぶん、あまりヘビーに使ったことがないので推測になってしまうのですが、いちばん似ている環境はカスタマイズしたEmacsなのではないかなと考えています。
リマインダー
ライフの観点でいうと、さまざまな生活上のサポート機能をもっています。一言で言うとリマインダーです。
レシピや過去の食事の写真と連動した食事や、天気と連動した買い物のリマインド、お洗濯のサポート、ゴミ出しの日など、あらゆる生活の手順を、逐一サポートしてくれます。
これにより、複雑な生活上の雑事をだいぶ楽にこなせています。このあたりの評価はむずかしいのですが、ライフログシステムがないとひんぱんにど忘れをしていたものを、スームズで快適に行えています。評価がむずかしいのは、テストしているのがひとりで、テスト環境の構築が困難であるためです。固有の生活をシステム化しているため、他への応用は簡単ではないのです。このあたりはシステムを広める観点からいうと課題ですが、研究としてはあまり問題ではないと考えています。
ストーブやエアコンのつけ忘れ、切り忘れ、食洗機のスイッチの入れ忘れなど、ひとつひとつはたいしたことがないちいさな「ど忘れ失敗」も、積み重なるとけっこうリカバリーはたいへんなものです。
小さなことをサポートしているように思うかもしれません。このあたりの説明はむずかしいです。小さな快適を積み重ねることで、不快感を感じる機会が少なくなり、結果として快適になっていることを全体としては実感しています。
もともと整理が好きだったのかもしれませんし、大小のToDoリストは学生のころから使い続けていますから、ライフログシステムはそれの集大成であるということにすぎないのかもしれません。それでもこういうコンピュータに依存したスタイルは、楽だなぁと思うのです。
『夏への扉』から
ロバート・A・ハインラインの『夏への扉』の世界を夢見たころから、ひとにできることと機械に任せることを、できるだけ分けられるようにしようと考えてきました。システムとして外部に出せたということは、それを実行できるロボットあるいはハードウェア、システムさえあれば、それを実行するのは自分でなくてもいい、という可能性が出てきます。
たとえば日常の買い物をシステム化することができれば、スーパーへの買い出しという作業にかかる手間を軽減できます。洗濯や掃除なども同じです。
雑事のない日常は、平穏です。ただシステムのサポートにしたがって日常を送っていれば、大きな失敗はないわけですから。
念のため言及しておきますが、日々新しいことをしたり、冒険したり、チャレンジするとかとは別の次元の話です。だいたい、研究やシステム開発や原稿執筆だけで毎日くたくたなので、それ以外の部分ではできるだけ楽をしたいのです。
システムへの依存心
気になる点は、システムへの依存心の高まりです。
当然、ここまで緻密にシステムを組むと、生活が変わる度に、システムを大幅に変更する必要が出てきます。たとえば旅行中にどうするかとか、引っ越したらどうするか、などということを考える必要があります。
旅行中に、「今日はゴミ出しの日です」などといわれても困るわけで、そういう硬直したシステムでなくすることは重要な課題だと認識しています。
システムに依存すると、システムが動かなくなったときに、手も足もでないということもあります。今日なにをしたらいいのか、買い物にいけばいいのか、細かいところで確認作業が発生し始めます。システムが手順をまとめてくれているために、筆者は1日に約100項目程度をこなしているようですが、システムが止まると、それが怪しくなってくるのです。
以前に、研究者の方と「ライフログシステムを使うと、お年寄りのぼけ防止になるか」という議論をしたことがあります。筆者は、システムに依存するとむしろボケる可能性もあるのではないかと感じました。
それでもよいのかもしれませんし、システムと人を、ことさらに区別する必要もないのかもしれないです。
「さっき音痴」
じっさい、筆者はなにかをし終えると、ほぼ次の瞬間にはしていたことをきれいさっぱり忘れる、という特技(?)の持ち主です。
これからなにをするのかも、ToDoリストやシステムが提示してくれないとわからないほどです。いや、もちろん、大きなこと(原稿を書くとか研究開発するとか)は忘れません。そうでなくて、細かい細部に関しては、驚くほど覚えていないのです。
社会人になったころに、それを指摘されてびっくりされたことがあります。もう20年も前のことですけれども。
むしろ筆者にいわせれば、システムに依存するからシステムを使わないときよりも多くのことをこなせるのであると肯定的に捉えることができるわけです。筆者自身は、学生時代からシステム依存型だったため、頭のなかに細かいことを覚えておく習慣がほとんどないのです。そんなことをしているひとがいることのほうにびっくりしたくらいです。自分は自分の枠のなかで考えるものなので、自分が普通だと思ってたんですね。
忘れっぽいのは情報が多いからで、使った情報をすぐに出してしまって、頭をからっぽにすることで、むしろ発想力はアップするのではないか、と。
これは仕事上でも同様で、小さなバグフィックスや小さな記事1本などは、書くそばからなにを書いたか忘れ去っています。これでは同じ内容のことを繰り返し書く可能性が出てくるため、記事を書く前に過去に書いた記事を参照するシステムが不可欠です。
運動の苦手な人を運動音痴といいますが、筆者はさしずめ「さっき」したことを覚えているのが苦手な「さっき音痴」なのです。
そしてそれは情報社会によってさまざまなシチュエーションがつぎつぎとやってくる現代の人間には多かれ少なかれ共通することです。要するに、現代社会は「いま・ここ」だけを刹那的に消費しつづけているのだろう、ライフログシステムはそれを究極的に押し進めるのだろう、と分析しています。
ナイーブな過去の記憶とは異なるところに、すでにわれわれは行き着いてしまっているのではないか、というのがライフログシステムを使う筆者の抱いている考えです。
これは人間の進歩なのでしょうか。退歩なのでしょうか。それとも単に適応したのでしょうか。