じめに 「育成不全」向き合う

「面倒見のよさ」が抱えるジレンマ

「どうして、こんなに部下のことで手一杯なんだろう」

そんな小さなため息を、あなたも心の中でついたことがあるかもしれません。プレイングマネージャーとして自分の仕事を抱えつつ、部下のフォローにも奔走する日々。調整役としてあちこちに気を配り、突然のトラブルにも対応しているうちに、気づけば自分の業務は後回し――今日もまた残業をしている。こうした状況に、心当たりのある管理職の方も少なくないはずです。とくに、⁠面倒見がいい」と評される上司ほど、このジレンマに直面しがちです。部下の課題にいち早く気づき、丁寧に寄り添い、ときには自ら前に出て対応する。その真摯な姿勢ゆえに、⁠これだけ手をかけているのに、なぜ思うように育たないのか」と、ふと徒労感を覚えることもあるのではないでしょうか。成長の後押しをしているつもりが、なぜかこちらの負担ばかりが増えていく――そんな状態が続けば、⁠育成に注力しても無駄なのかもしれない」という不安や迷いが生まれてしまうのも無理はありません。育成に懸ける思いが強いからこそ、思い通りにいかない現実に、静かな疲れを感じてしまうのです。

昔と比べ高くなった、育成のハードル

育成に力を注いでいるのに、手応えが感じられない――その背景には、管理職のやり方だけでは説明しきれない仕事の〝質〞の変化があります。今の仕事は、かつてのように「これを教えればできる」という単純なものではなくなりました。部下1人では簡単に判断できない、複雑で厄介な業務が日常的に増えてきているのです。たとえば、

  • 資材の納期が急に遅れたり、輸送コストが予算を大幅に超えたりして、仕入先や他部署との調整に駆け回ることが増えた
  • 社内システムの切り替えやデジタル化対応で、操作方法だけでなく運用ルールそのものを関係者と一緒に模索しなければならない仕事が増えた
  • 新しいサービスや取り組みを進める際、オンライン会議が中心となり、これまで顔を合わせたこともなかった他部門や新規の取引先と、画面越しにゼロから信頼関係を築く場面が増えた

こうした「マニュアル通りにはいかない仕事」⁠前例のないイレギュラーな仕事」は、ただ部下に任せれば済む話ではありません。そもそも、上司自身が初めて取り組むようなテーマも多く、⁠どこから手をつけ、どう教えればいいのか……」と立ち止まってしまう場面さえあるでしょう。そのために、部下に裁量を与えて学ばせながら進めたい気持ちはあっても、実際には逐一指示を出したり、自分で抱え込んでしまったりしてしまう。⁠部下を育てること」自体が、以前よりもずっと難しくなっているのです。

時代の変化とともに崩れゆく育成の〝前提〞

この難しさは、仕事が高度に複雑化するなかで、これまで職場での育成を支えてきた土台そのものが、揺らいでしまっていることに起因します。前提として、職場における育成(OJT:On the Job Training)は、仕事に一定の再現性(repeatability)があるからこそ成立するものでした。

  • (1)上司がモデルを示す
  • (2)部下がそれを真似る
  • (3)上司がモデルとの差異をフィードバックする
  • (4)部下が再度実践する

こうした基本的な循環は、再現可能な業務の「型」があることを前提に機能していたのです。しかし今は、市場も顧客も変化のスピードが速く、予測や計画を見通しにくい。そこにおいては、あらかじめ共有できる手順が存在せず、しかも教えたことがすぐに陳腐化してしまいます。そもそも「教えられたことを実行する」より「その場で判断する」力の方が問われている。そんな状況だからこそ、これまでの育成スタイルがフィットしにくくなってきています。結果として、⁠どう教えたらいいかわからないから、とりあえず一緒にやる」⁠後からフォローするしかない」という対応が増え、本来なら事前に行われるべき育成が、事後処理的に「面倒を見る」位置づけになってしまっているのではないでしょうか。

部下側の変化がさらに拍車をかける

さらに、こうした難しさに拍車をかけているのが、部下側の変化です。いま世界的に見ても、仕事や職場へのエンゲージメントは下がりつつあり 、⁠もっと仕事に力を注ぎたい」と前向きに考える部下は、以前よりも明らかに少なくなっています。積極的に「教えてください」と相談してくる部下も、昔に比べて減ってきているのではないでしょうか。加えて、リモートワークや分散型の働き方が広がるなかで、部下の様子をちょっと観察したり、声をかけたりすることさえ簡単ではない職場も増えています。こうした状況が、ますます育成を難しくしているのです。こうした中で、

  • 「自分でやったほうが早い」と仕事を抱え込み、過剰労働のループに陥る
  • 一部の「デキる人」にばかり負担が集中し、その人と上司だけが疲弊する
  • 主体性に乏しい部下は取り残され、伸びる人と伸びない人の差がどんどん開く

といった状況が、あちこちの職場で見られるようになっています。育てる手応えを失った現場では、⁠デキるやつしか、できない」⁠伸びるやつしか、伸びない」――そんなドライな言説さえ聞かれるようになりました。

「育成不全」という課題にどう向き合うか

「育成不全」――本書のメインタイトルは、こうした現場での停滞感やジレンマを端的に表したものです。今、職場の育成機能はかつてないほど脆弱になっています。だからといって、一部の〝適者〞だけが打席に立ち、限られた人とリソースで何とか現状に耐えながら、日々増えていく負荷をさばいていくのは、あまりに無理がありますし、持続可能なものではありません。本書では、そうした行き詰まりを超えるために、⁠デキる人しかできない組織」をどう脱却し、いまここにいる部下の可能性を引き出し、組織を持続的に育てていくか――その理論と実践を提案していきます。

変化の中でも「何とかする人」は、どのように成長したのか?

この育成不全の状況を乗り越える手がかりはどこにあるのか? 仕事の再現性が低くなっているいま、注目すべきは人の再現性です。 とくに変化が激しく、新しい問題が次々と現れる環境のなかでも、安定して高いパフォーマンスを発揮できる人への注目です。

「困ったときは、あの人に頼めば何とかしてくれる」
⁠イレギュラーな事案だが、あいつに頼めばうまいことやってくれるだろう」

職場でそのように評される人たちです。彼らは、どのようにして自分の力を発揮できるようになっていったのでしょうか。どのようなトレーニングや経験を積めば、彼らに近づけるのでしょう。イレギュラーに強い人たちの行動・思考・心理が次の時代の育成を考える上で、大きなヒントになります。しかしながら残念なことに、職場ではこうした「何とかする人」が特別視されてしまう空気感があるのも事実です。

「頭がいい」⁠センスがある」⁠耐性が高い」⁠根性が違う」――

そうした言葉で、生まれ持った資質や才能の違いとして片づけられてしまうことがよくあります。この「デキるやつは最初からできる」という言説は、⁠デキるやつを採れ」という採用偏重の発想につながり、同時に、育成に対する諦観をも生み出します。誰もが持っているはずの成長可能性やポテンシャルへの関心が置き去りにされてしまうのです。目の前の人に関心を持ち、そのポテンシャルに丁寧に目を向けようとする姿勢が失われれば、育成そのものは崩れていきます。若手や新人など、経験の浅い社員たちの「小さな前進」「努力」も、見過ごされやすくなってしまうでしょう。

あの人は何を意識しているのか?
どのような視点で考えていたのか?
どのように感じているのか?

育成の営みとは、こうした人の内面に目を向け続けること。そして、活力やパフォーマンスが生まれる原理を丁寧に理解し、少しずつその力を引き出していくことに他なりません。

次の時代の育成を組み立てる

「イレギュラーに強いやつは何が違うのか?」

だからこそ、本書はこの基本的な問いを起点に置いています。私はさまざまな職場でフィールドワークやデータ分析を行い、不確実性の高い複雑な仕事=「イレギュラー」への対応に長けた人々の行動や思考の傾向を、長年にわたって調査してきました。また、人材育成に関する国内外の研究文献も20年近く読み込んできました。そうした探究を通じて見えてきたのは、状況を整理し、関係者と協議し、必要な対応を前向きに再構成していく姿勢こそが、これらを乗り越える力の核になっているということです。つまり、複雑な状況を「何とかする力」とは、本人の先天的な資質に依らず、本人の思考習慣や行動プロセスから生まれているのです。さらに、そうした力は、経験や育成の積み重ねによって後天的に形成されていくものだという点にも確信を深めています。実際、対応力の高い人たちに過去の経験を尋ねると、多くが共通して「きっかけとなる経験」「支えとなった指導」について語ります。たとえ今は主体性が乏しく、経験も浅い若手であっても、ポイントを押さえれば、後天的にこの力を伸ばしていくことができます。多くの研究でもそれが示されています 。どんな状況でも成果を出せる「デキるやつ」「育てられる」のです。

本書の目的と構成

本書では、不確実性の高い複雑な仕事のことを「イレギュラー」と定義し、次の時代の組織にとって必要不可欠な「イレギュラーに強い人材」の特性を体系的に分析、職場全体で「再現可能なスキル」として育成する方法を紹介します。学術的な知見をベースにしながらも、現場ですぐに活用できるフレームワークや事例を豊富に盛り込んでいます。上司として、部下をどう育てればいいのか、どんな環境を整えれば彼らが成長できるのか。その要点を、本書で一緒に掴んでいきましょう。

  • 第1章:イレギュラーに強い人の根底にあるもの
    ⁠イレギュラーに強い人」は、単なるストレス耐性が高いのではなく、状況を的確に分析し、柔軟に対応する力を持っています。その内面のメカニズムを、心理学・認知科学の視点から解明します。
  • 第2章: 逆境の中を歩む人のマインドセット ――心理的エンパワーメントの高め方――
    部下が「不安」に飲み込まれず、自信を持って行動するには何が必要か? その鍵となる「エンパワーメント」を高める方法を、具体的な指導法とともに解説します。
  • 第3章: 混沌の中でもブレない思考 ――コンセプチュアル・スキルを磨く――
    仕事を進めるうえでは、⁠いま何が問題なのか?」⁠どの目的を優先すべきか?」を見極める力が不可欠です。思考を整理し、適切な意思決定をするための「コンセプチュアル・スキル」の鍛え方を学びます。
  • 第4章:キーパーソンを見極める慧眼 ――戦略的ネットワーキングの実践――
    適切に仕事をこなすうえでは、多様な利害関係者との連携が不可欠になります。ここでは、部下が戦略的にネットワークを築き、周囲と協力しながら問題解決を進める方法を紹介します。
  • 第5章:問題発生時の育成戦略 ――イレギュラーの中で部下を育てる――
    最後の章では、問題発生時に育成をどのように考えるべきかをテーマに扱います。イレギュラーへの対処を迅速に進めつつ、部下の問題への対処能力を高めるために上司に求められる考え方や、部下のタイプ別の育成アプローチを解説しています。

どの章でも、学術的な知見と実践的な手法を組み合わせ、⁠知る」だけでなく「使える」ようになることを意識した内容になっています。専門的な用語も登場しますが、それらの意味や実践方法については丁寧に解説していくので、安心して読み進めてください。

ベテラン部下も、基礎能力を見直そう

本書で紹介するアプローチは、部下の〝心理〞や〝思考〞、そして〝関係性〞といった普遍的なテーマに基づき紹介しています。強くしなやかな基礎能力こそが、イレギュラー時の最大の「武器」になると考えているからです。これらのテーマは一見、若手向けに思えるかもしれませんが、ベテラン社員に対しても、意識的に強化すべきポイントです。ベテラン社員は長年の経験を活かし、効率的に業務を進める術を持っています。しかし、その「経験の蓄積」がイレギュラーな事態では大きな足かせとなることがあります。日常的なルーティン業務に最適化された思考が、新たな状況に対応する柔軟性を奪ってしまうのです。この「ルーティン最適」な姿勢や思考から抜け出すには、日ごろから「当たり前」を問い直し、健全な批判的視点を持つ習慣をつくることが重要です。たとえば、業務のやり方を定期的に見直し、変化を捉えつつ「今でもこのやり方は最適だろうか?」と考える機会を増やすことが必要です。これは第3章の「コンセプチュアル・スキル」と関連するので、ぜひ参考にしてください。また、イレギュラー対応では、関係者を素早く把握し、効果的に働きかける力が求められます。ベテラン社員は人間関係も「ルーティン最適」になりがちで、新たな利害関係者の存在や彼らのニーズを見落としやすくなります。イレギュラーに強い社員になるためには、自分のネットワークを俯瞰し、意識的に見直すことも不可欠でしょう。自分の仕事におけるキーパーソンや助言者を改めて見直し、よりクリティカルな影響を持った人物を見極める術を獲得していきましょう。この点については、第4章「戦略的ネットワーキング」で詳しく解説していますので、ぜひチェックしてください。イレギュラーな状況に直面したとき、経験に頼るだけでなく、新たな思考と行動で適応できるようにするためのヒントとして、ぜひ活用していただければと思います。

「育成不全」と向き合う時代、イレギュラーで部下を伸ばす

近年の研究では、予測不能な状況――つまりイレギュラーこそが、部下の成長を促す絶好の機会であることが明らかになってきました。不測の事態に直面したときに、自ら考え、行動しながら乗り越えていく経験は、日常業務では決して得られない「判断力」「対応力」を育みます。しかし現実には、こうしたチャンスが活かされないまま終わってしまう職場も少なくありません。⁠任せるのが不安」⁠フォローの余裕がない」――そんな上司の本音も、背景にあるのかもしれません。結果として、打席に立ち続けるのは上司や一部のエース社員ばかり。彼らは、イレギュラーを乗り越えパワーアップしていくなかで、〝ベンチ〞の部下は「それは私たちの仕事ではない」と傍観するポジションから動かないまま――。まさに、これが「育成不全」の構造です。だからこそ、私たちが今見つめ直すべきなのは、⁠なぜ部下が動かないのか」ではなく、⁠なぜ動けないままでいるのか」という問いです。そのためには、打席に立てずにいる部下の心理を丁寧に理解し、なぜ踏み出せないのか、どこでつまずいているのかを見極める力が求められます。⁠やる気がない」⁠受け身だ」とラベリングする前に、そうなってしまう背景や構造を捉え直し、どうすれば一歩を踏み出せるよう支援できるかを考えること。そこが、これからの職場づくりのスタート地点となるはずです。部下が〝自ら動く力〞を取り戻すことで、⁠育成不全」の連鎖は断ち切れるでしょう。変化の激しいこの時代こそが、育成を根本から見直す絶好のタイミングです。職場でのイレギュラー対応に悩んでいる方、チームの成長を促したい方にとって、少しでも役立つ一冊になれば幸いです。この時代だからこそ求められる育成機能を、一緒にバージョンアップさせていきましょう。

株式会社エスノグラファー 代表取締役 神谷俊

神谷俊(かみやしゅん)

株式会社エスノグラファー代表取締役。法政大学大学院経営組織研究科修士課程修了(MBA)。2016年にエスノグラファーを創業し,リーダーシップ開発やマネジメント機能の再設計を軸に,組織変革の現場に深く入り込む調査・コンサルティングを展開している。フィールドワークによる現場観察と,学術的エビデンスに基づく理論を融合させた独自の手法で,企業が抱える複雑な課題に切り込むスタイルに定評がある。これまで,グロービス,マイナビ,宣伝会議などで多数の登壇を重ね,定期開催している企業内講演では,大手企業のマネジメント層から継続的に高い支持を集め続けている。また,面白法人カヤックをはじめとした先進的な組織開発企業において,アドバイザーとしても活躍中。著書に『遊ばせる技術 チームの成果をワンランク上げる仕組み』(日本経済新聞出版)がある。