概要
人工知能の進化で人間の価値が見直しを迫られているが,人工知能が常に正しい意思決定をできるとはかぎらない。
では,単純な脅威論に踊らされず,正視眼で人工知能の限界を見極め,対処していくにはどうすればいいか?
世界的認知心理学者ゲイリー・クライン博士に師事する唯一の日本人研究者が,人工知能と人間の直観を比較しながら,人間の可能性とその引き出し方,これからの社会や教育のあり方を示す。
こんな方におすすめ
- 人間や社会,教育のこれからのあり方に興味がある方
- 人工知能の話題に興味がある方
著者から一言
通算成績4勝1敗――2016年3月15日,グーグル・ディープマインド社によって開発された人工知能 Alpha GOが,囲碁の世界王者イ・セドル氏に勝ち越した。
碁は,チェスや将棋よりも,1つの局面で考えられる手数がはるかに多いとされる。それゆえに,人工知能がトップ棋士に勝つのはまだ先のことと予想されていた。ところが,人工知能はチェスのガリル・カスパロフ氏や将棋の三浦弘行八段(当時)だけでなく,碁の九段にまであっさりと圧勝した。人工知能はゲーム上での強さだけでなく,絵画,編曲,執筆も含めたあらゆる知的領域にその可能性を広げようとしている。まさにプロやエキスパート並みの創造力を発揮しつつあるのだ。
現在,人工知能研究は「春の時代」を迎えている。かつて,人工知能ブームが1960年代と1980年代に2回ほど起きたが,ブームのたびに研究は技術上の壁にぶつかり,その後,長い「冬の時代」に突入することになった。その反動からか,今回,世間の関心度もかなり高い。
人工知能の優秀さが喧伝される一方で,脅威論も出てきた。「近い将来,人工知能が人間の職を奪い,私たちの生活や生き方までも管理するようになるのではないか」という不安である。多くの識者が人工知能の未知なる可能性に期待を寄せてはいるが,どこか皮肉で冷ややかな態度を示している人も少なくない。人工知能が単純作業から高度な知的作業までこなせるようになっている現状に,焦燥感と危機感を抱いているのだろう。なぜなら,自分の職業の価値が低下し,機械に生活の糧を奪われるかもしれないのだから。
もし,このまま人工知能が進歩していったらどうなるのだろうか。
数十年後,十数年後,いや,わずか数年以内に人類の知能を完全に超越するのだろうか。
こうした疑問に,人工知能研究で最先端を走っている学者たちでさえも明確な回答ができないでいる。まして,人工知能に縁がない一般人は,なおさら人工知能の未来を正確に予測することが難しいだろう。
では,どうすれば人工知能の可能性と限界を知ることができるのだろうか。それは,人間と人工知能のそれぞれの思考メカニズムを比較検証することではじめて見えてくる。人間と人工知能の思考の性質は両極端なほど異質であり,それぞれが異なる強みと弱みをもっているからである。
たとえば,あなたは次の質問に回答できるだろうか。
「人間の直観的意思決定と人工知能の思考メカニズムの相違点は何か。それぞれの強みと弱点はどのようなものか」
この初歩的な質問に明確な回答ができないのであれば,あなたは人間の直観や意思決定のメカニズムだけでなく,人工知能の強みも弱みもよくわかっていないことになる。最も基本的な質問であるが,その答えは直観と人工知能の本質を突くものである。
今回,私が本書を著すことになったのも,「脅威論に翻弄されず,正視眼で人間と人工知能の可能性と限界を考えてみていただきたい」という想いからである。世間で流布している人工知能論は,あまりにも脚色されたものが多い。
もともと私は,アメリカの教育大学院で「企業の人材育成の場で,どのようにして従業員の戦略思考や危機管理能力を養成できるのか」をテーマに研究をおこなっていた。大学院で学んだことを勤務先の人材育成企業スカイビジネスで導入するつもりでいた。
ある日,偶然,図書館で「現場主義意思決定(Naturalistic Decision Making:NDM)理論」についての論文を発見した。この理論は,アメリカの著名な認知心理学者であるゲイリー・クライン氏によって構築されたものであり,「エキスパートによる判断と意思決定の本質は“直観”にある」というものである。私はクライン氏の意思決定研究にこの上ない知的興奮をおぼえ,彼の研究を自分のライフワークにすると決心した。幸いにも,私はクライン氏の知己を得て,現在,彼の直接指導のもと,日本で独自の研究活動を続けている。直観研究の第一人者の理論を本格的に学んできたからこそ,人間と人工知能の思考の違いがよくわかるのである。
人間が利便性を享受する人工知能の発展は歓迎したい。しかし,人工知能の学習機能を支える「ディープラーニング(Deep learning)」という技術には,思いもよらない弱点や盲点がある。さらに,人工知能が持つ能力と思考法の種類は,人間よりもはるかに少ない。こうした理由から,「人間が直面するあらゆる繊細な問題を解決するうえで,人工知能がつねに正しい判断と意思決定ができる」とはかぎらない。人工知能がどんなに進歩したとしても,社会的,文化的な諸問題を人間の代わりに解決できるようになるとは思えない。結局,どこかで人間の経験や直観がどうしても頼りになるはずである。
直観力をはじめとする人間の能力の開発法についても,近年,認知心理学の分野でかなりのことが解明されてきた。現段階において,その効果が教育学的に完全に証明されているわけではないが,勉強やビジネスなどに応用が利くメソッドがいくつか提唱されている。本書では,直観を高められる具体的な方法やコツを紹介する。
さらに,人工知能をはじめとするテクノロジーは,教育を含めた私たちの知的活動を大きく変えつつある。どの国の教育界も,教育制度や教育内容を社会的変化にどのように対応させればいいのかを模索している。日本も例外ではない。周知のとおり,2020年には大学入試を中心とした教育改革がおこなわれる予定である。この改革は,今後の人工知能時代を見据え,子どもたちが人間ならではの強みを活かせるようにすることを目的としている。本書では,英国とアメリカの教育改革案を参考に,日本の教育改革を私なりに検証している。また,私たちがこれからの激動の時代を生き抜くにはどのような能力を磨くべきなのかについても論じる。意外だろうが,このことも直観と人工知能におおいに関係がある。
本書の目的は,人工知能研究そのものを否定したり,「それでも直観が人工知能に勝る!」などと強調することではない。人工知能と同様に,当然,直観にも弱点や盲点はある。直観と人工知能の敵対関係や優劣関係というよりも,人間と人工知能が共存することでより優れた意思決定をするための方向性を読者のみなさんとともに探りたい。
さあ,人間と人工知能の「心の旅」に出かけよう。