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“Quantum Ready”のその先へ ―2022年・量子コンピューティングの可能性

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すべての開発者・研究者が量子コンピューティングを手にするために

量子コンピュータで実現可能な世界が拡がりつつある一方で,量子コンピュータは古典コンピュータと比較してやはり"敷居が高い"存在です。宇都宮氏は量子コンピュータの普及に立ちはだかるハードルとして,以下を挙げています。

  • 量子コンピュータに断片化した開発者ツール
  • 量子ハードウェアは貴重な計算資源
  • ハードごとに個別契約が必要で,アクセスが難しい
  • 量子コンピュータのシミュレーションは専門知識を要する上に計算リソースが必要

こうした量子コンピュータの障壁を取り除くために,AWSが2019年の「AWS re:Invent 2019」で発表したフルマネージドサービスが「Amazon Braket」です。⁠すべての開発者/科学者の手に量子コンピューティングを」を掲げるBraketは,量子コンピュータに実行させたいアルゴリズムの設計→テスト→実行が可能で,複数の量子デバイス(QPU)から選んで使うことができます。

量子コンピューティングの設計からテスト,実行までひとつのサービスで完結させることができる「Amazon Braket⁠⁠。すでにあいおいニッセイ同和損害保険の子会社であるAioi Nissay Dowa USAやフォルクスワーゲングループ,ウォータールー大学(カナダ)などで採用されている

量子コンピューティングの設計からテスト,実行までひとつのサービスで完結させることができる「Amazon Braket」

現在利用可能なQPUは

  • Rigetti …超伝導量子ビット(38量子ビット,ゲート型)
  • IonQ …イオントラップ量子ビット(11量子ビット,ゲート型)
  • D-Wave …超伝導量子ビット(2048量子ビット/5760量子ビット)

ですが,AWSは2021年の「re:Invent」で新たに以下の2つのスタートアップが提供する量子デバイスを追加しました。

  • Oxford Quantum Circuits(OQC⁠⁠ …超伝導量子ビット(8量子ビット,ゲート型)の量子コンピュータ「Lucy」⁠2022年第1四半期からロンドンリージョンで提供予定)
  • QuEra Computing …リュードべり原子によるアナログハミルトニアンシミュレーション(AHS)

Rigetti,IonQ,D-Waveなどすでに市場で高い評価を受けているベンダに加え,OQC,QuEraというグローバルでも非常に注目されている量子スタートアップの革新的な技術を低価格でクラウドから利用できることは,顧客の選択肢を拡げることにもつながります。なお,欧米で評価の高い量子スタートアップの登場が相次いでいることについて宇都宮氏は「量子コンピュータの研究が有名な大学の出身者が,そのままスピンアウトするケースが多い」と指摘しています。

Amazon Braketで提供されるメインの量子デバイス。D-Wave,IonQ,Rigettiと実績のあるベンダのQPUをクラウド経由で利用できる

Amazon Braketで提供されるメインの量子デバイス。D-Wave,IonQ,Rigettiと実績のあるベンダのQPUをクラウド経由で利用できる

また,Braketは設計からテスト,本番環境での実行までをひとつのサービス内で完結でき,開発環境としてマネージドな「Jupyter Lab」や,デバイスに依存しない回路設計を可能にする「Amazon Braket Python SDK⁠⁠,量子ビット数の異なる複数のシミュレータが提供されている点なども大きな特徴です。ひとつのサービスだけで量子コンピューティングに必要な環境がすべて揃うことは,開発者や研究者の作業効率を劇的に改善し,量子コンピューティングへの入り口をより広くすることが期待されます。

Amazon Braketのアーキテクチャ。ユーザはひとつのサービス内でQPUやシミュレータにアクセスでき,実行した計算結果はS3に保存可能

Amazon Braketのアーキテクチャ。ユーザはひとつのサービス内でQPUやシミュレータにアクセスでき,実行した計算結果はS3に保存可能

「re:Invent 2021」では,QPUの追加以外にもBraketのアップデートが数多く発表され,顧客のフィードバックを細かいスパンで実装していくというAWSのポリシーが量子コンピューティングにも確実に反映されているようです。

「現在できること」を押さえながら可能性を広げる試み

現在,量子コンピュータが抱えている大きな課題のひとつに,⁠誤り訂正機能」の実装があります。量子コンピュータの最古参プレーヤーであるIBMは2021年11月に,同社としては初めて100量子ビットを超えた127量子ビットのプロセッサ「IBM Eagle」を発表しましたが,2022年中にはその約3倍となる433量子ビットの「IBM Osprey」を,さらに2023年にはその2倍以上となる1121量子ビットの「IBM Condor」のリリースを予定しています。しかし誤り訂正を実行可能な実用的な量子コンピュータには,少なくとも1万量子ビットが必要と言われており,IBMはロードマップで「2030年までに実用化可能」としていますが,まだかなりの時間とコストがかかることは間違いないでしょう。

これに対し宇都宮氏は「誤り訂正機能の実装とは別に,NISQ(Noisy Intermediate-Scale Quantum Technology)マシンの可能性を深堀りしていくことがより重要なのでは」と語っています。NISQとは,ノイズがあることを前提にした100量子ビットを超える中規模な量子デバイスで実現できる技術を指しており,限られた量子ビット数であっても,すぐれたアプリケーションがあれば現実的な問題が解けるようになる可能性は高いとされています。たとえば量子コンピュータをコプロセッサとして利用する量子/古典ハイブリッド計算をNISQで行うといった,NISQでできることを増やすことで,⁠誤り訂正機能の実装とは別に)量子コンピュータの可能性を拡げていくというのがAWSのスタンスのようです。

今後の量子コンピューティングの世界で重要な役割を果たすとされている「NISQ」は,ノイズを前提にした100量子ビット程度の中規模デバイス。誤り訂正機能の実現とは別に,NISQでできることを拡げていくことが量子コンピュータ普及の鍵になる

今後の量子コンピューティングの世界で重要な役割を果たすとされている「NISQ」は,ノイズを前提にした100量子ビット程度の中規模デバイス

なお,AWSはカリフォルニア州パサデナのカリフォルニア工科大学に隣接する場所に量子研究センターをもっており,そこではジョン・プレスキル(John Preskill)教授など世界的な研究者とともに,量子プロセッサを含めたハードウェア/ソフトウェアの開発/研究を進めています。

カリフォルニア工科大学に隣接するAWSの量子研究センターでは世界的な量子研究者とともにハードとソフトの開発が行われており,論文も多数発表されている

カリフォルニア工科大学に隣接するAWSの量子研究センターでは世界的な量子研究者とともにハードとソフトの開発が行われており,論文も多数発表されている


2021年4月,IBMは米国屈指の医療機関であるオハイオ州クリーブランドのクリーブランドクリニックと10年間に渡る技術提携「Discovery Accelerator」を発表しました。クリーブランドクリニックを中核とする最先端の病原体研究施設「Global Center for Pathogen Research & Human Health」のテクノロジ基盤として機能するDiscovery Acceleratorには,最先端のテクノロジが数多く提供される予定ですが,その中でももっとも注目されているのが,IBM Qをクリーブランドクリニックのキャンパスに設置するというプロジェクトです。量子ビット数は明らかになっていせんが,民間組織に量子コンピュータをオンプレミスで設置するというのはIBMにとってはもちろん,米国にとっても初となる試みであり,医療/ライフサイエンスの分野で量子コンピュータが本格的に活用される準備が整いつつあることを示しています。なお,このプロジェクトでは2023年以降にリリースされる1000量子ビットを超えるマシンの設置も予定されています。

このように,かつての論文の中の存在から,人々の目に見えるところまで降りてきた量子コンピュータですが,前述したように多くの技術的課題を抱えていることも事実です。その課題を認識しながらも,Quantum-Readyに備えながら現実的な量子コンピュータのユースケースを探っていく―企業にはそうしたアプローチがより求められてくることになりそうです。

著者プロフィール

五味明子(ごみあきこ)

IT系の出版社で編集者としてキャリアを積んだ後,2011年からフリーランスライターに。フィールドワークはオープンソースやクラウドコンピューティング,データアナリティクスなどエンタープライズITが中心。海外カンファレンス取材多め。Blog 「G3 Enterprise」やTwitter(@g3akk),Facebookで日々IT情報を発信中。

北海道札幌市出身/東京都立大学経済学部卒。

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