2024年4月24日,アメリカ議会において下院に続き上院でも「TikTok禁止法案」が通過しました。事態の今後や影響はさまざまに考えられますが,日本でもすっかりおなじみとなった大人気アプリは同時に米中対立の象徴にもなったことは間違いないでしょう。
そもそもアメリカ議会はなぜTikTokの規制を求めたのでしょうか。
前編である今回は,TikTokを生み出したバイトダンスとはいかなる企業なのかを整理しながら,イノベーションの本質に迫ります。バイトダンスの成長と苦境からは,テクノロジーとイノベーションの発展の裏で続く米中対立,延いては世界のスタートアップを取り巻く複雑な環境が伺えます。
TikTok運営会社の本質はAI企業
世界で最も価値のあるユニコーンはバイトダンス(字節跳動)(北京)です。短編動画アプリ「TikTok(ティックトック)」で知られる,中国を代表するメディア系スタートアップです。中国に特徴的な一般消費者を対象とするBtoCサービスですが,その本質は消費者の行動に関する情報を収集・分析するAI・ビッグデータ会社です。アメリカ市場にも浸透してアメリカ人の個人情報を集めているため,同国政府から国家安全保障上の脅威と見なされています。米中対立を象徴する新興テック企業の一つと言えるでしょう。
バイトダンスの評価額は2250億ドルのヘクトコーン(評価額1000億ドル以上のユニコーン)で,中国の全ユニコーンの評価額合計の3割超を占める超巨大テック企業です(2024年2月1日時点)。ヘクトコーンはアメリカのスペースXとバイトダンスの2社しかありません。中国のビッグテックはバイドゥ,アリババ,テンセントの3社で通称「BAT」と呼ばれますが,ナスダックに上場するバイドゥの時価総額は過去最高で1200億ドル(2021年2月時点)に過ぎません。今やBATのBはバイトダンスを指すと言ってもよいくらいの勢いがあります。
バイトダンスは天津市の名門,南開大学で電子工学やソフトウェア工学を学んだ張一鳴氏が2012年に創業しました。創業5年目の2017年にセコイア・キャピタル・チャイナ(現ホンシャン)などから10億ドルを調達して,評価額110億ドルのデカコーン(評価額100億ドル以上のユニコーン)となり,設立から10年も経たないうちにユニコーンの頂点に立ちました。張氏は1983年に福建省に生まれ,南開大学卒業後は旅行検索サイト「酷訊」やマイクロソフトでエンジニアとして働き,2009年には酷訊の一部門を譲り受ける形で不動産検索サイト「九九房」を立ち上げています。
バイトダンスは「今日頭条」というニュースアプリの運用で成長しました。「今日のヘッドライン(見出し)」という意味で,いろんなサイトから利用者の興味にあったニュースをAIで収集・表示するアプリです。中国語版「グーグルニュース」といったサービスです。読者の嗜好を学習し,適切なコンテンツを推奨する「AIレコメンドエンジン(推薦機能)」がバイトダンスの技術のコアです。バイトダンスは「今日頭条」の読者が閲覧した記事の分野,キーワード,閲覧時間などの膨大なデータを収集しています。閲覧記録や読者特性などから,読者が関心がありそうな記事をAIが拾ってきて表示する仕組みです。
同社はバイドゥから人材をヘッドハントし,検索エンジンも独自に開発しています。検索は利用者が欲しがる情報を能動的に捜す行為ですが,レコメンドエンジンはAIの方から積極的に利用者に提案する点が異なります。利用者は受動的な状況に置かれ,なんとなく「今日頭条」のサイトに長くとどまってしまいます。
広告媒体としては,読者の滞溜時間の長いサイトの方が価値が高くなります。「今日頭条」は情報端末の主流がパソコンからスマホにシフトするタイミングに登場し,どこでも暇つぶしに情報収集できるアプリとして時流に乗りました。
このAIリコメンド技術を活用することで,世界的なヒットとなったのが,コミカルな動きが特徴の動画アプリ「TikTok」です。短いダンス映像,動物のおもしろ動画,料理紹介など暇つぶしコンテンツが,Z世代に受けて浸透しました。長めの動画が見れる「YouTube」,短い文章の投稿サイトの「Twitter(現エックス)」,個人の近況報告ツールの「Facebook」などとは違う,新しいSNSの分野を開拓しました。
バイトダンスは短編動画アプリ「抖音短視頻」を2016年9月に中国国内で始めました。そして米国の類似アプリ「ミュージカリー」を約8億ドルで2017年11月に買収し,約1年後に抖音と統合しました。こうして米中に基盤を持つ「TikTok」が生まれました。ミュージカリーは浙江大学卒のアレックス・ジュー氏と中南大学卒のヤン・ルーユ氏という2人の中国人がロサンゼルスで立ち上げました。米調査会社アップトピアによれば,「TikTok」はコロナ禍下の2020年に8億5000万回ダウンロードされ,メタの「WhatsApp」の6億回を抑えて世界で最もダウンロードされたアプリになりました。2021年,2022年と3年連続で世界一に輝いています。アメリカでも2022年には9900万回がダウンロードされ,「Instagram」以上に人気のあるナンバーワン・アプリです。その中毒性から「バイラル(ウイルスのように拡散する)アプリ」と呼ばれています。
米中対立の矢面に
米中対立が先鋭化する中,バイトダンスが摩擦の矢面に立つことにもなりました。対米外国投資委員会(CFIUS,シフィウス)が,バイトダンスによる米ミュージカリー買収の調査を開始したことが2019年11月に明らかになったのです。CFIUSは外国企業による米国企業の買収を国家安全保障の観点から審議する,米財務省が管轄する組織です。当時のトランプ政権のポンペオ国務長官も「TikTok」がスマホから個人情報を抜き取って,中国共産党に提供している懸念があると表明。2020年7月には「TikTok」など中国系SNSの使用禁止を検討していることを明らかにしました。トランプ大統領も7月,大統領令や国際緊急経済権限法(IEEPA,アイーパ)などを使って,「TikTok」の使用禁止を検討している旨を記者団に語りました。
実は再選に向けてトランプ大統領がオクラホマ州タルサで2020年6月に開催した集会で空席が目立つという「事件」がありました。CNNなどの報道によれば,反トランプの若者がTikTokを通じて,偽の参加登録を呼びかけて実際には参加しなかったためだったようです。トランプ陣営の公式アプリに,TikTokのユーザーが大量の書き込みをしてネガティブキャンペーンも展開しました。おもしろ動画の中国系アプリが,SNSとして影響力を持ち始めたことにトランプ政権内で警戒心が高まったようです。
2020年8月にはバイトダンスとの国内取引を禁止する大統領令が実際に出され,バイトダンスは「TikTok」の所有権を見直さざるをえない事態に追い込まれました。米国事業の買い手として米マイクロソフト,米オラクル,米ウォールマートなどの名前が挙がりました。また中国政府も2020年8月,AIアルゴリズムを海外への輸出制限リストに追加し,「TikTok」の買却には中国政府の認可が必要としました。米中政府の審査が続く中,トランプ政権がバイデン政権に交代し,バイデン政権は2021年6月にトランプ氏の大統領令を撤回しました。
しかし2022年10月,米経済誌フォーブスがバイトダンスの中国本社のチームがアメリカにいる個人の位置情報を特定し,広告ターゲティング以外の目的に活用しようとしていたと報道しました。同年12月にはニューヨーク・タイムズが,バイトダンスがバズフィードや英フィナンシャルタイムズの記者の情報源を特定しようとしていたと伝え,実際にスパイ行為にアプリが利用されている実態を暴露しています。2023年3月にはTikTokのシンガポール人のCEOが米議会の公聴会に呼ばれて追及されました。バイデン政権もCFIUSを通じて,アメリカの事業を売却しなければ国内で利用禁止にすると通告した模様です。2024年3月には事業売却を強制する法案が米下院で可決されました。
TikTokの影響力を懸念する動きはインドにも広がっています。2020年6月,インド政府はバイトダンスを含む59の中国系アプリを使用禁止にしました。6月半ば,カシミール地方のラダックでインド軍と中国人民解放軍の軍事衝突があり,インド側に死傷者が出たことが背景にあります。バイトダンスにとってインドは米国以上にダウンロード数がある最大のマーケットでした。
中国はアメリカやインドの動きを批判できる立場にありません。中国は「金盾」(グレート・ファイアウォール)と呼ばれるネット検閲システムを導入しており,中国共産党を批判するような情報から国民を隔離しています。海外のメディアのサイトはもとより,グーグルの検索サービスや電子メール・サービス,メタの「Facebook」にも基本的にアクセスできません。個人情報を収集しているのはグーグルやメタも同じですが,中国はそれらの利用を規制しています。
さらに中国国内では2021年に入って習近平政権下のテック企業の締め付け・弾圧(テック・クラックダウン)が始まり,バイトダンスもその対象となっています。アリババに巨額の罰金を科した直後,規制当局は2021年4月にはバイトダンスを含むテック企業34社に競争を阻害する慣行を改めるよう警告を出しました。同年4月には中国政府がバイトダンスの株式1%を取得し,取締役のイスを確保したとも報道されています。張CEOは同年5月に辞任を突然発表し,後任には共同創業者で大学の同級生の梁汝波氏が就任しました。
ビデオ会議アプリ「ラーク」投入
BtoC企業として消費者への影響力拡大で成長してきたバイトダンスですが,米中対立に巻き込まれるなどややその勢いに陰りもでてきています。そこで同社はBtoB市場にも足場を築こうと試みています。しかもバイトダンスというブランドを隠して。
バイトダンスは2019年,ビデオ会議ソフトの提供を始めました。社内向けに2017年から開発・利用してきた協業ツール「飛書」を社外に開放したのです。「飛書」はビデオ会議とカレンダー,チャット,文書共有などの機能を統合したサービスです。2020年にはコロナ感染拡大で都市封鎖が実施される中,すぐにテレワークに対応できない中小企業や官公庁などにビジネスプランを無償で短期間開放しました。武漢のある湖北地方では3年間無料で利用できるようにしました。
海外では「ラーク」のブランドで英語版を普及させようとしています。ラークのサイトにはどこを探してもバイトダンスの名前は出てきません。バイトダンスの英語サイトでは2019年3月に日本とシンガポールで「ラーク」をリリースしたとあります。「ラーク」を海外展開する法人として,シンガポールにラーク・テクノロジーズを設立しています。「ラーク」では無料で100ギガバイトのストレージが使用でき,ビデオ会議は50人まで,最大60分利用可能です。米テレビ会議システム「Zoom」も100人まで無料で会議に参加できますが,時間は40分までと限られています。またGoogle Driveは無料で15ギガバイトのストレージしか使えません。
もっともBtoB領域は競争も激しく,バイトダンスが「今日頭条」「TikTok」の成功を「ラーク」で再現できるかどうかは不確実です。海外では「Zoom」や「Google Meet」,マイクロソフトの「Teams」などがあり,中国国内ではアリババが「ディントーク(釘釘)」,テンセントが「ワーク・ウィーチャット(企業微信)」といったサービスを展開しています。米中ビッグテックがバイトダンスの前に立ちはだかる現実とも同社は向き合わなければなりません。
AIを武器に世界の人々の心をつかみ,米中対立の最前線に立つこととなったバイトダンスですが,本社を置く北京もまたAIと政治,二つの「首都」という側面を持ちます。後編ではAIの都・北京の成長を支える存在に迫ります。