新春特別企画

2011年の電子出版

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ワークフロー

それでは,コンテンツの作り手である著者や出版社についてはどのような課題が見えてきたでしょうか。

フォーマットやプラットフォームが確立したとしても,出版社がすぐに大量の電子出版物が刊行できるようになるわけではありません。それは電子出版を行うためのワークフローが確立していないからです。これまでのように,紙の出版物を主,電子出版物のデータを従とする認識のもと,印刷用のデータを元に電子出版物を作る方法はあまり効率的ではありませんでした。それは印刷用のデータが見出しや段落などの文書構造を定義することなく制作されていたからです。出版物を様々なフォーマットやプラットフォームに対応させるためには,構造化されたデータが不可欠です。紙中心の考え方からデータ中心の考え方に移行してゆく必要があります。それに伴い,データやバージョン管理のノウハウも必要となってくるでしょう。

出版社が既に電子書籍データを保有していたとしても,問題がないわけではありません。ドットブックやXMDFの記述フォーマットや青空文庫テキスト形式など日本で主流といえる電子書籍データのほとんどは,Shift-JISという文字コードで符号化されてたものです。Shift-JISはJIS X0208の文字集合を対象としていますが,出版物に使用される文字としては十分とは言えませんでした。このような場合,表現できない文字の代わりにその文字の画像を文章の中に埋め込むといった対応がしばしば行われてきました。しかし画像では人間にとって理解できてもコンピュータにとっては理解できません。EPUBなどが使用するUnicodeではJIS X0208の上位互換であるJIS X0213を扱えるため,第三・第四水準の漢字や様々な記号を表現することができます。またIVSという仕組みを利用すれば,様々な異体字を表現することも可能になります。出版物のデータを正確な形で残してゆくために,符号化方式はShift-JISからUnicodeに移行してゆくことが必要でしょう。

器ありきかコンテンツありきか

日本ではプラットフォームやフォーマットばかり議論されて肝心のコンテンツに関する議論が置き去りにされている,という指摘を筆者は受けたことがあります。昨年はフォーマットやプラットフォームが整備されていなかったため,iPhoneやiPad向けのアプリケーションとして本を出版するケースが多く見られました。

このようなアプリケーションは汎用フォーマットに比べて,多様な環境で長い期間読むことができる,という点において劣ります。しかし汎用フォーマットでは不可能だった表現もアプリケーションとしてならば実現することができます。コンテンツの魅力を最大限に引き出す,という点において汎用フォーマットはアプリケーションに敵いません。もしも出版社が,あるコンテンツを表現するのにアプリケーションが最適と考えたのならば,その選択を筆者は支持したいと思います。最初にコンテンツありきで出発し,次にそれを表現するための器を選ぶ,という発想は,電子出版物を紙の模倣の次のステージへ導いてくれるでしょう。

著者という職業

オープンなフォーマットやオープンなプラットフォームは,出版という行為そのものの敷居を大きく引き下げました。海外ではアマゾンのDigital text PlatformやアップルのiBookStore国内ではパブーwookといったサービスが個人出版サービスを展開しています。このような個人出版サービスはしばしば出版社の「中抜き」としてセンセーショナルな取り上げられ方をすることがあります。しかし,カジュアルな形で電子出版が可能にはなりましたが,今のところ,個人がその収入のみで生活してゆくことは難しいように思えます。

一つには参入障壁が下がったことで競争が加速し,コンテンツの価格が下がってゆくことです。特に無名の著者がコンテンツを,自分自身をPRするためのツールとして限りなくゼロに近い価格で販売する現象は,Digital Text Platformではかなり早い段階から見受けられました。さらに電子出版の世界では著者は同時代のライバルの作品のみならず,過去の著者の作品とも競争しなければなりません。電子化されたコンテンツには在庫切れがないからです。

もう一つは,ほとんどの個人出版サービスがレベニューシェアモデルを採用していることです。売上によって生じた利益のおよそ7割が著者に入りますが,一冊も売れなければゼロのままです。これでは著者は生活設計を行うことができません。日本で紙の本を刊行する場合には,最低部数保障というものがあり,一定部数分の印税はあらかじめ著者に支払われます。このように,紙の本の世界で出版社が著者に対して担ってきた金融機能は,電子出版の世界では残るのでしょうか。もちろん,電子出版は紙の出版を置き換えるものではありませんが,著者として息の長いキャリアを重ねることができる契約モデルが電子出版の世界にもあって欲しいと筆者は思います。

デジタル教科書

最後に教育の分野についても少しだけ触れてみます。

昨年は2015年のデジタル教科書実現に向けた協議会の発足した年でもありました。教育は筆者の専門分野ではありませんので詳しい議論をすることはできませんが,授業内容をしっかりと設計した上で実現されるものであって欲しいと思っています。この分野はコンテンツありきで考えるべきです。ネットワークやタブレットデバイスは実現するための手段の一つに過ぎません。デジタル教科書の分野では日本は他の先進国に比べて遅れていますが,アメリカや韓国などの先行例を参考にできるというメリットもあります。是非とも優れた内容の授業を実現して貰いたいものです。

一方で,今すぐデジタル教科書を必要としている分野があります。それは印刷された教科書を読むことにハンディキャップを抱える人たちへの教育です。このような人たちへのアクセシビリティを提供するために開発されたDAISYという電子書籍の標準フォーマットがアメリカや北欧では利用されています。DAISYはテキストと音声を同期させる機能を持つほか最新のDAISY4では動画にも対応します。またDAISYはEPUBとも姉妹規格の関係にあるため,EPUB3の日本語のルビや縦書き対応はDAISYを日本語の教科書の利用に十分なものにしてくれることでしょう。筆者は特定のフォーマットを前提に授業設計を行うべきとは考えていませんが,この事実は視野に入れておいて欲しいことです。デジタル教科書を全国の学校に一斉配備するよりも,すぐにでも必要な現場から段階的に導入してゆくという方法もあるはずです。

長々と電子出版を巡る課題について書いてきました。電子出版の抱えるこれらの課題は,出版産業のみに関するものと考えるべきではありません。そうではなく,情報とコミュニケーションと自由(コンテンツを読み続ける自由,コンテンツを発表する自由)に関するものとして,より多くの人に共有して貰いたい課題です。⁠電子書籍元年」をブームとして消費するのではなく,昨年から来年へと確実に成果を繋いで行く一年であることを願って筆を置きます。

著者プロフィール

高瀬拓史(たかせひろし)

2009年EPUBの仕様書の日本語訳をウェブ上に公開。2010年日本電子出版協会EPUB研究会に参加し「EPUB日本語要求仕様案」の作成に関わる。11月よりイースト株式会社に勤務。この記事は個人の見解に基づくものであり,所属するいかなる組織とも関係ありません。ハンドルネームは「ろす」。

Twitter: @lost_and_found