WSEA(Web Site Expert Academia)

第10回Webの外側に生まれる余白を“検索”(その3)

検索エンジンがもたらしたものは…

前田:

先ほど、Googleがどんどん完全言語化してきたという話がありましたが、昔だとネットサーフィンという言葉が流行って、実際、行動としてもあったと思うんですけど、今はその行動自体がない。ネットを使う目的が、結局、検索につながってきてしまっているところがありますよね。

僕はセレンディピティという言葉がすごく好きで、これは、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力や才能を指す言葉なんですが、目的と違った結果が出たんだけど、それが自分にとってハッピーだった、みたいな。何て言うんでしょうか、たまに自分の心の視点が集まると、急に何かが見えてくることがある。そういう空間がネット上にも欲しいな、と思います。

たとえばですけど、僕は子供が生まれてから急に、街に子供がいっぱいいる、と思うようになったんです。もちろん実際は子供が増えたわけではない.自分の心の視点が変わって目に入るようになったんですよね、それも自分のところと同い年の子が。で「あれ?急に子ども、増えた?」(笑⁠⁠。

そういう、心の視点というんですかね、それをどうにかしてネットに持って来れないかと思ってます。何らかの形で実現して、そこで焦点があたったものから、つながりがバーっと見え始めるみたいな。検索窓からスタートするとか、Yahoo! のポータルディレクトリからスタートするという感じのものとは、ぜんぜんちがう。

水島:

Yahoo! からスタートする、Googleからスタートするっていうのは、ある種の身体統制なんですよ。この小さな検索窓に文字を入れるということが。すべてこのポーズから始めることが習慣化されると、新たな物を見せてくれる他の窓が失われちゃうような感じがしていて。

だからといって、ケータイがあるとか、頭で想像しただけで検索ができたら良いなとか、そんな話じゃなくてね(笑⁠⁠。もっと現実の世界に身を投げ出せたらいいな、と。

関心空間代表取締役 前田邦宏氏。
「心の視点を持ってこれたら。それは、
検索窓からスタートするのをは全然違う」
関心空間代表取締役 前田邦宏氏。<br />「心の視点を持ってこれたら。それは、検索窓からスタートするのをは全然違う」

前田:

昔、10年、20年くらい前に、マジックリンクとかエージェントとか、という概念があって、あのとき自分の分身がトコトコ世界中を旅をしているみたいな感じがあったんだけど、最近のエージェントは、ロボットがクロールかけてインデックスを作って「はい、持ってきました」みたいな感じで旅するみたいな感覚がないですよね。

水島:

ないですね。エージェントより、コンシェルジュになっちゃてるんですよ。⁠お客さま、用意いたしました」ってのはあるけど、出来合いのお仕着せっぽくって。便利だけど、プロセスが失われてる。⁠なんかつまんないなぁ」みたいな。

前田:

そういう旅みたいな…旅ってちょっと無目的じゃないですか、そういう検索エンジンとか、そういうブラウジングができる情報探索ツールがないかな、と。作ればいいんだけど(笑⁠⁠。

摩擦が転化しにくいWebの世界

前田:

僕が10年くらい前に『関心空間』のプロトタイプを作ったときに課題にしたのは、見えない関係性を見えるようにするというのは重要なんだけれど、見えてなくても良い情報まで見えてしまうのは、どうだろうか、というのがあって。

僕自身SNSを作ったときに、50人くらいの友人たちを登録し始めると、余計な情報が見えてくる。ホストをしている人間としては、自分の好きな友人だけを集めているので楽しい場だと思っていますけど、本当はこっちの人はこっちの人を誘ってほしくなかった、ということまで見えてくる。でも、そういうのは良いんですよ、実は。それを飛び越えたものがあるじゃないですか。たとえばロックだと、⁠アンジェラを取り合ったけど、音楽を通しては友達だ」とか(笑⁠⁠。

人間関係だと、そういう摩擦の中から生まれる熱とか芸術性というのはあって、本来そういうふうに転化したほうが良いのに、今のネットワークサービスの中では、そうは転化しない。昔から、メールの中でフレームが起こったとしても、そこでせめぎ合って創造が生まれるということは、ツールとしてはなかなか難しい。たぶん、これはネットサービスの次の課題であったり、可能性なのかもしれないんですけど。

理路整然としたところからは、芸術も生まれなければ、ロックみたいなものやパンクみたいなものも生まれなくて。そういうせめぎ合いというか、世間との軋轢とか、友人とのトラブルとか失恋とか、本来はネガティブな情報や体験だったりするんだけど、それがたとえば音楽の世界であれば、至上の名曲に転化するということが往々にしてある。だけど、Webって、ハッピーなことをシェアしようね、という感じで、傷つけ合って何とか…というのは、あまりないんじゃないかな。

水島:

傷つけ合うことがポジティブなものに転化するときには、おそらく傷つけ合う衝撃をうまい具合にして合理化するんですよね、僕らの頭の中で。

前田:

失恋のことを歌っているミュージシャンなんて身勝手なもんですよね、すごく美しく自分を描いて(笑⁠⁠。

水島:

そう、それってすごくわがままだし、勝手じゃないですか。その、わがままで勝手なことを、計算可能な世界は許さない部分があって、悲劇は悲劇のまま、フリーズさせちゃうわけじゃないですか。

前田:

そうなんですよね。blogとかって、可能な限り自分をさらけ出すことが、美徳になっているじゃないですか。たとえばつらいことがあったら、⁠今日つらいことがあった」と書くような人もいるし。音楽とかだったら、美しく表現できる方法があると思うんですけれど、blogで仔細に「今日は女の子に振られてどうのこうの」って書いてあっても、単に事実であって、見ているぶんにはつまらない話になるかもしれない。

全人格主義とブロガーの疲れ

水島:

この話に関連するんですけど、僕は大学に勤めるようになって丸4年経つんですが、今いちばん大きな問題は、少子化もあって大学に誰でも入れるようになって、学歴という記号が無意味化してきた。じゃあ、社会がその代わりに大学に何を求めるようになったかというと、人間力みたいなわけのわからない概念を持ち出してきてるわけですよ。

前田:

(笑)

水島:

これって、ものすごい危険だなと思ったわけです。学歴だったら、人間全体の中で、学歴で競っている部分は一部分だけだ、と思えるわけですよね。一生懸命勉強している秀才の中でも、夜は別の顔もって遊んでいるやつもいるわけですよ。そういう見えない部分を留保してくれるんですよね、学歴社会って、ある面では。

だけど、人間力だ、なんて言われると、逆に、全部さらけ出してくれないとマーケットは許さないよ、みたいな感じがしませんか? そういう強迫が危険ですよね。

前田:

そうそう、そういう全人格主義と言いますか、ブロガーの人が何で疲れてしまうかというと…もちろん疲れない人もいますよ、それはたぶん芸能人みたいな人だと思うんですよね、追いかけられても「オレ有名人だ」って思えるような。

水島:

見られているのが好きな人ですよね。

前田:

そう、見られているのが好きな人は、そのままブロガーで良いと思うんですけど、自分はもっと内面的にこういう時間を使いたいとか、まっとうな仕事もしているけどアヴァンギャルドなこともしたいとか、そういう組み合せで生活をしている人が事細かにblogに書き始めると、blogの中で人格が分裂してしまうんですよね。

最近、たとえばふだんは大手企業の真面目な社員だけれども趣味は変態チックな人とかが、レイヤするSNSというのが出てきているんですけど(笑⁠⁠、それでも限界はあると思いますよ。そんなにきれいに分かれてはいない。それを許容しない社会になって欲しくないなと思いますね。

水島:

そう、本当にそう思いますね。

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