Pick Up Entry from "The Secrets of Consulting"
翻訳エッセイ編―なぜ我々は会議を愛する/嫌うのか
コンサルタントに腰痛持ちが多いのにお気づきだろうか? ひどい飛行機の座席に座り、家でコンピュータに向かい、クライアントのオフィスで退屈な会議に出る数多の経験を経て、私は腰を悪くした。
腰痛で腰がよく曲がらないため足の爪がうまく切れない。だから爪を切りたいときにはペディキュアサロンに行く。足の爪を切ってもらっている間は、置いてある雑誌を見ている。『ブライド』とか、『モダン・ブライド』とか、『エレガント・ブライド』とか。
ブライダルマガジンというのはすごく人気があって、以前調べたら135誌もあった。扱われているトピックには、ビーチでのウェディング、パーティ、海外挙式、アクセサリ、ケーキ、セレモニー、装飾、ドレス、エチケット、おみやげ、花、贈り物、招待状、プランナ、披露宴、伝統、流行、その他いろいろなものがある。
そういった雑誌を見ていて、「いったい誰がこれを読むんだろう?」と思った。まあ、男は普通読まないだろう。男の心に訴えるものが何もないからだ。しかし女性なら話は別だ。
フィクションを書いた経験から、作品を売るのは感情なのだと学んだ。私の批評家グループPlotbustersの人たちから、私の書く話には気持ちの記述や強い感情を引き起こすような部分が少ないといつも言われる。私のほかの読者たちはそんなことは言わない。彼らの違いは何なのだろう?
Plotbustersの人たちはみな著書が複数ある作家だが、私の読者の多くがそうであるような技術系ではない。どうも私のフィクションは非技術系の人にはすっかり楽しめるものではないようだ。彼らは「感情的な部分が弱い」と言う。なぜだろう? それは私の話には、対立とか、無差別の暴力とか、死とか、ひどいセックスとか、片想いといったものが出てこないからだ。
出てくるのは、聡明な人間が問題を一歩一歩解決していくということだ。私にとっては、これは全然退屈ではないのだが、確かにすごく感情に訴えるというわけではない。こういったことにすごく興奮するというのが、おそらく私をギークたらしめているところなのだろう。
会議の話へと戻るが、どうして会議は私を退屈させ、腰を痛めることになるのだろうか。
客先で廊下を歩いていて、私はよく会議に向かう人に行き会う。その人たちも会議は退屈だと言っているのだが、会議に向かうときには興奮しているように見える。なぜだろう?
長年かけてわかったのはこういうことだ。私のクライアントのところにいる人の多くは技術系の人間、私のようなギークだ。彼らは会議が一歩一歩問題を解決していくようなものでない場合には退屈する。
一方、会議で行われているのは、感情的なドラマ、つまり、対立、非難、浮気、優位の取り合い、ランダムな爆発、怒り、そういったものだ。楽しげに会議に向かう人たちにとっては、会議のこの昼メロ的側面が仕事における最もエキサイティングな部分なのだ。
技術系の人間には、そういった昼メロに対する関心は、うまく仕切られた問題解決セッションに対する関心に比べてはるかに低い。しかし我々が「政治」と呼んで軽蔑しているこのドラマは、非技術系の人間には必須のものなのだ。実際私が会議のうまい運営方法を教えてやると、そういった人たちは彼らの楽しみを奪ったということで怒りさえする。
節約した時間で読めるようにブライダルマガジンでも持っていってやるべきなのかもしれない。あるいは男ならHot Rod Magazine誌[1]でも。
ところで、聡明な人たちが問題を解決して幸せになる話が読みたければ、私のeStoreを覗のぞいてみるとよい。