多摩よこやまの道の道を走った。
このコースは尾根上に延びているので、ルートにはお店らしいお店はない。
とはいえ、町中であることに間違いはないのだから、尾根から降りれば飲食店には事欠かない。しかし、せっかく緑の中を走っているのだから、コース上でお昼をとるべく、ワンバーナーとコッフェルを持参した。
お昼の場所はコース中程にある小さな公園の小さな芝生広場の上。
自前のお握りと、袋入りのインスタントラーメン。具はコンビニで買った豚の角煮と味付け卵。薬味に前もって刻んでビニルに入れてきたネギをぱらり。
角煮の味付けが少し甘くてくどいけど、サイクリングの途中であればかえっておいしく感じる。
まだ、冷たい風が混じる時期には温かいメニューがうれしい。食後に入れるティーパックの日本茶がまたうれしい。
秋口から春先にかけての自転車旅にワンバーナーは欠かせない。北風で冷え切った体を、温かい食べ物と飲み物は内側から元気づけてくれる。
お湯を沸かしている火を見ているだけでも和まされる。人はプロメテウスに感謝なくてはいけない。
故に、オール電化などで子育てをして、火を扱うことのできない人間をつくってしまうことは、人として退化した種をつくり出すことに等しい……などという勝手な持論は話を横道にそらすだけなのでおいておこう。
ワンバーナー、伝統的な呼び方でい言うと"ストーヴ"を使って初めて自炊したのは十代の時、周遊切符を使って徒歩(電車は使います)で北海道をぐるりと回ったときだった。
高校生だった私には無論のことながら暇はあっても金はなく、なるべく夜行列車で移動して車内で寝るか駅舎で寝るという計画を立てた。
しかし車内と駅舎に寝ることに限定してしまうと行ける範囲が狭くなる。そこでテント泊も可能にしたいと思った。
アウトドアなどという言葉も聞かなかった時代、一般家庭で野営の道具をそろえている家はなかった。
幸いなことに親戚が大学山岳部の顧問していたので、そこからキャンバス製の登山用リュックサック(分厚いキャンバス地、なにも入れなくても重い)、六人用テント(分厚いキャンバス地と鉄製ポールの三角テント、とても重い)、寝袋、そして灯油ストーヴ(四角くて赤い缶に入っている真鍮製、とても重い)を借りることができた。
このストーヴ、ずっとホエーヴスだと思っていたけど、この稿を書くにあたり調べ直してみたらどうやら国産のマナスルだったようだ。ネットにアップされていた赤い缶と、赤と青の表紙の説明書に見覚えがある。
これらをザックに詰めて車中の人になる。
どうみてもバックパッカーには見えない。実際に車中で「夏山を縦走するのですか」と勘違いされた。
周遊券では急行列車までしか乗れないから(無論、特急料金を別途支払えば特急に乗れるんだけど)、列車と青函連絡船を乗り継いで、函館にたどり着くまで20数時間かかった。寝台券も買えないから、背もたれの倒れない車中で長時間過ごすのがとてもつらく、青函連絡船で手足を伸ばして寝転んだとき、なんとも言えない幸せを感じた。
この旅の間、ほとんどの食事はストーヴのお世話になった。
このストーヴというのは、ポッチをひねるとぱっと火がつくというような便利なものではない。
本体を組み立て、如雨露を使って燃料を入れ、燃料タンク内の圧を高めて燃料を送り出すため付属ハンドルを引き出して、シュコシュコと押して引いての「ポンピング」という作業を行い、さらにプレヒート(受け皿にアルコールを入れて火をつけて、ジェネレーター/燃料噴射装置を暖めてやる)して、やっと「点火」の時を迎えることができるのだ。
口で言っても簡単じゃあないけれど、実際に点火するのはもっと簡単じゃなく、ブブブブっと生の燃料が吹き出してしまったり、煤がモウモウと出たりと、慣れるのにしばらく時間がかかった。
しかし慣れてしまえば、こんなに頼もしい相棒はいない。雨が降っていようが、風が吹いていようが、ちゃんと火がついて、短時間でお湯を沸かしてくれる。
札幌や稚内の駅前でインスタントラーメンを作っていると、ぞろぞろと降りてくる観光客が「いいニオイだねえ」「昼はラーメンだな」なぞと、こちらに話しかけるような、仲間内で話しているような口調で通り過ぎてゆく。
夏でも冷え込む誰もいない網走駅ではストーヴの火が何よりのご馳走だった。
阿寒湖では、ホテルの中庭を広場だと思いテントを張ってしまい、調理をはじめるとすぐに黒いスーツを着た男に追い出された。ストーヴのゴォーと燃える頼もしい音か、コッフェルから勢いよく立ち上る湯気を誰かに見られたのかもしれない。
この旅で 、今まで(未だに)で一番おいしいと思える野外食と出会った。
白老で食べたスープスパゲッティだ。
旅にあたって、友人たちがアメリカ製のベーコンの缶詰を餞別に送ってくれた。
重かったから早く食べてしまえばよかったのだけれど、みるからに美味そうなラベルにもったいないもったいないと先送りにしている内に、日本海、オホーツクと周り太平洋沿いに戻る旅の最終工程に入ってしまっていた。
降るような星空の下、誰もいない草っ原にテントを張り、寝床を整え、缶詰を開けた。
たっぷりのスープの中に、ごろりと赤いベーコンの塊が沈んでいる。
ストーヴでお湯を沸かし、スパゲッティーをゆでて湯を切り、そこにスープごとベーコンの塊を放り込んで、さらに暖める。
ベーコンの他には何も入れない。
そこいら中、肉の脂のニオイが広がる。
「文句も言わずに運んできたんだから、これくらいのものを食べる資格はあるさ」
独り言が星空に消えた。
このスープスパゲッティには謂われがある。
ヘミングウェイの短編集に収められた『二つの心臓の大きな川』という作品にその元になった料理が登場するのだ。
『二つの心臓の大きな川』は、若き日のヘミングウェイとおぼしきニックという背年が、単独でテント泊の釣行にでかける様子を描いた淡々とした一編だ。
手に入りやすい『ヘミングウェイ全短編1 われらの時代・男だけの世界』(高見浩=訳 新潮文庫)から抜粋してみる。
あらためて空腹を覚えた。こんなに腹をすかしたことは、いままでにないくらいだ。最初にポークと豆の缶詰、次にスパゲッティの缶詰をあけて、中身をそれぞれフライパンにあけた。「文句も言わずに運んできたんだから、これくらいのものを食べる資格はあるさ」ニックは言った。その声は暗くなりつつある森に異様な響きを残した。それきりもう、声を出さなかった。(中略)炎の揺れるグリルにフライパンを乗せた。腹がますますへってきた。豆とスパゲッティが温まってきた。そいつをスプーンでよくまぜた。泡が立ってきた。いくつもの小さな泡が、じわじわと浮かび上がってくる。いい匂いがしてきた。(中略)ニックは中身をの半分をブリキの皿にあけた。それはゆっくりと皿に広がった。まだ熱すぎることはわかっている(中略)もういいだろう。皿からスプーンいっぱいにしゃくって、口に運んだ。「やったぁ」ニックは言った。「こいつはすげえや」思わず歓声をあげた。
書き写していても唾がわいてくる。ましてやニックはここまで辿り着くのに、はるばる荒れ地を横切り、松の根を抜いて地面をならし狭い平らな場所を確保した後、ペグまで手作りする野営の支度を終え、たき火を起こした上で、このスープスパゲッティにありついているのだ。プレヒートどころではない。
豆とポークではないが、自分の中ではヘミングウェイ風のスープスパゲッティにむしゃぶりつき、油だらけの汁一滴残さず平らげ、満足しきって、テントから半身を出して星を眺めながら眠りについた。
そのまま気持ちのいい朝を迎えるはずが、夜中に懐中電灯を持った制服姿の男に起こされる。
「ここは国立公園なので、許可された場所以外での野営は禁止されています」とのこと。仕方なく、撤収を始めた姿に哀れを催したのか、心優しい警備員(警官だったかもしれない)は、早朝、人が出始める前に退去してくれればいいと1泊することを許してくれた。
これが最後の贅沢になった。
この後、白老を出て室蘭、洞爺湖を回って函館に戻る。
貧粗に過ごしたにもかかわらず、もとから底の浅い所持金は150円になり、手持ちの食料もからっぽになった。
北海道と都内の国鉄(まだJRではない)は周遊券で乗ることができる、しかし、このお金を使ってしまったら渋谷から私鉄に乗る切符を買うことができなくなる。
しかし襲いかかる空腹に勝つことができす、函館で大きなフランスパンを買ってしまった。
これを少しずつ囓りながら、20数時間かけて東京に辿り着いたときには、まさに「これほど腹が減ったことはない」状態であった。
渋谷から浜田山にある下宿まで歩けばいいや、と思っていたけど、いざ帰り着いてみると、空腹と荷物の重さに押しつぶされてとても歩くことなどできない。
残った数十円で「家にいてくれ」と祈りつつ友人に電話をかけ(無論、携帯電話もない。不在で十円玉が尽きればアウトだ)渋谷駅まで迎えにきてもらった。持つべきものは友達である。
マナスルの灯油ストーヴは、しばらく手元にあり、意味もなく料理に使ったりしていたが、山岳部の活動が本格的になる冬前に返した。
その後、野営旅行に出かけることもなくなった。
数年後、子どもが生まれ、あいかわらず金のない家族の娯楽としてキャンプは復活した。
最初のファミリーキャンプ用に買ったプリウスのガスワンバーナーは、いまだに自転車旅の相棒として活躍してくれている。
多摩よこやまの道
地図:UR都市機構・多摩市/発行 「多摩よこやまの道」パンフレット
「でっか字まっぷ・東京多摩 」旺文社
「多摩よこやまの道」は、天平勝宝7年2月 豊島群の上丁(壮丁)椋崎部荒虫の妻宇遅部里女が、防人の任に着くべく南国へと向かう夫に手向けた詠歌『赤駒を山野に放し捕りかにて 多摩の横山徒歩ゆか遣らむ』(万葉集巻第廿)の「横山」から名付けられた多摩丘陵の尾根沿いをはしる散策路です。
ちなみに歌の意味は「山野に馬を放してしまって捕まえることができない 二度とは帰れぬかもしれない夫に多摩の横山を徒歩で歩かせてしまうことになるのだろうか」といったところです。
さて、私たちは赤駒ではなく自転車でよこやまの道に向かいます。
日野市・浅川に流れる万願寺ふれあい橋をスタート。
堤の道は自転車のグループが多いです。
朝一番、落車して救急車で運ばれようとしている男性に出会いました。歩行者優先の遊歩道、ゆっくりと安全に行きましょう。
ちょっと寄り道をして七生丘陵自然歩道を走ります。左手の緑色の塀は元多摩テック。今は廃墟となった施設をのぞき見ることができました。
わざわざのぞき見に立ち寄ったのですけどね。
多摩テックの正門前を通る道に合流し、ひとつ目のピークを越えます。
切り通しの先は多摩市です。
京王堀之内で京王相模線の高架をくぐります。
くぐって少し行ったところを適当に右に入れば、必然的に蓮正寺公園に突き当たります。
蓮正寺・薬師堂は源義朝の護持僧円浄坊が開創と伝えられています。
このあたりを支配していたのは小山田氏で義朝の祖父・義家の頃から源氏とは深い関係を持っていたようです(武蔵野文化協会:発行 武蔵野第52号から)。
今回たどるのは万葉の道であり鎌倉時代以前に整備された「古道」でもあるのです。
蓮正寺公園から浄瑠璃緑地へ。
この「浄瑠璃」というのも小山田氏のお姫様、浄瑠璃姫にちなんでつけられたとのこと。
松木公園をかすめ、長池公園の入り口にひときわ大きな存在感で横たわっているのが「長池見附橋」
かつて新宿区四谷見附にかかっていた「四谷見附橋」(大正2年竣工)をこの場に移設・復元したものです。
建築物マニアならこれを見るだけの目的で訪れたいポイントです。
長池公園に入り、池の畔を公園の奥へと向かいます。
公園といっても、やたらと整備されているわけではなく、多摩丘陵の地形を生かした散策路が作られているだけです。
池のどん詰まりから左手の斜面の山道を登って反対側を下って、また登る……
と、長池公園の里山口に出ました。
目の前はローディー(ロードレーサー乗り)のメッカ。尾根幹線道路です。
尾根幹線道路を相模原方面へ走り、最初の信号「南多摩斎場入口」で左折。尾根幹をくぐります。
長池公園で池の畔を通らず園内の中央道路を行けば、この交差点にある「尾根幹線口」に出ることができます。
写真は左折して鶴見川水源の泉に向かう岐路で振り返って尾根幹を望んでいます。
そこで左折すればいいのですが、結構車が入っていくので、さらに進んで次の道を入ってみました。
小さな尾根を超えていく道は、すぐに細くなり、舗装もなくなるので車は入ってきません。
日当たりのよい斜面、右手の景色も開けているなんとも気分のいい道です。
と、思っていたら、地道は竹藪の中へと続いていました。
あまり手入れされていないらしく、倒れた竹が道をふさいでいました。
竹藪を抜けると、谷戸の耕作地に出ました。
赤土の埃を巻き上げて、本来通るべき道(正面の坂道の上で合流)へと戻ります。
舗装路に合流すれば、そこが「鶴見川水源の泉」です。
湧水量は1日1300トン……といわれてもピンときませんが、なにしろきれいなでたっぷりとした水量の泉です。
近いうちに、ここから鶴見川の河口まで走ってみたいものです。
源流の泉から鶴見川沿いを下り、最初の角(細かい農道は除く)を左折します(155線)。150mほどいって「正山寺入口」の看板に従って右折。正面に野中山・正山寺の石段が見えてきます。野中にあるから野中山なのかな?本当に野の中にあります。
可愛いビーグル犬の守る本堂にお参りして、墓地の横にある斜面の小道を上の道へと自転車を押し上げます。
野中を走る小径をいけば、先ほど別れてきた155線に合流します。つまり、お寺に興味がないのならまっすぐ行けばいいということ。自転車を押し上げる必要はないのですね。
155線の突き当たりが「多摩よこやまの道」です。
よこやまの道へは尾根幹から入ることもできます。
これまたつまり、鶴見川水源に興味がなければ、先ほどの尾根幹線道路を渡って、すぐのところにある'よこやまの道'入口から入ればいいわけです。
でも、寄り道は素敵ですよ。
多摩よこやまの道は人優先の遊歩道、自転車の通行は禁止されていませんが、車の通行は禁止です。
なのに、道幅いっぱいに軽トラックやってきました!
管理の車です。斜面の上に自転車を引きずりあげないとよけることができませんでした。油断禁物。
よこやまの道のビューポイント、通称「ガスタンク裏」。鶴牧、多摩センター方面を眺望できます。
よこやまの道は尾根線を走っていますから、あちこちに展望ポイントがあります。
眺めもよく、緑に囲まれた気分のよい尾根道、なのですが、先ほども書いたように徒歩を前提に整備されていますから、あちこちに階段があります。
押し担ぎを楽しむゆとりと歩行者優先の気持ちを持って走りましょう。
約10kmのよこやまの道が遊歩道として整備される前にこのあたりの開発は進んでいましたから、緑の中だけを走るわけにはいきません。時には住宅街の中、ゴルフ場の横、尾根幹の歩道などをつなぎながら歩を進めていきます。
変化があって楽しい、とも言えます。
「一本杉公園」で行程の3分の1。
WCもあります。
公園の先に鎌倉裏街道の石畳が再現されていました。
新撰組もここを利用して日野宿から小野路へ出稽古に通っていたそうです。
このあたりは階段、階段
また階段です。
たまには乗せる側になって自転車奉公しましょう。
「旧有山家、加藤家住宅」
多摩の民家を移築し、囲炉裏などを活用しながら展示しています。この日は餅つきをやっていました。前に来たときは焼き芋焼いていました。
ボランティアのガイドさんが居合わせたら、解説をお願いしてみましょう。普段はあがれない住居部分にも入らせてもらえるかもしれません。
恵泉女子の脇を抜けたら妙櫻寺の手前を右折します。
ここはちょっとわかりにくいかも。尾根幹に出てしまったら行き過ぎですから戻りましょう。
別にビューポイントではないのですが、古道としては重要な場所、古道が集まっているまさにまんまの「古道五差路」です。
五差路の真ん中にしばし佇み、古代へと思いをはせていたら、車にクラクションを鳴らされてしまいました。
行程もはや後半戦、前方に見えている高台はよこやまの道のメインスポット「防人見返りの峠」です。
天気に恵まれれば富士山、丹沢、秩父の山々まですかっと見渡すことができます。
防人見返りの峠から階段避けて細い地道を下ります。
右手の眺望が開け、小田急多摩線の「はるひ野駅」が見えたら……
歩きの場合の一般的なゴールでありスタート地点である丘の上広場口です。
先ほどのはるひ野駅の他、京王相模線の青葉台、京王永山が近隣の駅です。
自転車組はもう少し足を伸ばします。
天王橋の袂にあるこの場所が本当の終点であり起点です。
天王橋を渡って、尾根道を聖蹟桜ヶ丘方面に向かいます。
尾根の眺望が途切れたあたり、右手に八坂神社がありました。
ここは多摩丘陵で一番標高の高い場所。
境内からは東側の眺望が開けているので初日の出は大勢の人で賑わうとか。
狭い尾根道に駐車してしまう人が多く、毎年大渋滞になるそうなので、お出かけの際は是非、自転車で。
今回最後の眺望ポイント。
多摩川へ下る途中にある、ゆうひの丘です。ベタなネーミング通りこちらは西側の眺望が開けています。
ゆうひの丘から大栗川方面へと下り、旧川崎街道沿いにある春日神社が今回のゴール。
平安末期に建立された仏教伝来以前の神社形式の建物です。
今日も無事走れたことへの感謝と残りの行程の安全を祈願しました。
横山道は国府であった府中に通じる道として奈良時代、鎌倉時代、中世戦国時代まで活用されてきた重要な道でした。
都から、鎌倉から訪れる旅人が多摩の山と別れを告げるのが霞ヶ関と呼ばれていた聖蹟桜ヶ丘近辺の関戸です。
関戸は昔から要衝の地であり、戦国時代には関戸城が睨みをきかせていました。
そんなわけで本当はこの先にある関戸城址をゴールにするつもりだったのですが城址といっても住宅街に立て札が建っているだけなのと、そこまでまた結構な坂を上り返さなくてはいけないのであっさりと止めました。
さあ、夕暮れの多摩川沿いを辿って家路につきます。
輪行される方は京王線・聖蹟桜ヶ丘駅からどうぞ。
オブジェいろいろ
京王堀之内の埴輪車止め。
彼らのいる公園はこんもりと盛り上がっているから古墳なのかもしれません。
長池公園の長池の畔に建つ浄瑠璃姫の碑。
主である小山田太郎高家が足利群との戦で戦死したことを聞いた浄瑠璃姫が戦火に追われ薬師様を背負って入水したという伝説が残っています。
合掌。
長池見附橋の照明灯と「四谷見附橋」の名前が残るプレート。どちらも四谷にあった頃に使われていたものです。
この頃のものは意匠が凝ってますね。
悪の要塞めいた建物。
左手は多摩市総合福祉センター、正面はアクアブルー多摩。ウォータースライドが建物の外にはみ出してます。
やってみたいねえ、これは。
市営の施設なので利用料金は格安です。
旅のお供
今回の旅に新しく加わったスマフォ用のフォルダー
走行中ずっとGPS地図機能を使っていました。
能登でも使ったソーラーバッテリーとの組み合わせで6時間もってくれました。これならなんとか実用範囲です。
しかしこれを購入した後、すぐに完全防水タイプが発売されました。
そっちがいいなあ、買い換えようかなあ。