「黒字」と「キャッシュに余裕があること」は別物
米田の会社では、3カ月に1回査定が行われ、給与などの待遇が見直される。同時に、担当している仕事についての意見聴取や、今後の希望についても訊ねられる。「話し合い」と呼ばれている制度だ。「話し合い」では、社長自らが社員とひとりずつ面談する。場所は社内でなく、会社の近くの喫茶店だ。気分を変えて会話するためだという。
渋谷の片隅の小さな喫茶店、人のまばらな店内の隅に、佐久間がノートパソコンを前にして座っていた。その正面に腰掛けた米田は、直近3カ月間の自分の活動について、社長から指摘を受けた。おおむね予想していたような内容だった。社長の話は今後3カ月の課題に移り、それが終わると最後に「米田さんからの質問や要望はなにかある?」と訊ねられた。社長である佐久間は全社員が「さん付け」で呼ぶようにしていた。自分自身も社員を「さん付け」で呼び上下の分け隔てなく意見を言いやすい雰囲気を作っていた。
米田は新しいサービスの企画を会議に出し、社長に「予算の問題で実現できない」と断られたばかりだった。そのことを社長にもう一度確認してみたかった。
「この間、提案したプロジェクトをぜひ進めたいのですが、再考をお願いできませんでしょうか?」
佐久間は表情ひとつ変えずに「それは無理。だって先行投資がかかりすぎるもの」と切って捨てた。
「こういうサービスを欲しがってる人は多いはずですよ。企画書の中にも書きましたけど、アンケートを取ると『利用したい』って答える人がかなりいます」
「うちはできるだけリスクを負わない経営方針なの。収入が確実に見えるものでないと難しい」
今日の佐久間は、普段よりもリラックスして見えるが、言っていることはストレートで厳しい。「歯に衣着せぬ」という表現があるが、佐久間の言葉はまさしくそうだった。社員に対してはもちろん、取引先に対しても、ズバズバとストレートにものを言う。時に畏怖を感じるものの、嫌いではなかった。持って回った言い回しをされるのは面倒くさい。
「そんな……うちは儲かってるじゃないですか。余裕のあるうちに新しい挑戦をしたほうがいいんじゃないですか?」
米田が言うと、佐久間は軽いため息をもらした。
「黒字であることは否定しません。でも、それとキャッシュに余裕があることは別物。正直、そんなに余裕があるわけじゃない」
「黒字なのにキャッシュがないって、どういうことですか?」
「米田さん、財務諸表上の黒字とキャッシュ残は、ほとんどの場合、一致しないの」
「儲かってるのにお金がないって、おかしいと思いますが……」
「リアルにキャッシュがどれくらいあるかと、黒字であることは違います」
米田には、さきほどから佐久間が言っていることが理解できていない。黒字=儲かっている=現金もあるという単純な構図が成り立たないと言われているところまではわかるが、それは常識的に考えておかしい。
「わけがわかりません。だって儲かっているんでしょう?」
「儲かっている……言葉の定義にもよる。帳簿上は、儲かっています。キャッシュフロー上は、ギリギリです」
会計上「儲かっている」けれどお金がないケース
「なにを言ってるんです?」
米田は言葉の意味がわからなかった。佐久間は、米田の目をじっと見る。
「米田さん、あなたもそろそろ会社の数字について知ってもよい頃かもしれません。ただし、すべてを手取り足取り教える時間はありません。一度だけかんたんに教えます。あとは必要に応じて自分で学んでください」
「はい」
「『会社が儲かっている』と表現できるケースは複数あります。まず、制度会計上、黒字となっている場合……意味わかりますか?」
「いえ……財務諸表なら聞いたことがあるんですが、制度会計ってなんでしょう?」
「制度会計というのは、日本政府の決めた会計処理方法。日本で企業会計を行う場合は、この方法に準拠する必要があります。この方法で決算して黒字になった場合、『儲かっている』と表現することがあります」
「ええと、決算で黒字なら儲かってますよね。なにか問題あるんでしょうか?」
「制度会計上黒字でも、お金がまったくないケースもあります。お金がなければ、外注費用も支払えませんし、お給料を支払うこともできません。最悪の場合、倒産します、たとえ黒字でもね。黒字倒産という言葉は聞いたことあるでしょう?」
「よくわからないんですが……粉飾決算してるってことですか?」
「そうじゃないの。ウソなんかついてない。かんたんな例を挙げましょう。
A社から、Webシステムの開発を1000万円で、4月に請け負って、7月に納品したとします。先方の都合で、支払いは納品2カ月後の9月です。A社の開発のために、臨時で外注さんを2名補強し、毎月1人30万円、2人で60万円を支払っていた。開発期間は4月から7月の4カ月なので、240万円支払ったわけです。
実際にA社からお金が来るのは9月なので、4月から9月の入金まではずっとお金はマイナスの状態です。でも、制度会計上は仕事を完了した7月に売上として計上できますから、黒字です。もう少し細かく言うと、納品まで月割りで売上を立てることもできます。余裕資金が240万円以上なければ、外注さんへの支払いをできずに、開発はストップしてしまいます。納品して請求書を送った7月から9月まで制度会計上は黒字の状態なのに、なにもできない。むしろマイナスという状態」
企業にとって大事なのは「黒字かどうか」よりも「現金の流れが正常かどうか」
「要するに、名目上の数字と実際の現金の動きが違うってことですか?」
「そうです」
「でも、それなら現金だけ別に管理するようにしておけばいいんじゃないですか? いつかはちゃんと黒字の数字とお金は一致しますよね。お言葉を返すようですが、あまり本質的な問題ではないと思えるんです」
米田の言葉に、佐久間は再びため息をついた。
「あなたは若い。企業にとって本質的なのは黒字かどうかよりも、現金の流れが正常かどうかのほうなの」
「えっ? 利益をあげることは重要じゃないですか?」
「赤字でも給料は払えるし、会社は倒産しない。でも、現金がなかったら、給料は払えないし、会社は倒産する。どちらのほうが重要か、はっきりしてるでしょ?」
「……それにしても……」
「いいから、最後までお聞きなさい。現金が手元にあるという意味での、『儲かった』という定義は、管理会計あるいは資金会計でないとわかりにくい。制度会計が政府の決めた会計処理方法だとすると、管理会計は企業が自分の業態にあった形で管理しやすいように作る会計方式。資金会計は現金=資金の流れに注目した会計方法。この2つの方法のどちらをとれば、より実態に近い会社の状態を把握できる」
「なるほど……少しわかってきたような気がします」
「米田さんは飲み込みが早いほうだから、きっとすぐに全部理解できるようになると思う。あたしの意見だけど、日本のほとんどの経営者は自分の会社の状態を把握していない。極論すると、儲かっているのかそうでないのか、わかっていない。経営者がそうだから、現場の営業や開発はもっとわかっていない。だから、原価を下回るような見積もりを平気で作る。『正しい原価管理』って、ほんとすごく大変なことなの、特にコンテンツ商売ではね」
原価がわからずに商売をする? にわかには信じがたかったが、経験豊富な佐久間が言うのだから、まちがいないのだろう。
「そんな……ほんとうですか?」
考えてみれば、ニュースサイトの広告を販売している営業マンは正しい原価を知らなさそうだ。
「ほんとうのこと。日本の上場企業の役員でも、まともに財務諸表を読みこなせる人は、そんなに多くない。あきれたことに、それが現実」
「まさか……そんな」
「あたしは、自分の経験でものを言ってる。まちがっているかもしれないけど、あたしの知っている上場企業の役員たちの多くは少なくともそうだった」
佐久間は自信たっぷりだ。米田は黙らざるを得なかった。
「あたしが予算を割けないと言った理由がわかったでしょ」
「社長の考えていることはわかりました」
「含みのある言い方ね」
「やはり、僕は先行投資は必要だと思いますし、そのための資金を確保した上で予算は組むべきだと思います」
「正面からそういうこと言える若さがうらやましい」
佐久間はそう言うと、微笑んで見せた。さきほどのまでの凛とした顔つきがほころんで、童女のように無防備なやさしい顔に変わる。ずるいな、と米田は思う。こんな顔をされたら、思わずこちらのガードもゆるんでしまう。
「はぐらかさないでください」
「あたしの結論は変わりません。だから、あなたの答えを聞いてもはぐらかすか、もう一度きっぱり断るかしかできないの」
「ブレないですね」
「経営方針がブレたら、困るのは社員だからね。あたしは社員思いの経営者なの」
「投資」と「事業」の違いとは
「だったら、なぜ資本金をもっと集めないんですか? 資金があれば先行投資もできるし、キャッシュフローにも悩まなくていいじゃないですか」
米田が言うと、佐久間はきょとんとした顔をした。こんな顔の社長は見たことはない。
「アメリカ型金融資本主義的発想ね。大量の投資マネーを集めれば、いくらでも投資できる。どれか当たれば大成功ってわけ。そんなものに毒されちゃダメ」
ややあって佐久間は、苦笑いした。
「それのどこがいけないんですか?」
「あたしは事業をしてる。楽しいからやってる。投資やギャンブルをしてるわけじゃない」
米田には、すぐには違いがわからなかった。投資も事業も同じ『ビジネス』ではないかと思ったのだ。
「わかってないって顔してる」
「すみません。違いがよくわからないんです。事業をやるにしても、なんらかの投資は必要になりますよね。新しい商品の開発もあるし、社員教育も人材への投資と言えますし……なにが違うんでしょう」
「投資型で経営するってことは、投資ポートフォリオを元に事業計画を考えるってことなの」
「ポートフォリオ?」
「たとえば、これからのインターネットの市場を予想して、成長する可能性のあるジャンルを選んで、成功確率を織り込んだうえで投資するってこと」
「それだけ聞くと、普通のことのように思えるんですが……」
「おかしいと思わない? だって、自社の強みや、社長のやりたいことは関係ないの? 『強みがなければ、優秀な人材を雇うなり、実績のある企業を買収すればいい』って発想。そんなのおもしろくもなんともない。株の売買やってるようなもんでしょ。事業じゃない。少なくとも、あたしにとってはね」
「少しわかったような気がします。要するに、すべての基本がお金ってことなんですね。お金をどう配分して、回収するかというビジネス。事業をやるわけじゃないってことですね」
「まあ、そういうことかな。それに投資って言えば聞こえはいいけど、一定の確率での失敗を織り込んで、金をばらまくってことでしょ。そんなことしていたら、1つ1つの事業に十分な目配りできない。あたしはこのコンテンツビジネスが好きだから、微に入り細に入り事業を見ていきたい。広く浅くお金をまくようなことがしたいわけじゃない。わかるかな?」
「おっしゃることはわかります。でも、それって程度問題ではないんですか?」
「また、そういう玉虫色の言葉を使うんだから。程度問題ってのは、なんにでも当てはまる魔法の言葉でしょ。そんな否定も肯定もしない、結論を先延ばしにするようなことは言わないほうがいいよ」
米田は黙った。納得したわけではない。投資型経営も好きにはなれないし、どちらかといえば佐久間のように目配りして事業を進めていきたい。だが、新サービスへの先行投資に躊躇するほど資金の余裕がないのも考え物だと思う。「投資と事業のバランスをどこでとるか」という問題なのだと思うが、佐久間と議論するほどの知識も経験もない。
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