こういう時にはうってつけだ。
米田はキャッシュフローと先行投資の話を、鳴瀬にしてみた。会社の状態を経理担当である鳴瀬からも訊いてみたかったのだ。最初はとまどっていたものの、もともと人なつっこい性格の鳴瀬は、米田の話に応じて会社のことを教えてくれた。
「数字だけで言えば、社長のおっしゃってることは合ってます。ただ、入金が確定しているものも少なくないわけで、そこまで手堅くしないでもいいとは思います。僕は米田さんの意見に賛成です」
鳴瀬は、ひとりでうなずきながら茶をすすった。
「経営者って、社長のように手堅い人が多いんですか?」
「いえ、みんなもっとお金使いますね。借金して投資するのも普通でしょ」
「そうなんだ。じゃあ、社長はかなり固いんですね」
「無借金経営を通して、さらに手堅く締めてます。まあ、安心して見ていられるんですけどね。それに僕なみに会社の数字を把握してるんで、意思疎通も楽です」
「なるほどねえ」
米田が運ばれてきた蕎麦をたぐり出した時、
「まあ、会社の数字を社長がこまごま把握してるってのは、善し悪しですけどね」
鳴瀬がふっともらした。
「え? それってどういうこと?」
「あ、いや、なんでもないです。聞き流してください」
鳴瀬は、あわててそう言うと、蕎麦を頬張った。
自分でやればいい
米田は投資と事業について考え続けた。アメリカ企業のような投資先行型は好ましくないような気がするが、かといって、佐久間のように頑なに投資を拒むのもまた違うような気がした。卓抜した先見性を持つ佐久間が、ずっと中堅に甘んじている理由はそこにあるような気がした。佐久間に少しだけ先行投資の度量があれば、すごいことができる。米田はそう感じた。
だが、同時に佐久間は今のスタイルを変えることはないだろうとも思う。歯がゆさを感じた時、「ならば、自分でやればいいんじゃないのか?」という思いが浮かんで来た。すぐに否定したものの、独立して自分の会社を興すことの魅力から、米田はその考えにとらわれてしまった。自分の会社なら、自分が思ったように事業も投資もできる。自分に佐久間ほどの能力があるとは思えないが、やるなら失敗してもやり直しのきく今のうちに、という気がしてきた。もともと佐久間の会社に入社したのも、ノウハウを学び、人脈を広げ、いつか独立したいと思っていたからだ。もしかすると、そろそろ具体的に行動に移すべき時なのかもしれない。
思い立つと、いても立ってもいられなくなってきた。「今が起業の時なのかもしれない」という思いが強くなる。今の仕事をしながら起業準備を進めるのは難しい。退職してゼロから会社を作ろう。
「話し合い」の日から1カ月も経たないうちに、米田の心は起業に大きく傾いていた。ある日、米田は社長室の扉を叩いた。
「辞めちゃうんだ」
退職願いを手渡すと、佐久間はあっけらかんとつぶやいた。普段からあまり感情を見せない佐久間だが、それにしても驚くほどの無反応だった。まるで予想していたかのようだ。
「はい。外の世界で自分の力を試してみたくなりまして……」
そう言うと、佐久間は机に頬杖をつき、上目使いで米田を見た。
「こういうのって、正直言うと、すごく困るのよね」
「え?」
「米田さんには、目をかけていろいろ教えてあげたのに、その成果が売上につながる前に辞めちゃうわけでしょ。見えない教育コストって、地味に経営を圧迫するんだから」
「申し訳ありません」
「もしかして、自分で会社を作ろうとか思ってない? だったらそう言ってよ」
すっと佐久間の目が細くなった。隠せないと、米田は観念する。
「……なぜわかるんですか?」
「いや、君は正直だから、他社に移るなら、ちゃんとそう言う。仕事の当てもなく辞めるほど無茶でもないし、急いで辞める必要があるわけでもなさそう。となると、残る可能性は1つ。自分でなにか始める……だよね?」
「社長には隠せませんね。そうです。黙っていてすみません。でも、本当のところ、なにをいつから始めるか決めていないんです」
「若いっていいわね。あたしには、そんなことできない」
「恐縮です」
「褒め言葉じゃない。勘違いしないでね」
そう言うと、佐久間は立ち上がり、右手を差し出した。米田は一瞬なんのことかわからずに、佐久間の右手を見た。細い指がきれいに並んだ華奢な手だった。長年にわたりコンテンツサービス企業を率いてきた、名物経営者の手とは思えない。
「この会社を出たら、君とあたしは起業家として同等ってこと。あらためてよろしくね。いつでも相談に来ていいよ」
佐久間の言葉で米田は、ようやく意図を理解した。自分も右手を差し出し、固く握手した。その時、これでもう後には引けなくなったな、という思いが頭をよぎった。ふと不安が頭をもたげてくる。これからは、すべての責任を1人で背負わなければならないのだ。
「最強のグラフ」とは
「最後にあたしからの餞別をあげる。これをご覧なさい」
佐久間はそう言うと、机の端に置いてあった数ページのレジュメを手に取り、米田に差し出した。
「市場の分析レポート?」
それは、5つほどのグラフとその解説からなるレポートだった。よくまとまっているようだが、なぜこれを佐久間が「餞別」と呼ぶのかわからない。
「それはドラフト、たたき台だけどね。わからない? ほかの人のレポートと明らかに違う点があるでしょ」
米田は見直したが、よくわからない。どこといって変哲のないレポートにしか見えない。じっくり内容を読み込まないといけないのか? いや、佐久間の口調だと、ひと目見てわかるような”なにか”がありそうだ。
その時、米田は気がついた。
「グラフですね」
「そう。そのレポートは、たった1種類の『最強のグラフ』しか使っていない。そのグラフを使いこなせれば、基本的なデータの読み込みがすごく楽になる」
「最強のグラフ? これが?」
「そう。でも、ほとんどの人は、それが最強だって知らないの。自分以外でそのグラフが最強だと知っている人には初めて会った」
「鈴木さんが?」
米田はレポート作成者の鈴木の顔を思い起こした。就活の一環で米田をOB訪問した鈴木は、メデューサデザインが気に入ったらしく、インターンとして働いていた。女の子のようなきれいな顔をしていた、小柄の男の子ということくらいしか覚えていない。
「彼から直接説明を聞いてらっしゃい」
佐久間に言われて、キツネにつままれたような気分になりながら、米田は鈴木のいる部署に向かった。
佐久間から『最強のグラフ』と言われた時は、おおげさだなと感じたが、鈴木の説明を聞くうちにおおげさではないことがわかった。
「グラフって、ひと目でわからないと意味がありませんよね」
白い細面を赤らめながら、鈴木は話し出した。
米田は目からウロコが落ちる気分だった。これまで教わってきた、信じてきた、それそれのグラフの用途や利点に関する説明があっという間に霧散した。鈴木の言うとおりだ。折れ線グラフさえあれば、ほかのグラフは不要だ。
「指導教授の受け売りなんですけどね」
鈴木は照れくさそうに、少女のようなあどけない笑みを浮かべた。
「これは……びっくりだ。なんで今まで棒グラフや帯グラフをありがたがっていたんだろう?」
「洗脳みたいなものですよね。子供の頃から、そう信じ込まされてきたせいですよ」
「でも、折れ線だけに絞ればものすごく手間が省けるし、読み取りも楽になる。ありがとう」
「お役たててうれしいです。あのですね。一般に信じられていることが、そうじゃないってことはたくさんあるので、いつでも訊いてください」
鈴木は顔を真っ赤にして、うつむいた。
もしかして、ずいぶんと価値のある餞別をもらったのかもしれない、と米田は思った。
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