事業基盤を固めるなら、企業向けサービスを最初に
2ヵ月間の調査と熟慮の末、米田は事業計画をまとめた。あとは実行するだけとなった時、最後に佐久間に連絡した。「いつでも相談に来ていいよ」と言ってくれた好意に甘えて、自分の事業についてアドバイスをもらおうと思ったのだ。長年この業界で事業を続けてきた佐久間の知見には、傾聴すべきものがあるだろう。
米田と佐久間は、米田の事務所の近くのイタリア料理屋で会うことになった。米田が先に店に入って待っていると、瀟洒な黒いスーツに身を包んだ佐久間が現れた。社内で仕事をしているときとは異なるオーラに包まれている。米田は初めて佐久間を女性として認識し、緊張した。
2人はとりとめなく、業界のこと、仕事のことを話した。食事が終わる頃になって、米田はやっとこれから始めようとしている事業についての説明を始めた。
「有料コンテンツサービスを始めようと思ってます」
食事の最後に運ばれてきたコーヒーを飲みながら、米田はできるだけさりげなく口にした。
「それって、うちの事業とかぶるじゃない。競合の誕生ってわけ? うちのノウハウを最大限に活かしてがんばってちょうだい」
佐久間は余裕の笑顔を浮かべた。
「皮肉は止めてください。ジャンルも違うし、競合になんかなりませんよ」
「ジャンルはなに?」
「秘密です」
「それじゃ、判断のしようがない。競合の可能性は否定できない。ああ、でもあれでしょ。広報情報サービス」
図星だった。辞めるきっかけがそれだったのだから、わかりやすいことこのうえない。
「いや、まあ、そうなんですけど……意地悪なことを言わないでください。ここはおごりますから、ちょっと話を聞いてもらえませんか?」
「いいわよ。そのつもりできたんだから、コンサル料金はまけといてあげましょう」
「ありがとうございます。B2Bの有料コンテンツ事業としてやるつもりです。広報のジャンルに特化した深い情報を世界中から取り寄せて提供します」
「ますますもって、うちの商売に近いんじゃない? ビジネスモデルとして、ってことだけど」
「おっしゃるとおりです。事業基盤を固めることを考えると、コンシューマよりも企業向けを優先して開始したほうがいいことは、社長から学びました。継続しやすいし、複数ライセンスの一括購入も期待できるし、メリットが多いんです。コンシュマー向けも当たれば大きいんですけど、その代わりに最初にある程度持ち出しで態勢を作り上げておかないとサービスを開始できません」
コンシューマ向けと法人向けの4つの違い
「わかってるじゃない。それだけじゃなくて、コンシューマ向けと法人向けで明確に違うことがいくつかある。覚えておくといいわ。
「知らなかったではすまない情報」が重要
その業界、あるいはその仕事に携わっているなら外せないコンテンツが重要。ほとんどのコンシューマ向けコンテンツは、知らなくてもたいしたことにはならない。でも法人向けでは、競合の動き、市場動向、法規制動向など「知っていて当たり前、知らなかったではすまない」コンテンツが重要。
月にひとつ役に立つものがあれば買う
コンシューマは、掲載されている内容すべてに一定のクオリティを求める。でも法人向けでは、ほとんどがゴミでも、中にほかでは入手できない貴重かつ重要なコンテンツがいくつかあることが大事。ひとつだけ飛び抜けたものがあればいい。
高いものほど、低品質でも許される
これは、ほんとに不思議。たとえば、数千円のパソコンソフトのパッケージはきれいに印刷されていて、マニュアルもきちんと製本されていることが多い。けれど、数千万円するようなソフトのマニュアルは、バインダーでところどころ手書きだったり、日本語がおかしかったりして、とても品質が低かったりする。マーケティング情報でも、10万円を超える市場調査レポートの数値があてにならないことは有名でしょう。でも、1,000円ちょっとで販売されている本の数値にまちがいがあると、けっこう問題視される。
「買い手の顔の見える情報」が大事
法人向けの場合、買い手の顔が直接目に浮かぶようでないとダメ。だれに、いくらで売るかが具体的にイメージできないコンテンツは失敗する。
……まあ、こんなところかなあ」
米田は佐久間の話を必死でメモした。今までなんとなく感じていたが、はっきり言葉で耳にするのは初めてだ。
「あ、ありがとうございます。でも、いいんですか? 僕にこんなことまで教えてしまって……これって社長のノウハウですよね」
「ノウハウなんて大げさなもんじゃないの。だれでもわかってること。君だって、なんとなくわかってたでしょ」
たしかにそうなのだが、知識や経験はまとまった形で整理されると威力がさらに増す。米田は自分のメモを見返してそう思った。
「でも、わかっていることと、できることは違う。往々にして、わかっていてもできないことのほうが多いの。言葉を換えると、みんなが知ってるあたりまえのことをひととおりできたら、ずば抜けて優秀な人材ね。リアルの世界では、時間を守ることすらろくにできない会社員が山のようにいるんだから」
「言われて見ると、たしかにそうですね。ほんとにありがとうございます」
純粋な広告モデルは、ネットではかなり厳しい
「新会社設立のお祝いとでも思っていてちょうだい。代わりに、教えてほしいことがあるの」
そう言うと、佐久間は米田の瞳をのぞき込んだ。濡れた目で見つめられて、米田は妙に胸が高鳴った。
「広告モデルは考えなかったの?」
多くのサービスは、広告によって収益を上げる広告モデルを採用しているように見える。だが、米田は気づいていた。広告モデルは、とっくの昔に破綻しているということに。
「おおげさですけど、『広告』という概念はもう通用しなくなっているんじゃないかと思ったんです。広告そのものは今でもたくさんありますけど、どんどん成果報酬型に変わってきています。あれは、言ってみれば、お手軽な販売代行です。販売代行で実績が出てきたら、自社の流通を作って、さらに販売を拡大する。FacebookでもLINEでも、まず広告、その次は自社プラットフォーム上でのアプリ流通で収益を稼いでいます。純粋な広告モデルは、ネットではかなり厳しいと思っています」
「なるほどね。利口だと思うけど、なぜほかのサービスみたいに最初に顧客の組織化をしないの?」
「投資型の経営をしたくないんです。FacebookやLINEなどほとんどの大手サービスは、最初に莫大な投資を行って顧客を集めて組織化し、そこから広告や流通に結びつけています。このやり方には、先行投資が必要です。収益モデルが確立する前から投資をして、とにかくたくさん利用者を集めなければならない。当然、資本金もたくさん必要になってきますし、事業の成功確率は低めになるでしょう。投資に頼らない、確実に利益の出る仕事をしてみたいんです」
米田は、社長のような、と言いそうになって止めた。目指しているのは、自前で利益を上げ、そこから先行投資をしていけるスタイルだ。佐久間とは違う。
「おもしろいなあ。君の意見は、今の日本のネットベンチャーのほとんどを否定してるよね」
「否定はしていません。それにネットベンチャーだけじゃないと思います。市場成長期に事業を始めて『運良く』生き残っただけの経営者はたくさんいると思います。以前、社長も言ってたじゃないですか、上場企業でも財務諸表を読める経営者は少ないって」
佐久間はしばらく黙って米田の顔を見つめ、ワインをひとくち飲むとかすかに微笑んだ。
「朱に交われば赤くなる、って感じで少し怖い」
「どういう意味ですか?」
「なんでもない。聞き流して。それより、あたしのことは、佐久間さんって呼んでね。もう社長じゃないでしょ」
佐久間はそう言うと、妖艶な笑みを浮かべた。
佐久間と別れて家に戻った米田は、ベッドに横になり、ぼんやりと天井を見上げた。会ってよかったと思った。貴重なアドバイスをもらえただけでなく、自分のやろうとしていることがまちがっていないと言ってもらえた。だがその一方で、結局自分がやろうとしているのは佐久間の真似にすぎないのではないかという思いもある。もちろん、事業の内容などこまごまな違いはあるので、まるきり真似というわけでもない。だが、どうしても似ている気がしてしまう。
しばらくその理由を考えて、はたと気がついた。佐久間の考え方に感化されていたのだ。メデューサデザインに在社して仕事している間、知らないうちに「佐久間イズム」とでもいうものが身についていた。大きな先行投資をよしとしない手堅い利益優先のスタイルもそうだし、理詰めで先に計画を立てておくのもそうだ。事業というよりは「経営の考え方」をまねていることに気づいた。
メデューサデザインを辞めていった先輩たちの半分くらいは自分で事業を始めていることを思い出す。佐久間イズムの影響かもしれない、と米田は苦笑した。佐久間の考え方は好きだし、正しいと思うのだが、その一方でそれで社員が次々に辞めて起業してしまったら、自分の会社は成長できない。もしかすると、メデューサデザインが万年中堅に甘んじているのは、そのせいかもしれない。その佐久間の真似をしている自分も同じ轍にはまる可能性がある。
米田はベッド脇に置いてある事業計画を手に取ってながめた。
── 人を雇わなければならない。
次の課題は人材だった。1人で事業を立ち上げるのは無理だ。日常的なオペレーションをまかせられる社員かアルバイトがほしい。次の課題は優秀な人材をできるだけ早く、安く確保することだ。
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