毎月、だれかに報告するから数字が頭に入る
土屋は毎月1回米田の事務所を訪れて、月次決算を報告させていた。まだ始まったばかりの会社だ。さして報告することがあるわけでもない。だんだんと米田は、その必要性に疑問を覚えるようになった。ほとんど売上が出ていないうしろめたさもある。
「なんか言いたそうだな。言ってみろ」
応接室で月次決算を聞き終わった土屋が、米田に促した。どうやら面倒くさそうにしていたのがわかったらしい。
「毎月、月次報告をしてますけど、ほんとにこれって必要なんでしょうか?」
「経営者として、会社の状態を常に把握しておくのは重要なことだ。オレだって知りたい。両者の利害は一致してる」
「受注と入金、出金の状況を把握していれば、なんとなくわかります。試算表と管理チャートまで作るのは正直ひと苦労なんですけど」
「キャッシュフローの大切さはわかってるはずだと思ったんだがな」
「わかってますよ。だから入金と出金、それにキャッシュ残のことは常に頭にあります」
「ほお、じゃあ。すぐに動かせるキャッシュはいくらある?」
「約320万円」
「売掛金と買掛金は?」
売掛金は請求書は発行したものの未回収の売上、逆に買掛金は請求書を受け取ったもののまだ支払っていない費用だ。
「売掛はええと、30万円と150万円だから合計180万円。買掛は260万円です」
「固定的な間接費用は、毎月平均でどれくらいかかってる?」
間接費用は、直接売上に寄与しない事務所の賃貸料、電気光熱費、保険、原価に割り振りにくい人件費などの費用全般を指す。そのうち、賃貸料など毎月固定で発生するものは、常に意識しておかねばならない費用だ。
「46万円です」
「まあ、いいだろ。今報告してもらったばかりだしな。わかって当たり前だ。でも、それがすらすら出てくるのは、毎月報告しているからだと思う。毎月数字を見ていなかったら、実態と頭の中が乖離してくる」
「そういうものですか?」
「あのな。門外漢のオレが言うのもなんだが、コンテンツを売る商売は原価やコストが見えにくくなりがちだ。いくらでもコストをかけようと思えばかけられるし、減らそうと思えば減らせる。ただ働き同然で原稿を書くライターもいるんだろ? だからこそ、数字を把握しておくことが大事なんだよ。自分のやってるビジネスが最も効率よくコンテンツを生み出せるバランスをつかまなきゃいけないだろ?」
「たしかに、そうですね」
「オレは中身のことはわからない。だから、数字や一般論しか言えない。その範囲で問題が見つかるってことは、恥ずかしいことだと思え」
「はあ」
頭では理解できたが、やっぱり面倒だと米田は再度思った。
どうすれば購読者を増やせるか
広報業務に関連した記事を載せたメールマガジンを、有料メールマガジン配信代行サービスを使って販売することから、事業はスタートした。同時に、Webに記事の一部を掲載し、法人向けの一括販売およびスポンサーを募る。法人向けに何十人分もの購読権を半年単位で販売するのは効率がいい。
サービスの開始前に、広報活動に力を入れている企業を10社ほど取材し、その場でもうすぐ始まる自社サービスを紹介した。2社に1社くらいは購読してくれる。B2Bサービスでは取材=営業ということは、メデューサデザインで佐久間に同行した経験から知っていた。佐久間はほぼ100%に近い確率で訪問先を顧客にしていた。米田にはそこまでのカリスマ性はないが、それでも十分な効果はあった。さらに広報活動に力を入れている会社が購読しているということ自体が、いいPRになる。サービスの信頼性も上がる。
もう1つ、創刊前に力を入れたのは、調査結果の発表だ。自社で独自のネットアンケートを実施したり、海外提携機関の行った調査結果をプレスリリースで流した。米田のサービスの認知度を高め、購読者を増やす効果があった。
このやり方で、法人顧客は着実に増えていった。創刊1カ月前からほぼ毎週、なんらかの調査結果を発表し、新しいサービスの認知を広めた。
その甲斐あって、サービス開始月には個人購読約2,000部、法人購読20口(1口平均20ライセンス)でスタートできた。「個人購読」という名称で設定しているが、内実は会社の予算を使えない担当者の購読がメインだ。購読料は月800円だから、手数料などを差し引いても、これだけで毎月100万円以上が入ってくることになる。
購読料の設定は悩ましい課題だが、メデューサデザインで設定していた「年間購読料1万円未満」というラインを踏襲することにした。法人向けライセンスは表向き年間購読ライセンスが20万円弱だが、実際には10万円を下回る割引を営業時点の判断で行うようにしていた。これもまた、メデューサデザインの真似だ。「稟議のとおりやすさをねらったものだろう」と米田は理解していた。
さらに複数の海外メディアと契約を結び、Webでそれらの記事の要約を読めるようにした。こうなると、PRに関する「月額固定読み放題サービス」「オンライン図書館」のようなものだ。
ポイントは「手離れのよい営業」
広告も入れることにした。最初はアフィリエイトを半自動で入れていたが、よくクリックされ、売上につながる業種が商品がわかってくると、その企業に直接スポンサードを頼みに行った。広告をいちいち受注するのではなく、毎月固定額をもらい、それに見合う露出、クリック、売上を提供するサービスだ。もちろん、毎月必ず売上達成できるわけではないが、大きく外れることもない。こちらのスポンサードも、半年単位で販売した。
手離れのよい営業。それが米田の重視したポイントだった。クライアントの満足度も重要だが、手離れが悪いとクライアント対応に時間をとられてしまって、結果として成果を出しにくくなる。
メデューサデザイン時代のツテで、3社が試してみようと言ってくれた。1社あたり20万円のスポンサー料金なので、60万円の収入だ。
合計で平均して200万円前後が毎月入ってくるようになった。法人契約は契約時に購読料を申し受けるようにしていたため、キャッシュフローに少し余裕ができてきた。
成長することで湧き出る悩み
業務量が増加し、経理、総務、コンテンツ3つを担当するのは厳しいと鳴瀬が音を上げたので、コンテンツ専用の社員を2名採用した。1LDKの部屋はかなり手狭になった。購読者は増加しているし、スポンサーも増えている。月商が500万円を超えたら引っ越そう、と米田は考えた。取引先と売上が増えることはうれしくもあるが、不安をかきたてもする。売上が増えることは、同時に支出も増えることを意味するからだ。入金が遅延した時のダメージも大きくなる。
米田には気がかりなことがもう1つあった。社員には、昇級や昇進といった目に見える目標があり達成感もある。経営者である自分は、自分で目標を決め、達成しても褒めてくれる者はいない。別に褒めてほしいわけではないが、「手応えのようなものがもっとほしい」という気持ちになる。やったならやっただけのなにかが欲しくなるのだ。売上や利益といった数字はもちろんだが、それ以外のなにかも。
佐久間は、なにを励みにして仕事をしているのだろう? 辞めた会社の社長を今さら思い出すのもおかしな話だが、中学生の頃から影響を受けて来た人物だ。実際にいっしょに仕事をしてみて、生身の経営者としての凄みを体感した。思ったほどではなかった点も多々あるが、それを上回る実力がある。自分が起業してみると、さらにそのすごさがわかってきた。
佐久間のことを思い出すと、会って話をしてみたいという気持ちが強くなった。事業計画を作っている時に会った夜の妖艶な笑みが忘れがたく思い出された。あれからすでに半年経つ。
社長のつらさはだれにも言えない、理解してもらえない
米田は六本木ヒルズに近いピラミッド型のビルにあるイタリア料理店を予約した。決して有名店ではないが、安定した味を出す老舗だ。待ち合わせは20時だが、米田は10分以上前について、そわそわしていた。
佐久間は白の深紅の赤いミニドレスに身を包んで現れた。黒と茶を基調にした店の内装に、燃え立つように映える。佐久間は、この店を知っていたに違いないと米田は思った。それにしても、こんな服を着た佐久間は見たことがない。どこかで着替えてから着ているのだろうか?
「久しぶり。辞めた会社の社長に会いたいなんて、戻りたくなったのかな?」
ウェイターに引かれた椅子に腰を下ろしながら、佐久間は笑った。
「違いますよ。むしろ経営が楽しくなってきたところです」
「楽しい? 社長業が?」
佐久間は、私が頼んでもいい? と言いながらワインを注文した。どうやら常連らしく、店員も親しげに話をしている。
「ええ……あれ? 佐久間さんは楽しくないんですか?」
「あたしは楽しいけど、苦しいって人も多いし、雇われて仕事している時は腕利きだった人が自分で会社を始めたとたんにダメになることも少なくない」
さっそく運ばれてきた前菜に手を伸ばしながら、佐久間は答えた。
「なにがいけないんですか?」
「いろんなことがプレッシャーになるからかな。資金繰りのこと、社員のこと、保険のこと……考えなきゃいけないことは次々に出てきてなくなることがない。社員だったら目標とかノルマとかがあって、それを達成すればいいんだけど、社長はそうじゃない。いろんなことを全部同時進行でやり抜かなきゃいけないのがつらくなるんでしょう。しかも、だれにも言えない、理解してもらえないことも少なくないしね。それに褒めてくれる人がいない。社員は持ち上げてくれるかもしれないけど、社長としてやってることを理解して褒めてくれるわけじゃない。だから、どうしてもそのまま受け取れない」
「そうですね」
まさに今の自分だと思った。心を読まれたような気がして、思わず手を止め佐久間の顔をじっと見つめる。
「まあ、そのへんはどんな社長でも感じることだと思うけどね。人によって解消方法はいろいろだけど、恋人やパートナーに愚痴ったりする人が多いかなあ。いない人は友達とかね」
米田には恋人はいない。学生時代につきあっていた恋人とは、就職してまもなく別れてしまった。向こうから一方的に別れたいと言い出してきたので原因はよくわからなかったが、どうしても、と言われて渋々承諾した。それがトラウマになったわけでもないが、以来だれともつきあっていない。
「米田さんはだれともつきあってないみたいね。シリアスな恋人がいたら起業するのを反対しそう」
「そうなんですか? まあ、いないですけど」
「ほんとにそうなんだ。奇遇ね、あたしもいない。珍しく空き家」
佐久間はさらりとそう言い、少し間をおいた。佐久間は魅力的な女性だし、気になっていることもたしかだが、なんといっても憧れの人で恐れ多い。米田が、なんと答えたものか迷っていると、佐久間が言葉を続けた。
「あたしと君は、今は同じ社長なんだから、愚痴をこぼしたい時や相談したい時は気軽に声をかけてもらってかまわない。その代わり、いつかあたしも君に相談する」
佐久間はスプーンで米田の胸元を指した。行儀のよい仕草ではないが、米田はくらっとした。
「そんな恐れ多い。なんといっても、社長は僕の憧れの人ですから」
思わず、口走っていた。
「言ったじゃない。もう社長じゃないって。それに憧れの人なんて言わないで……そんなたいしたもんじゃないの。ただ業界で長く息してるだけ」
「は、はい」
佐久間には敵わない。米田は、ワインを一気に飲み干した。会うまでのもやもやした気分は霧散していた。