『電網恢々疎にして漏らさず網界辞典』準備室!

第1話 パントマイムの王子様

2013年1月15日夕刻、大手ネット企業サイバーシンジツの一室で、秘密の会議が行われていた。

画像

斜めから陽の差し込む会議室には、社長室長の宮内亮一が渋い顔をして腰掛けている。その向かいには和田安里香が無表情でちょこんと座っている。膝をそろえて背筋を伸ばしたさまは、⁠ちょこん⁠という形容にぴったりだ。セルフレームの眼鏡に、夕陽が反射している。

だが、少し不自然だ。ふたりは向かい合っているとはいえ、20人以上入る会議室にロの字に置かれたテーブルの端と端なのでかなり距離がある。

  • 「なんで、そんな離れたところに座ってるんだ?」

宮内は立ち上がると、窓の外に顔を向け、眼を細めて渋谷の街並を見下ろした。和田は、ぼんやりした目で、宮内の筋肉質のシルエットをながめた。38歳、身長172センチ、体重76キロ。妻子、愛人あり。社内随一の切れ者。常に金勘定を怠らない。社長の成田の暴走を止められる数少ない人物だ。

  • 「男性とふたりきりですので、女子のたしなみとして距離をおきました」

ぴったりくっつけた膝頭の上に両手を置いたまま、和田は答えた。チェックのスカートに赤いフリースのシャツ。会社務めにしてはラフだが、ごく普通の服装だ。それなのに、スカートから伸びるむっちりした太腿が妙になまめかしい色気をかもしだしている。ぽっちゃりした童顔に眼鏡。そして天然の性格というアンバランスさも手伝って、独特の雰囲気がある。社内の裏掲示板に「アッキー(和田安里香のこと)ファンクラブ」ができるのも道理である。

  • 「それは冗談か?」

宮内は和田安里香をにらんだ。あきらかにいらだっている。短く刈った頭髪がぴりぴりと揺れる。この人はバリカンで頭を刈っているに違いないと和田は思った。

  • 「ノーコメントです」

和田は宮内のいらだちに気づかない風を装い、幼女のような無垢な目で宮内の顔を見た。宮内は思わず目をそらす。ぽっちゃり眼鏡女子の視線を正面から受け止められる人間は希有だ。強面で知られる宮内ですら、和田の無垢な視線の前に何度も苦杯をなめている。

  • 「まあいい。大声出すのも疲れるから近くに行くぞ。ただでさえ、お前と話すと疲れるんだ」

  • 「恐縮です」

和田はしおらしく頭を下げる。

  • 「⁠⁠電網恢々疎にして漏らさず網界辞典』準備室ができたので、そこの室長代理になってもらう。室長はオレだ。オレはやってるヒマないから、室長代理に仕切ってもらうことになる」

宮内は和田の隣の席に腰掛けた。和田は、距離を測るかのように横目でちらりと宮内の顔を見る。

  • 「誰が室長代理になるんですか?」

  • 「お前に決まってるだろ」

宮内は人差し指を和田に向かって突き出した。和田は一瞬、より目になった。

  • 「室長代理というと栄転ですか? 左遷ですか? というか、網界準備室って社長の夢プロジェクトですよね?」

突然の命令に和田は困惑した。もっとも和田の場合、困惑した表情とふだんの表情の区別はつきにくい。自由に感情を顔に出せる技を身につけないと損をしているような気がした和田は、両手を頬に当てて表情を変えるべく引っ張ってみたが宮内が奇妙な目で見ているのに気づいてすぐに止めた。

  • 「どちらでもない。横滑りってヤツだ。網界準備室は、社長がネット業界に自分がいた証(あかし)を残すために立ち上げたプロジェクトだ。予算は無制限と社長は言ってるが、そんなことは私が許さない。網界準備室の予算は人件費をのぞいて500万円だ」

  • 「それっぽっちじゃ、なにもできませんよ」

和田は即答した。

  • 「それでいい。中野ブロードウェイと秋葉原に行って適当にサブカルっぽいことを仕入れてくれば、社長はごまかせるだろ。ネット企業の連中は、サブカルっぽいのに弱いからな」

  • 「中野ブロードウェイ? サブカル? そもそも今どきサブカルなんて言葉を使う時は、うしろにカッコ笑いをつけないとダメです。それはそれとして……つまり、宮内専務はこのプロジェクトに否定的というわけですね」

  • 「歴史に残るネットの辞典なんか作れるわけないだろ。お前行って、好きなことして、お茶を濁してこい。各部署から選りすぐりのやっかいものを集めといた。適当にお守りして、社長をごまかせる辞典を作れ」

  • 「ああ、はい。社長の無謀な野望を阻止し、我が社の崩壊を止める重要な任務ですね。身が引き締まる思いです」

宮内が顔を近づけてきたので、和田はのけぞりながら目を見開いて答えた。和田は困ったと思った。そもそもこの話は自分にとって良い話なのか、悪い話なのかすらわからない。

  • 「お前、なんで目を丸くしてるんだ?」

  • 「こんな時、どんな顔すればいいかわからないので」

  • 「オレが⁠笑えばいいと思うよ⁠と言うと思ったのか!? これが関連資料だ。30分で支度して網界準備室に席を移動しろ」

宮内はDVD数枚を和田の前に置いた。和田は、不思議な生き物でも見るような目で、きらきらと輝く円盤を見つめた。

  • 「私に選択肢はないということですね」

和田はDVDを手にして、宮内の顔を見た。

  • 「断ってもかまわない。ただし、今後オレの頼みを断った人物として扱う。意味はわかるな?」

宮内は凄みを利かせた声で答え、和田をにらんだ。

  • 「わかりません……ですが、万障呑み込んでお引き受けいたします」

和田は即答した。わかりませんと言われた宮内は、ぽかんと口を開けた。和田は、すっと立ち上がるとDVDを大事そうに胸元に抱えた。平社員でありながら、上場企業のナンバー2の男にためらいなく「わかりません」と言えるのが和田の強みだ。

  • 「では、さっそく取りかかります」

実際のところなにもわかってはいないが、とにかくすぐに網界準備室に行かねばらないことだけははっきりしている。和田は、まだぽかんとしている宮内に一礼すると会議室を出た。出てから、礼をしない方がよかったかもしれないと思った。礼をしなければ、専務も無茶な命令をしたと気に病むかもしれない。多少の意趣返しになる。だが、後の祭りだ。

“後の祭り⁠ってどんな祭りだろう? ヘンリー4世がかつぐ御輿の後に続くひょっとこの一群が脳内に繁殖しはじめて止まらなくなった。しかもBGMは『脳漿炸裂ガール』だ。

和田は自席に戻ると、頭に浮かんだ⁠後の祭り⁠を iPad miniにスケッチした。

画像

気がつくと、いつの間にか現れた古里舞夢(ふるさとまいむ)が綱引きのパントマイムをしていた。熱烈なアッキーファンのひとりだ。

古里舞夢、36歳、独身。パジャマのような服をまとって、少し太めの身体を揺らして行うパントマイムには独特の世界観があった。舞夢は社内で言葉を発したことがほとんどない。彼女も友達もいない(ように見える)舞夢の脳内でなにが起きているのか、それはあまりにシュールでアヴァンギャルドだと和田は思った。

部署も違うし、職種も違う。システムエンジニアの彼が、なぜ和田のそばにやってきてパントマイムをするのか誰にもわからない。怖いので誰も止めることも理由を尋ねることもできない。どうやら好意の表現らしいのだが、さすがの和田も見て見ぬ振りをしている。

舞夢はきっちり10分間パントマイムを行うと、無言で立ち去ろうとした。その背中に和田が声をかけた。

  • 「あの……あたし、網界辞典準備室に異動になったんで、次にパントマイムする時はそっちに来てください」

すると舞夢は満面に笑みをたたえて振り返ると、激しく首を上下に動かした。

  • 「和田ちゃん、異動になるんだ」

舞夢の姿が視界から消えると、隣の席の男子社員が和田に声をかけた。

  • 「宮内専務から直々に言われたから」

和田は荷物を整理しながら答えた。

  • 「古里さん、和田ちゃんのこと好きみたいだね。大丈夫? 怖くない?」

近くの女子社員が心配そうに和田に尋ねた。

  • 「怖いだなんて……古里さんは異世界のお友達ですよ」

和田は、眼鏡のつるを指ではさむんで位置を直すと笑ってみせた。誰も笑わなかった。

(つづく)
和田安里香(わだありか)
網界辞典準備室長代行 ネット系不思議ちゃん
年齢26歳、身長162センチ。グラマー眼鏡美人。
社長室。頭はきれるし、カンもいいが、どこかが天然。宮内から好き勝手にやっていいと言われたので、自分の趣味のプロジェクトを開始した。
宮内亮一(みやうちりょういち)
サイバーシンジツ専務取締役社長室長兼網界辞典準備室長 おもしろみのない実務家 年齢38歳、身長172センチ、体重76キロ。社内随一の切れ者。常に金勘定を怠らない。成田の暴走を止められる数少ない人物。筋肉質。いつもトレーニングを怠らない。

おすすめ記事

記事・ニュース一覧