『電網恢々疎にして漏らさず網界辞典』準備室!

第7話 フェニックス作戦

網界辞典づくりに向けたメンバーたちからのプレゼン。篠田は独特の世界観を繰り広げながら語り始めました。

  • 「1970年3月31日、日本赤軍派は、フェニックス作戦を敢行しました。世に言う日航機よど号乗っ取り事件です。⁠われわれは明日、羽田を発(た)たんとしている。われわれは如何なる闘争の前にも、これほどまでに自信と勇気と確信が内から湧き上がってきた事を知らない。……最後に確認しよう。われわれは明日のジョーである⁠⁠」

篠田の言葉は止まらない。和田は、普段は物静かで無口な中年男性の正体を知っていささか驚いた。単なる陰謀論者ではなかった。

  • 「篠田さんのお年だと、大学生になったときには学生運動ブームは終わっていましたよね」

室員全員があっけにとられているのを尻目に、和田は興味津々といった眼差しで篠田に話しかけた。

  • 「当時自分は小学生でした。しかし世界の戦場では同じ年齢の少年兵が立派に戦っています。事件の翌日の4月1日にアニメ『あしたのジョー』の放送が始まったのを昨日のことのように覚えています。ちなみに、ハイジャック犯の声明文にある⁠明日のジョー⁠は正しくは⁠あしたのジョー⁠です」

篠田と和田の目が合った。完全に目が据わっている。和田は意識して、自分の目に力を込めた。同時に身体が匂い立つ。ふたりは無言で見つめ合った。和田の横にいた歪莉は、意味不明なことの成り行きにパニックをおこしかけていた。黒目がブラウン運動を始め、まぶたが痙攣する。

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篠田はしばし和田の視線を受け止めていたが、ややあって目をそらした。

  • 「篠田さんは、戦争や革命をしたかったんですか?」

和田は子供のようにストレートな質問を投げた。

  • 「違います。私は⁠平坦主義者⁠です」

篠田は、その質問を待っていたかのように、にやりと笑顔を浮かべた。先進国において、政府が突如自由や人権を規制することはない。監視や規制をゆっくりと強化し、幼い頃から教育によって洗脳を施す。気がついた時には、社畜になって体制に全てを捧げるか、無職で自殺するかしか選択肢がなくなっている。このように、はっきりした変化のないまま、じわじわと日常を殺していく世界に対して宣戦布告し、体制を破壊するのが平坦主義だ。古い言葉で言うと危険思想に当たる。

  • 「ティモシー・メイやデビッド・チャウムの予言した世界が実現しているのです。サイバー空間は平坦な戦場です。この意味がわかりますか? 戦わない人間は死にます。いや生ける屍です。1日中ネットにしがみついてそのうち自殺するか、社畜になって過労死するんです」

  • 「なるほど、興味深いお話です。では、篠田さんに次の発表をお願いしたいと思います」

和田は華麗にスルーした。篠田は、まだまだ話したりなさそうな顔をしていたが、ぐっとこらえて、わかりましたと返事した。和田は、こっそりとスマホでメモをとる。⁠篠田宰は平坦主義の革命家⁠⁠。本気度によっては、宮内に報告することになるかもしれないと思った。本気のヤクザと革命家は、見つけ次第、しかるべきところに連絡して対処が必要だ。

翌日、和田が出勤すると、すでに歪莉は席についていた。和田の姿を見ると立ち上がって、おはようございますと挨拶する。和田はわざとぞんざいに、おはようと返す。和田の中では、歪莉は常につらい顔をしている女に決まっていた。やさしい顔をしてはいけない。

歪莉の今日の服装はパステルカラーのワンピースだ。春を感じさせるさわやかな色使い。3時間以上かかったであろうナチュラルメイクは、たおやかな歪莉の面立ちを清楚な美人に見せている。淡いピンクの唇も宝石のようだ。濡れ烏のような長い黒髪は仄かに染めて、強すぎる印象を消している。これで本でも読んでいたら、うっかり文学系美少女と勘違いする男が後を絶たないだろう。目の輝きも病的ではあるが、いつもほど危険ではない。

傍らを通り過ぎたとき、かすかにランコムミラクの香りがした。

昨日、退社するとき、歪莉と水野が一緒だったことを和田は思い出した。落ち込んだイケメン水野を、自己憐憫で磨いた言葉で歪莉が慰める。いびつな自我のコンビネーション。そこから芽生えるフェイクな恋愛スペクタクル。己の妄想に気を取られた和田は、⁠文学少女インセイン』の歌詞を口走りそうになった。

歪莉が念入りに装ってきたのは、水野の影響だろうと和田は推察した。歪莉ほど不幸の似合う女はいないのに、愛の予感に満ちて幸福そうに見える。本性を暴いてやる! 理不尽な敵愾心が和田の胸の奥で爆発する。同時になぜ自分はこんなに歪莉にこだわるのだろうと不思議に思った。和田は特定の人間に強い感情を持つことはめったにない。和田は、冷静を装って席に着いた。歪莉も座る。

  • 「倉橋さんは、いつも早いですね」

和田がそう言うと、歪莉はびくりと身体を震わせた。整った顔に不安の影が落ちる。殴りたい、と和田は思った。歪莉の不安な顔は、見る者の嗜虐心を刺激する。自制せよ、と和田は自分に言い聞かせる。

  • 「……遅刻が怖いんです」

  • 「別に遅刻しても、たいして問題になりませんよ」

  • 「あたし、子どもの頃からいろんなこと、どうでもいいことを心配してました。いやなんですけど、止められないんです。おかしいですよね」

和田の目が揺れる。おかしくないですよ、と言ってくださいと目で懇願している。

  • 「確かに、おかしいですね。知人の入院している病院をご紹介しましょうか?」

和田が、あっさり肯定したので歪莉は泣きそうな顔になった。うつむいて黙り込む。その柔らかい頬を先のとがった鉛筆で突いて泣かしたいという衝動が和田の中にたぎる。だが、自制し代わりの一撃を見舞った。

  • 「篠田さんの次の発表は、倉橋さんにお願いします」

  • 「ひい」

歪莉が腰を浮かし、甲高い悲鳴を上げた。

  • 「なにを驚いているんです。全員、順番に発表するんです。水野さんは最初だったので甘くしましたが、倉橋さんは厳しくチェックします」

  • 「昨日のあれが甘いんですか……あ、あたし、和田さんになにか悪いことをしましたか?」

歪莉は震える声で、和田に尋ねた。和田は⁠生きてるだけで迷惑です⁠と言いそうになった。このタイミングでそれを口にすれば間違いなく⁠かいしんのいちげき⁠になる。

今週登場したキーワード 気になったらネットで調べて報告しよう!

  • フェニックス作戦
  • 『あしたのジョー』
  • 平坦主義
  • 平坦な戦場
  • ティモシー・メイ
  • デビッド・チャウム
  • 『文学少女インセイン』
和田安里香(わだありか)
網界辞典準備室長代行 ネット系不思議ちゃん
年齢26歳、身長162センチ、体重46キロ。グラマー眼鏡美人。
社長室。頭はきれるし、カンもいいが、どこかが天然。宮内から好き勝手にやっていいと言われたので、自分の趣味のプロジェクトを開始した。
倉橋歪莉(くらはしわいり)
法則担当
広報室。表向き人当たりがよく愛されるキャラクターだが、人から嫌われることを極端に恐れており、誰かが自分の悪口を言っていないか常に気にしている。だが、フラストレーションがたまりすぎると、爆発暴走し呪いの言葉をかくつらねた文書を社内掲示板やブログにアップする。最近では『裸の王様成田くん繁盛記』というでっちあげの告発文書を顔見知りの雑誌記者に送りつける問題を起こした。
口癖は「私もそう思ってたところなんです⁠⁠。
水野ヒロ(みずのひろ)
網界辞典準備室 寓話担当
年齢28歳、身長178センチ、体重65キロ。イケメン。
受託開発部のシステムエンジニアだった。子供の頃からあたりさわりのない、優等生人生を送ってきた。だが、最近自分の人生に疑問を持つようになり、奇妙な言動が目立つようになってきた。優等生的な回答を話した後に「そんなことは誰でも思いつきますけどね」などと口走るようになり、打ち合わせに出席できなくなった。
内山計算(うちやまけいさん)
網界辞典準備室 処理系担当
年齢32歳、身長167センチ、体重73キロ。大福のように白いもち肌が特徴。
ブログ事業部の異端児で、なにかというと新しい言語を開発しようとするので扱いに困っていたのを宮内が連れてきた。
コンピュータ言語オタク。趣味は新しい言語のインタプリタ開発。
篠田宰(しのだつかさ)
実例担当
年齢44歳、身長165センチ、体重48キロ。薄い毛髪が悲哀を感じさせる。
社長室。影が非常に薄く、やる気もない。幽霊のよう人物。ただし脅威の記憶力を持っている。温泉とコーヒーに異常な執着がある。

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