『電網恢々疎にして漏らさず網界辞典』準備室!

第34話 『恋の罪』マルウェア産業革命を夢見る堕姫縷は、クレブス氏の『スパムネイション』片手にギークハウスに思いをはせ、余市のカスクとマイスリーとエリミンをカクテルし、スカボロフェアを聴く。

なにかに似ていると思っていたが、この街はおもちゃ箱に似ているんだ。たいていのおもちゃ箱が夜になると絢爛な悪夢を撒き散らすように、街もまた行き交う人々に艶然と忍び込むのだ。中途覚醒した堕姫縷は、自分の部屋を見回した。高円寺に引っ越してきてから、眠れなくなった。東京には人を狂わせる魔物がいる。遠くからかすかにノイズのような騒音の響く深夜三時。笑い声が混じっていると思うのは、被害妄想かもしれない。

高円寺の無力無善寺というライブハウスあるいは食堂たぶちの近くにあるゲストハウスに、堕姫縷は住んでいる。マヌケゲストハウス(素人の乱)という知る人ぞ知る、ヤバイ場所だ。泊まればもれなく公安にマークされる。もちろん堕姫縷は確信犯だ。思想犯に対する日本の国家権力の対応を見てやろうじゃないかというマイノリティの意気込みでもある。

まったく意味のない意地だとわかっているが、益のない意地を捨てたら人間に生きる価値はないと本気で信じている。

東京に来た当初は物珍しさもあって、ギークハウス新宿に住んでみた。下は高校生、上は年齢不詳のおっさんまで雑多な人々がいておもしろかった。もくもく部屋(黙々と作業するための部屋)でパーティをやった時には、アフロヘアの鍋奉行がやたらと辛い鍋をみんなに振る舞っていた。妙に可愛い女の子がひとり混じっていて、顔に似合わない毒舌を吐いていたのが印象に残った。よく言えば技術者集団、ありていに言えばオタクの巣窟で日本版ビッグバンセオリーのリビングという様相を呈していて気に入った。

日本の技術者はよくも悪くもうぶだな、と堕姫縷は思った。これだけの腕を持っていたら、いくらでも稼げるだろう。なんで陳腐な渋谷の会社に務めているのだろう? いっそアンダーグラウンドに潜れば収入は十倍以上になるだろう、と思うこともしばしばだった。

ギークハウス新宿の居心地は悪くなかったので、そのまま住んでいてもよかったのだが、新宿駅からの遠さに閉口して高円寺に引っ越した。絵に描いたようなサブカルタウンは気恥ずかしくも刺激に満ちていた。特に夜の喧噪がいい。寂しげなネオンの光が窓に映り、怠惰な声が道にこぼれ、けだるく夜が降りてくる。

Kindleを手に取り、読みさしの『スパムネイション』を開く。サイバーセキュリティジャーナリスト、ブライアン・クレブス氏が、インターネットアンダーグランド産業の勃興を描いた渾身のドキュメントだ。常日頃不思議に思っているさまざまなスパムに関する謎への回答がそのまま、広大なアンダーグラウンドへの入り口になっている。⁠誰がスパムを配信しているのか?」⁠彼らはどうやって利益を得ているのか? それはいったいどれくらい儲かるのか?」⁠誰がスパムを信じて商品を買っているのか?」⁠購入者は不安に思わないのか?」世界中の電子メールの70%以上がスパムと言われる現実は、一般人の想定しない世界から生まれていた。

アンダーグラウンドマーケットは最初児童ポルノから始まったが、ほどなくして医療スパムへ変わった。主な客はアメリカ人。皆保険制度ではないアメリカには、保険に加入できず医療費を払えない莫大な数の人々がいる。糖尿病などの慢性疾患を持つ人々は、アンダーグラウンドの安価な医薬品に手を出す。予想に反して、アンダーグラウンドの業者は対応はていねい、返金にも迅速に応じる。一定の確率で粗悪品があるが、ほとんどの客は粗悪品には当たらない。そしてしばらく前のロシアには腕ききのIT技術者が高額報酬を得られるのはアンダーグラウンドしかなかった。彼らはスパム配信システム、クレジット決済システム、マルウエア、botネットを構築し、現在に至るネット裏社会の基礎を作った。

  • 「クレブスいいわあ」

堕姫縷は、そうつぶやくと余市から取り寄せた20年もののカスクを呑み干した。香りが口いっぱいに広がり、喉が焼ける。ニッカのウイスキーはいい。職人の味がする。でも、⁠マッサン』は途中で見るのを止めた。主人公があまりにも身勝手な夢想家で、吐き気がしたのだ。子供っぽい人間は嫌いではないが、身勝手に他人を振り回すのは許せない。⁠女優と結婚するのが夢です」とほざいたり、転職した社員に罵詈雑言を浴びせたりするくらいのバカな夢想家は悪くない。ウルトラマンになりたがっていた昔の子供と同じくらい貴重な存在だ。もちろん、ブライアン・クレブス氏にはおよぶべくもないが。

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  • 「サイモンとガーファンクルが、いまスカボロフェアを作ったら、ハーブでなくて向精神薬の名前を歌詞にしたかもしれないのよね」

それからおもむろに、錠剤を口に放り込む。マイスリーとエリミンが堕姫縷のお気に入りだ。時折、これにデパスをミックスする。ついでに大麻も吸う。堕姫縷の住んでいたバンクーバーでは大麻は違法だが、⁠大麻を吸って捕まったヤツはいない」というくらいに寛容だ。なにしろダウンタウンから二、三時間車を走らせてアメリカに入れば、大麻が解禁されているのだから、真面目に取り締まってもアメリカに行って吸えばいいだけの話なのだ。

回り始めた向精神薬に心をゆだね、堕姫縷はしなやかな肢体をベッドに埋めた。夜は若く、彼女もまた若かった。

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和田安里香(わだありか)
網界辞典準備室長代行 ネット系不思議ちゃん
年齢26歳、身長162センチ、体重46キロ。グラマー眼鏡美人。
社長室。頭はきれるし、カンもいいが、どこかが天然。宮内から好き勝手にやっていいと言われたので、自分の趣味のプロジェクトを開始した。
倉橋歪莉(くらはしわいり)
法則担当
広報室。表向き人当たりがよく愛されるキャラクターだが、人から嫌われることを極端に恐れており、誰かが自分の悪口を言っていないか常に気にしている。だが、フラストレーションがたまりすぎると、爆発暴走し呪いの言葉をかくつらねた文書を社内掲示板やブログにアップする。最近では『裸の王様成田くん繁盛記』というでっちあげの告発文書を顔見知りの雑誌記者に送りつける問題を起こした。
口癖は「私もそう思ってたところなんです⁠⁠。
水野ヒロ(みずのひろ)
網界辞典準備室 寓話担当
年齢28歳、身長178センチ、体重65キロ。イケメン。
受託開発部のシステムエンジニアだった。子供の頃からあたりさわりのない、優等生人生を送ってきた。だが、最近自分の人生に疑問を持つようになり、奇妙な言動が目立つようになってきた。優等生的な回答を話した後に「そんなことは誰でも思いつきますけどね」などと口走るようになり、打ち合わせに出席できなくなった。
内山計算(うちやまけいさん)
網界辞典準備室 処理系担当
年齢32歳、身長167センチ、体重73キロ。大福のように白いもち肌が特徴。
ブログ事業部の異端児で、なにかというと新しい言語を開発しようとするので扱いに困っていたのを宮内が連れてきた。
コンピュータ言語オタク。趣味は新しい言語のインタプリタ開発。
篠田宰(しのだつかさ)
実例担当
年齢44歳、身長165センチ、体重48キロ。薄い毛髪が悲哀を感じさせる。
社長室。影が非常に薄く、やる気もない。幽霊のよう人物。ただし脅威の記憶力を持っている。温泉とコーヒーに異常な執着がある。
古里舞夢(ふるさとまいむ)
年齢36歳。身長165センチ、体重80キロ。
受託開発部のエンジニア。極端な無口で人見知り。
和田のファン。何かというと和田に近づき、パントマイムを始める。どうやら彼なりの好意の表現らしいが、和田を含め周囲の全員がどんな反応をすべきかわからなくなる。
綴喜堕姫縷(つづきだきる)
容姿は女性、性別は男性。身長172センチ、体重52キロ。
年齢不詳。カナダ、UBC大学卒業。文化人類学専攻。英語とロシア語が堪能。宮内専務の秘書。その前は、バンクーバー支店長の秘書をしていた。
妖艶な美女。独特の雰囲気で見る者を魅了する。サブカル、特に昔のマンガにくわしい。バンクーバー支店で採用したため、本社には詳細な人事情報がない。

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