平成最後の夏は豪雨に酷暑、台風、さらには北海道での大地震、と自然災害のオンパレードでした。このような自然の暴威を目(ま)の当たりにすると、人間は無力でちっぽけな存在にすぎないことを実感します。
日本人が古来から自然災害によって学んできたこの感覚を、想像力を使って怪奇小説の形で描こうとした作家がいます。それが今回とりあげようと思っているラヴクラフトと彼が産みだした「クトゥルフ神話」です。
「クトゥルフ神話」を知っていますか?
本稿の読者の皆さんは「クトゥルフ神話 」をご存知でしょうか? 「 クトゥルフ神話」は、20世紀初頭に活躍した米国の怪奇小説家H.P.ラヴクラフト (Howard Philips Lovecraft:1890~1937)が創作した小説を基に、彼の友人や弟子たちが、世界観や設定、アイテム類などを流用して作りあげた一連の小説群の総称で、人類が誕生する以前の地球の歴史から、宇宙の彼方での神々の戦いまでを扱う壮大な内容になっています。
怪奇小説家ラヴクラフトは、「 我々人類が認識できる世界は真の世界のごく一部にすぎず、その背後には人知の及ばない超越的な恐怖が存在する」と考え、その枠組みに従ってさまざまな怪奇小説を創作しました。
それらの小説では、「 ネクロノミコン 」や「ナコト写本 」といった架空の魔導書を手掛りに、かつて地球を支配していたものの、現在は海中に没した都市で眠りについている「クトゥルフ 」と呼ばれる邪神やそのクトゥルフを目覚めさせようと暗躍する「ダゴン 」や「ヒュドラ 」 、時空を超越し、過去・現在・未来の全てをその内に含むとされる「ヨグ・ソトース 」 、創造主で万物の王ながら盲目で白痴の「アザトース 」 、千匹の仔を孕む黒き豊穣の女神「シュブ・ニグラス 」 、それら神々の使者とされる無藐の神「ナイアーラトテップ 」といったさまざまな超越的な存在が語られていきます。
さらには、それら魔導書が収められた図書館を持つ「ミスカトニック大学 」や大学の建つマサチューセッツ州「アーカム 」 、アーカムの近くにありダゴンの眷属である「深きものども」が跋扈する港町「インスマウス 」といった物語の舞台が、伝統と陰鬱を合わせ持った米国東海岸の都市として、具体的で緻密な描写で描かれていきます。
ラヴクラフトは、現在では「クトゥルフ神話」の生みの親として広く知られているものの、生前は病弱な気質もあって、生地であるロードアイランド州プロヴィデンスに引き篭り、『 ウィアード・テイルズ』のような、安価で紙質も悪く、内容も低俗と見なされていた「パルプ・マガジン」と呼ばれる雑誌類に時折寄稿しつつ、同好の士の小説を添削して糊口を凌ぐ貧乏文士に過ぎませんでした。
その一方、彼はかなりの手紙魔で、添削している小説の作者のみならず、自分の作品に関心を寄せた若い作家たちと頻繁に手紙をやりとりし、その中で自らが創作した世界を肉付けしていくと共に、それらの作家たちに自身が創作した魔導書や邪神、旧支配者といった設定を使うことを許可しました。
その結果、クラーク・アシュトン・スミス(C.A.スミス)やオーガスト・ダーレス(A.ダーレス)といった若手作家が、ラヴクラフトが産み出した設定を踏まえつつ、新たな設定を盛り込んで、「 クトゥルフ神話」の世界を広げていくことになります。
「クトゥルフ神話」の著作例
「クトゥルフ神話」の発展
「クトゥルフ神話」の面白いところは、原作者であるラヴクラフトが若くして没した後も、彼の設定を利用した作品が世代を超えて生まれ続けていることです。
前述したC.A.スミスやA.ダーレスはラヴクラフトと直接手紙でやりとりし、ラヴクラフトの生前に合作等の形で「クトゥルフ神話」の設定に基づく作品を発表していました。
ラヴクラフトの没後、A.ダーレスはラヴクラフトの小説に登場する架空の街「アーカム」の名を冠した「アーカムハウス(Arkham House) 」という出版社を興し、ラヴクラフトの未発表作品を積極的に紹介すると共に、「 クトゥルフ神話」に登場する神々を、かって地球を支配していた「旧支配者 」 、地球外の存在である「外なる神 」 、それらを倒して現在の秩序をもたらした「旧神 」の3種に区別し、さらにそれらの神々を西洋魔術で伝統的な「地水火風」の四大元素に割り振って整理し、現在の「クトゥルフ神話」の枠組みを確定しました。また、その設定を用いたさまざまな作者による小説を紹介して、「 クトゥルフ神話」が世間に広く認識される礎を築きました。
A.ダーレスのこのような取り組みは、ラヴクラフトが考えていた「人知の及ばない超越的な恐怖」をありきたりの枠組みに矮小化するものだ、という批判もあるものの、一般には無名の作家だったラヴクラフトの諸作品を世に出すと共に、その影響を受けたさまざまな小説を紹介することで、「 クトゥルフ神話」という文学ジャンルを位置付けたと言えるでしょう。
一方、著作権的な観点で「クトゥルフ神話」を眺めると、「 ある作家が創作した設定を、別の作家が勝手に流用していいのか?」という点が気になります。「 クトゥルフ」や「ヨグ・ソトース」といった神格はラヴクラフトの創作物であり、果して作者の許可なしに第三者が利用していいものでしょうか?
ラヴクラフト自身は同好の士との文通を好み、彼らとの手紙のやりとりの中でアイデアを膨らませていったことも多く、友人や弟子筋の作家が自身の設定を流用して新しい小説を執筆することを歓迎していたようです。
たとえば、ラヴクラフトを自作の小説中に登場させてもいいか、と尋ねてきたロバート・ブロックに「描き、殺し、軽視し、分断し、美化し、変身させるほか、どうあつかってもよい」旨の回答を、自身と彼の作中人物であるアブドール・アルハザードやフォン・ユンツトの署名付きで返信しています。
許可を受けたブロックは、『 星からの訪問者 』という小説の中で、ラヴクラフトをモデルにした人物が、召喚された「星の精」に無惨に殺されるさまを描きました。一方、そのおかえしとばかり、ラヴクラフトも自作の『闇をさまようもの 』という小説の中で、ブロックをもじった「ロバート・ブレイク」という主人公を惨殺しています。
このようなやりとりは微笑ましく感じる反面、ラヴクラフトの没後、彼と直接面識のない世代の作家たちが「クトゥルフ神話」の枠組みを勝手に利用することは問題ないのでしょうか?
筆者は、「 著作権」は公開された著作物の「表現」に対する保護 であり、世界観のような「アイデア」を保護するものではない ので、他者の設定を新たな著作物に流用することは著作権的には問題ない、と考えています。
ラヴクラフトの場合、死後70年以上経過して著作権保護期間は切れているものの、たとえ保護期間が継続している作家の作品であっても、著作権によって保護されるのは公開された文章等の「表現」そのものであって、そこに描かれた世界観や魔導書等のアイテム、「 邪神」や「旧支配者」といった設定は保護される対象ではありません。そのため、新しい創作小説にそれらの設定を流用しても著作権法的には問題ないはずです。
ただし、ここで考えているのは「クトゥルフ神話」の各小説のように、新しい創作物の中に過去の諸作品の設定がさりげなく組み込まれているような場合です。同人誌等で行われている、ある作品の設定やキャラクターをそのまま流用して作った「二次創作」は、著作権の中の「翻案権」の侵害と見なされるでしょう。
「クトゥルフ神話」とLinux
「原作者が作った世界観」を流用しつつ、後人があれこれ設定を追加して作品世界を拡大していく、という「クトゥルフ神話」のスタイルは、Linuxに代表されるOSSの世界と似ていないでしょうか?
30年近く前にインターネット上に公開された1つのソフトウェアが、すぐれたハッカーたちを魅きつけ、みんながアイデアやコードを持ちよって機能を追加、洗練させてゆく。その結果、PC互換機のハードウェアに依存した100KB程度のソフトウェアが、数万のコアを持つスーパーコンピュータから掌(てのひら)に収まるスマホまでサポートし、現代のインターネット基盤を支えるまでになっていく。
このようなLinuxの成長過程は、無名の小説家だったラヴクラフトが発表した数編の怪奇小説をきっかけに、同好の士がアイデアや設定を持ちよって、壮大な「クトゥルフ神話」の体系を築きあげていった過程とパラレルに見えてしまいます。
ソフトウェアであるLinuxの場合、変更箇所はソースコードに直接反映され、ソースコードそのものが変ってゆきます。一方、「 物語集」である「クトゥルフ神話」の場合は、それぞれの作品は「著作物」として保護されるため他者が勝手に変更することは許されず、さまざまな作品が代々積み重なっていくことになります。その結果、後から見ると、全体の整合性は必ずしも取れていないようです。
もちろんLinuxを構成しているソースコードも著作物であり、著作権で作者の権利は保護されています。しかしながら、LinuxのようなOSSの場合、「 使用許諾契約 」としてGPL (General Public License)を採用することで、それぞれのソースコードの著作者が、他者の自由な利用や変更をあらかじめ認めており、その結果、ソースコードの自由な改変が可能となって、奇跡のような成長速度が実現されました。
このようなGPLの成果を文書の世界にもとりこむために、文学作品にも適用できるGFDL (GNU Free Document License)や著作者の権利をより細かく制御して再利用を促進しようという「クリエィティヴ・コモンズ・ライセンス 」なども提案されてはいるものの、作家の個性の表現とされる「文学作品」と、「 他者による自由な改変」という概念は相容れないようです。
このあたり「アート」としての文学作品と「ツール」としてのソフトウェアの違い、という見方もできそうで、機会があれば改めて考えてみようと思っています。