こんにちは。グラフィックファシリテーターの、やまざきゆにこです。 前回は「クライアント座談会」のグラフィックをすべて(7連作)ウェブ上にアップしましたが、どんな感想を持たれたでしょうか? 絵から内容がすべて読み取れるわけではないので、もどかしく感じた方もいるかもしれません。早速、グラフィックを振り返りながら座談会の様子をご紹介します。今回は、その中でも特に白熱した議論を絵にした一枚を中心にお話しようと思います。
「もう一度見直した」とき、見えてくること
座談会の前半は、ご参加頂いた皆さんの自己紹介とあわせて、それぞれ「グラフィックファシリテーション」と出会ったきっかけや各社の活用方法などについて語って頂きました。そうしているうちに、座談会の話題は「組織」と「個人」のコミュニケーションのあり方について移っていきました。皆さんそれぞれ組織を大きく動かす立場にいらっしゃるだけに、予想以上に盛り上がった意見交換。そのときの1枚がこちらの絵です。
描かれた後のグラフィックの活用方法の1つは、絵をもう一度見直しながら“語る”ことで“議論を再現できる”こと。しかし本当のグラフィックの威力はさらにその先にあります。
描かれた絵をもう一度よく見てみると必ず議論の最中には“気付かなかった視点”に気付かされたり、“大きな流れ”が見えてくる(例えばみんなが言わんとしていた全体像が見えてくる)という体験ができます。今回のグラフィックを見てもそれはやっぱりありました。その内容は私にとっても今後の方向性を考えさせてくれる有意義なものとなりました。
さて、実際にどんな意見が交わされ、絵の中にどんな発見があったのか。グラフィックが教えてくれること、ご紹介します。
「耳がダンボ」
まず最初に左上のゾウの絵。これは「みんなの話を聞きながら同時に筆を動かしているときの、ゆにの頭の中はどうなってるの?」という質問に対する私の答え
「耳がダンボなんです」
をそのまま絵にしました。耳の大きなゾウ=ダンボのつもりで描きました。頭の上には私が乗ってます。
「筆を持つ手にはまった集中していなくて…、後ろから見たら、私はきっと耳がダンボになってる状態なんですよ」
と確か答えました。その後みなさんが何度も「耳がダンボのゆにちゃんは…」「耳がダンボになっているやまざきさんは…」とおっしゃっていたので、本当は普通に人間の私の絵を描くつもりだったのですが、思わずダンボにしてしまいました。
「目指すのはモーツアルトかバイエルか」
話題は、コミュニケーション手段にグラフィックを活用したがっているのは“組織”だけではない、“個人”もその力を身につけたいという欲求が強くなっているという内容になっていました。いくつかそのときに出た意見を紹介します。
- 「メールなどのコミュニケーション手段は増えているけど表面的なモノが多い。本当に伝わっているかどかでいうと薄まっているのでは?」
- 「じぶんの中の○○らしさは薄まってない。ただ、“感じあったり・共感したり”する機会が減ってきているのでは」
- 「『共有したい』というニーズは高まっていると感じる」
- 「文字だけの企画書では上司にうまく説明できない。理解してもらいにくい。イラスト集だけでは限界。じぶんが考えていることを絵にするニーズは大きそう」
- 「『描いてほしい』ニーズが広まることよりも、“個人”が『描くスキルを上げたい』と思っている方が大きそう」
- 「“描き方”はみんな知りたがっている」etc.
そんな時代の流れの中で、今後、私が目指す方向性について「だれにもマネできないモーツアルトの領域を目指すのか、だれもがピアノを弾けるようになる一歩を踏み出せる練習曲をつくったバイエルになるのか」という、とても上手な例えをいただいて、そのまま絵にしたのが紙面右上の作曲にいそしむ天才モーツアルトと、紙面中央左側にいる教本「赤バイエル」を前にピアノの練習に励む女の子です。
この「バイエル」という例えが素敵だなあ~と思って描き留めておきたくなりました。実は以前から、私のグラフィックファシリテーションを「個人も使えるように汎用性を持たせては?」というようなことを、いろんな方から言われていました。でもどうも私の中でピンときませんでした。「ルールはないの?」「フレームワークに落とせないの?」「パッケージ化できないの?」と言われても…。世の中には自分たちですぐにでも実践できる会議の上手な進め方やツールはいくつも開発され本になってます。「今さら私がやらなくてもねえ…」とあまり深く考えていませんでした。
しかし、「赤バイエル」を見て練習している女の子の絵を見て、今までの私の思い込みが一気に吹き飛んだ気がしました。個人的には私は「赤バイエル」で挫折しましたが、ピアノの世界、音楽の世界への入口として、上達していくことが楽しくなりそうな「赤バイエル」のイメージはとてもいいなあと思えたんです。「フレームにしてみたら?」「パッケージ化してみたら?」というアドバイスにはまったくピンとこなかったけど、これならなんだかワクワクしてきました。勝手な理想形ですが具体的なビジュアルとして、1つ自分の中に描けました。
それにしても…、改めてダンボに目を向けてみると、目の前の議論を絵にすることが楽しくてしょうがない様子。でも、それは能天気に目の前の出来事を楽しんでいるだけのようにも見え、モーツアルトの方向へ飛んでいくのか、それともバイエルの方向へ飛んでいくのか、特に決めることもなく、ただフワフワと宙に浮いているだけにも見えてきました。まさに今の私の状態です!この絵は別の意味で、私に「世の中が求めている声をきちんと聞いているの?」「もっと研究・開発するべきことはあるんじゃないの?」と問いかけてくる絵にもなりました。
坂本龍馬の船
続けて、バイエルの女の子の近くに、サッカーや陸上の練習にいそしむ個人の絵を描きました。これは
「ある経営者が、強い組織とは個性の強い組織だと言っていた。山登りが得意な人とラグビーが得意な人とサッカーが得意な人が集まって、それぞれが能力を高めていける組織が理想だと言っていた」という話を聞いて絵にしたものです。
そして、そんな人たちが乗り合わせた船(=組織)を中央下のほうに描きました。ものすごく勝手なイメージですが坂本龍馬が船出するような感じです(乗組員はサッカーボール蹴ったりしてますが)。
これは1つの話から連想した絵というよりも、みなさんが議論していた次のような内容を受けて1つの絵になったという感じです。
- 「これからは閉鎖的な組織で考えるより、いろんなバックボーンを持った人たちが集まって議論する場が増えてくるはず。そのほうが生成的な価値が生まれるという流れになってきている」
- 「閉じられ議論の枠をとっぱらいたくてグラフィックを使った」
- 「『コミュニケーションが複雑』という話は10年も20年も前から言われていること。でもそこでイメージを出すことができたら議論が進む」
これの発言を聞きながら、私がこれまで立ちあった、未来を語る熱い議論を交わしていた人たちの思いを思い出し、勝手に坂本龍馬に重ね合わせてしまったのかもしれません。
水面下のグラフィック
ところで、坂本龍馬の船のお尻近くにいるグラフィックたちがふーっふーっと口を尖らせているのが見えますか? 船が浮ぶ水面近くで、“潮の流れ”を起こして船の進みを推し進めようとしている感じです。これは、大海原でモヤモヤと迷走している船の迷いを断ち切り、目標を見つけて、力強く漕ぎ出せるような、そんな手伝いがしたいという私の気持ちの表れです。
船にドライブがかかるような、大きな“流れ”に乗せてあげたい。それには壁に飾られるだけの美しい絵では力不足で、こんなふうにふーっふーっと汗をかいて船を押すぐらいの力を持つグラフィックでなければ意味がないと、私自身この絵を見ながら再確認したところです。
ぐるぐる回るコーヒーカップ
龍馬が乗り合わせた船は目標(小山が旗を振ってます)を見つけて「GO!GO!」とドライブをかけて前進しています。しかし、それとは対照的に、まだ行く先も決まらずその場にぷかぷか浮いているのが、紙面右上のコーヒーカップです。閉じた会議でぐるぐるぐるぐる同じことを議論して前に進んでいない様子をイメージして描きました。でも、それをなんとか前に進めとばかりに、ここではダンボがそばでぷーっぷーっと鼻息をかけてます。
これらの絵は、確か
- 「グラフィックは未来の不確実なテーマに限らず有効。例えば堂々巡りの会議って多いけど、原点はここだよねというのに使える」
- 「言葉はわかっているけどそれぞれがまったく違ったイメージを抱いているような抽象度の高いものをすりあわせるのにもビジュアルは有効」
といった内容を聞きながら描きました。
そして、コーヒーカップを描いた後に、私は龍馬の船まで一気に川の流れを描きました。
この川の流れを描いたことで、私が描く絵も、プロジェクトや議論の進み具合(川上~川下)によって役割が違うということが、ものすごく整理されました。ゴールを絵にすることで龍馬の船出に立ちあうときもあれば、ものすごく小さなコミュニケーションミスやロスで上手く進んでいない議論から抜け出すために筆を動かし続けている、そんなシンボリックな2つのシーンがここに描けました。
川底の絵に何かを見つけた人たち
川の途中には葉っぱの船に乗った人たちがいます。川底をのぞいて「本質!」と叫んでいます。これは次のような言葉が印象的で書き足した絵です。
- 「1つのテーマにもっと半年や1年という長い期間に関わったらいいと思う。関わることで見えてくる流れ、目に見えない大きな流れがきっとある。参加している我々もなんとなくその流れは感覚的にわかっているけど、やっぱり大きな流れを見えていなくて、それを埋める可能性がグラフィックにはあるのでは」
- 「議論から本質的なものを見つける力がグラフィックにはある」
まだ力強く走り出していない議論を、潮の流れに任せて流されている葉っぱのイメージで描きましたが、議論をする中ですごい大事なものを見つけた瞬間を描いてみました。これから力強く漕ぎ出す、まさにその直前です。議論が一気に収束したり、実行レベルに議論が進む感じが、川の位置にしてもきっとこの辺りだと思います。
触媒だゾウ
さて、私の描き方はクライアントの皆さんから見るとこんな感じなのだそうです。
- 「即興で映像化されている」
- 「アメリカはキーワードを拾っていく。アメリカでは参加していない人とも共有することを重視しているのに比べると、やまざきさんは話している人たちから“感じ取ったイメージ”を絵にしている」
- 「アメリカのグラフィックは大きな流れを見せているが、ゆにさんの絵は1つ1つのシーンを切り取る。それを連続してそれを並べたときにストーリーが見えてくる」
- 「“感じ取ったもの”が拾われて描かれている。それでOK」
- 「描かれた絵が“正しい”ことに意味はない」
みなさんのおっしゃるとおり、自分の“感じ取ったままに”描いています。しかし同時に、感覚的なため、ふと「私の絵が無くてもその場の議論に大きな違いはないのかも」とか「私が描く明らかな効果ってなんだろう」とか、そんな不安を感じることもあるんですよね…と漏らしたところ、兼清さんからこんな言葉を頂きました。
「ファシリテーションはあくまで触媒。ファシリテーターが『あなたのファシリテーションのおかげでいいものが生まれました』といわれたらそれはNG。主役は参加者。グラフィックはシャドーウィングであって触媒でいいんだよ」。
この言葉を聞いてものすごく安堵しました。議論の立ち位置として間違ってはいないんだな、と。ただそんな心に響いた「グラフィックはあくまでも触媒」という言葉をうまく絵にできずにいました。「触媒って…なんだろう?」と。
でも、最後の1枚で、このダンボを描いたときに、鼻息で潮の流れを起こしているところに「グラフィックはあくまでも触媒」という文字を書き足しました。ダンボは直接船を動かすのではなく、あくまでも“潮の流れ”を生むようにぷーっと吹いています。“潮の流れ”をつくるという距離感が兼清さんのいう“触媒”と言えるかもしれません。時には“潮の流れ”を使って船の進む方向をつくったり、走りすぎた船の進みを遅らせたり。私自身の立ち位置が具体的にイメージできた感じです。
同時に気付かされたことは、ただ絵を描いて終わり、記録に残すだけの役割ではこの“潮の流れ”を生む力は本当に弱いんだなと思いました。グラフィックが教えてくれることをきちんと現場にフィードバックしていくこと、そうすることで初めて船が力強く漕ぎ出せる“潮の流れ”になるんだろうなと。その中で、1つでも2つでも、みんなが「これが目標だ」と思える1枚、「方向性を決断できる」1枚を生んでいく。早く力強く漕ぎ出したいと思いあぐねている船を、迷わず走り出せるように、私自身もっともっと磨かなければいけないこともイメージできてきました。
再びバイエル
ふりかえって、やはりバイエルの絵が目につきます。
日々、会議や研修の場をデザインしている人たちの口から、「何か価値あるものを生み出したい」「そんな議論の場や個人の発想力を世の中が摸索している」という話を聞いて、私が描いた大海に漕ぎ出そうとする船の列にも、そんな世の中の大きなうねりを感じてきました。
「個人と組織、その両輪が社会を変えていく。コミュニケーションが高まるきざしを感じるし、楽しみですよね」という川口さんの言葉も印象的でした。
今は“組織”の議論に立ちあうのが私のスタイル。私の中ではまだ“個人”のための方法論は未開拓な領域です。それゆえ思わずバイエルを練習する女の子を大きく描いてしまったのかもしれません。船を漕ぎ出すのはあくまでも本人。“潮の流れ”を生む以外にも、一人一人の漕ぎ手の力を底上げできる何かがあれば、もっと船は力強く進みますよね。だれもが一歩を踏み出せる、ちょっとトライしてみたくなるような「赤バイエル」があったらいいなあと心から思えてきました。
自己研鑽のためにも個人的にはモーツアルトを目指します。でもやっぱりバイエルも素敵です。必要としてくれる人がいるなら「赤バイエル」を開発したいと思いました。ただ、「描き方をみんな知りたがっている」と言われたのですが、サッカーが得意な人に無理に絵筆を持たせてもどうかなあ、とか。私も絵描きというより、ただの耳のでか~いダンボだしなあ、とか。今はこの絵を見ながらよい方法論がないかと、アイデアがぐるぐる頭の中で走り回ってます。
グラフィックを「もう一度、読み解く」という作業
今回は議論のテーマが「グラフィックファシリテーション」に関する意見交換という場だっただけに、グラフィックファシリテーターとして私自身の立ち位置を再確認したと同時に、世の中の声に対して次に何をすべきか、具体的なイメージがこの最後の一枚の絵から見えてきました。
グラフィックを「もう一度、読み解く」という作業は本当にあなどれません。参加した当事者も、描いた私ですら“リアルタイム”には気付かなかったことが、もう一度絵を見直すことで必ず見つかるからです。
最初に戻って、前回の絵を見ただけで「よくわからない」と感じられるのは無理もないと思います。テキストのみの議事録に比べると、完全な“レコード(記録)”機能は果たしていないからです。つまり、“レコード(記録)”としての機能を期待すると、グラフィック“だけ”では(特に第三者の方から見ると)不完全なんです。でも、グラフィックの“持ち帰り方”にはいろんな方法があり、(次回以降にそれはまたご紹介していきたいと思いますが)その中で「もう一度、読み解く」という作業をすることに、議事録以上の価値を見出せると思っています。
ちなみに、この「もう一度、読み解く」作業の報告を私は毎回、後日クライアントには「グラフィックレポート」というA4パワーポイントファイルで納品しているのですが、次回は今回の座談会を実際に「グラフィックレポート」にまとめたものをご紹介して、全体を簡単に振り返り座談会報告を終えたいと思います。
ということで、今日のところはここまで。次回も楽しみにしていてください。グラフィックファシリテーターのゆにでした(^-^)