こんにちは、グラフィックファシリテーターのやまざきゆにこです。
今回も「あれ? この絵は以前にも描いたことがあるぞ」「あれ? また同じ絵を描いているぞ」という現象を取り挙げます。
グラフィックファシリテーションで描く絵巻物では、出席者もテーマも全く違う会議ではもちろん、たとえ参加者が同じでも、同じ会社でも、1つとして同じ絵巻物が描けたことはありません。3時間、4時間…、8時間…、と描き続ける絵のほとんどは「その会社でしか描けない絵」「そのときの議論でしか描けない絵」ばかりです。
でもだからこそ、ふとその絵巻物の中に「他の会議や会社で描いた覚えのある絵」が描けたとき、しかもそれが一度や二度ではなく、三度も四度もあると、
- (これはこの企業や業界だけの特別な問題ではないのかも?)
- (この不安はこの会社の経営者だけではないのかも?)
- (どの会社でも、課長クラスのミドル層は同じ悩みを抱えているのかも?)
- (もしかしてコレって社会全体に蔓延していること?!)
などなど、いろいろな気付きに出あうのです。
リーマーーーーーーン!
昨年(2009年)の会議や研修で本当に「よく描いた絵」がこれでした。
「リーマンショックの影響で…」
新商品や新サービスの開発現場でマーケット動向を語るうえで、または、会社のビジョンを改めて描き直す研修の場でも、事業の未来予測の難しさを語るとき、必ず聞こえてきた言葉「リーマンショック」。
そのときのわたしのイメージは、得体の知れないアメーバお化けの絵になりました。どの議論も、どこか共通していて、このアメーバお化けがおどろおどろしい声で「リィィィィマァァァァ~~~~~ン」と言って覆いかぶさるように襲ってくるイメージで描けました。
アメーバーのように、ドロドロウネウネと。わたしたちを飲み込もうと、もしくは蝕ばもうと、どこまでも広がり覆い尽くしてくる…。いずれの会議でも議論を聴いていて感じたそんな気持ち悪さを、気持ち悪い紫色のイメージで塗っていました。
そしてたいてい同時に描けるのが、この得体の知れないアメーバお化けに怯えるヒトたちの絵でした。
でも、ここで、このアメーバお化けに怯えた後に、このヒトたちがとる行動パターンが必ず2タイプ描けました。それが「走り回るヒト」と「動かないヒト」です。
走り回るヒトvs動かないヒト(実例1)
次の絵は「走り回るヒト」の一例です。
得体の知れないリーマンというアメーバお化けの登場に、左はオロオロオロオロと、とりあえず動き出すヒトの絵。右は、「今リーマンショックの影響もあって、就職活動をする学生が90社も100社も回っても決まらない」という話を聴いて、ヘロヘロと目を回している学生の絵を描きました。走り回りすぎてもう身も心もフラフラです。
次の絵は「動かないヒト」の一例です。
左の2つの絵のように、不安で動けなくなっているヒトを描くこともあれば、一番右の絵のように、特に危機感もなく、どこか他人事のように動かないヒトたちを描くこともあります。ただ共通しているのは「走り回るヒト」とは対称的に、無駄な行動は起こさないでじっとしている絵になっています。
これら「走り回る」もしくは「動かない」2タイプの行動パターンをとる人物たちを描くのは、じつは振り返ってみると「リーマンショック」という言葉が聴こえてきたときだけに限りませんでした。ほかの議論でも、この2タイプの行動パターンを、しかも同時に描くことが本当に度々あるのです。
走り回るヒトvs動かないヒト(実例2)
例えば、「最近の情報収集の仕方」について議論していたとき。ネットでいろんな情報を得られるようになった今、「どんどん自分から情報を取りに行く」タイプと、「必要なときに最低限の情報だけでいい」タイプがいるという話がよく聴こえてきます。
そういう議論の場で描いた「どんどん情報を取りに行く」タイプの絵の一例が次の3つです。
最初は「知りたい」「もっといい情報が欲しい」と走り回って情報を集めていた人たちですが、いつしか、上から降ってくる情報量の多さにそれらを拾いきれなくなってきて、ハアハア息を切らして目を回している、という絵です。いかにも「情報に踊らされている」という言葉が当てはまりそうな絵です。
一方で、「必要なときに最低限の情報だけでいい」タイプの一例が次の絵です。
左の絵は、「情報を取りに行くのが面倒くさい」という無駄な行動は一切しないヒトの絵です。中央の絵は、必要なときに探せば情報はあると考え、必要に迫られない限り動かないヒトの絵です。一番右の絵は、「最近の大学生は論文をネット上からコピー&ペ―ストして作っているらしい」といった話から描いた絵です。
彼らは「情報に踊らされていない」というよりは、どちらかといえば「踊る気力もない」「踊れるパワーもない」といったところでしょうか。
走り回るヒトvs動かないヒト(実例3)
他にも、クライアントからのいきなりの指示変更や、上司や経営側からいきなりの方向転換、指示命令があったとき。そんなときにも同じように2つの行動パターン「走り回るヒト」と「動かないヒト」が描けます。
次の絵は、言うことがコロコロ変わる上司や経営層、クライアントの声に、部下や従業員の方々が方向性を見失って「右往左往走り回っている」絵です。
上からただただ降ってくる指示や責任、仕事といった様々なボールや書類をキャッチするために右往左往。そしてそれらをキャッチしたらひたすら走る!という絵です。なんだかとても辛そうな表情ばかりが描けます。
一方で、それらを黙って受け止めて、黙々とこなすが「動かない」部下や従業員を描いた絵が次の絵です。
左の絵は、「ぼくはやることやってまーす」と仕事はきちんとこなしてはいるのですが、隣りの人の仕事には関心を持たず、一線も飛び越えてこないヒトの絵です。中央の絵は、「話しかけないでオーラ」を放ち、自ら壁をつくっているヒトの絵です。そんなとき決まって上司やクライアントから聴こえてくる声は「何を考えているかわからない」「質問すらしてこない」「何の提案も出てこない」といったもの。しかし右の絵は、かつては上から降ってくるものに意見していたヒトですが、その度に傷ついた経験から、気付けば今ではバリヤを張って殻に閉じこもり動かなくなった、という絵です。動かない彼の言い分は「余計なことを言うと仕事が増える。だからあえて動かない。話しかけない」でした。
わたしたちは「得体の知れないモノ」に翻弄されている?!
こうして「走り回るヒト」と「動かないヒト」が描けてくると、次に話題になるのが必ずと言っていいほど「どちらが部下や従業員にとってほしい行動か」といった議論です。
- 「動いてないように見えて、ものすごく考えている」
- 「ネット上では、ものすごい速さで動いている」
- 「とりあえず行動を起こすことで満足してるときもある」
- 「でも、やっぱりネットばかり見てないで体動かすべきだ!」
などなど。
ただ、わたしの持つ絵筆がいつも感じることは、彼らを走らせた、もしくは動けなくさせた根源の(実例1であれば)リーマンというアメーバお化けがどうしても「具体的な絵に描けない」というところに引っかかっていました。
実例2で「ネットでいろんな情報を得られるようになった今」を描こうとしたときも同じ感覚が絵筆にありました。
いろんな情報が上から降ってくる絵を描いたのですが、その降ってくる先(空)が「具体的な絵として描けていない」のです。「情報化社会」「ネット社会」といった「言葉」で言ってしまうのは簡単ですが、「具体的な絵に描けない」のは絵筆にとっては得体の知れないアメーバお化けと同じ。
しかし議論はそんな「得体の知れないもの」よりも、「走り回るヒト」と「動かないヒト」に議論が流れがちです。彼らを走らせたり動けなくしている「具体的な絵に描けないもの」=「得体の知れないもの」は忘れられがちです。
でも、ドロドロウネウネとした「得体の知れない」「具体的な絵に描けない」ことこそが、議論を進めていく上でも、結構な曲者ではないかと思っているのです。
実例3の「クライアント」「上司」「経営」に対しても同ことが言えます。部下の目線から見上げると(絵の中では紙面の下から見上げる絵になります)と、どんよりとした厚い雲が邪魔してしまって「上がよく見えない」「上が何を考えているかわらない」「具体的な絵に描けない」ままの状態です。モヤモヤどんよりした雲を描くばかりです。
「クライアント」「上司」「経営」が何を考えてそのボールを下に投げてくるのか、部下からは(下からは)よく見えない。しかし、じつは「クライアント」「上司」「経営」を描いてみると彼らもまた「走り回っている」もしくは「腕を組んでじっと考えこんで動かない」絵が描けます。そして、そんなふうに彼らを走らせたり、もしくは動けなくさせている根源にはリーマンお化けが描けたりします。
走り出したり動かなくなったら、本質に立ち戻るサイン
「走り回るヒト」と「動かないヒト」が描けると、しばらくはそのヒトたちと重なる身近な人を思い出しながら、「いい」「悪い」「わかる」「わからない」「あるべき」「そうあるべきではない」といった言葉が飛び交います。
そんなとき、議論そのものもまた、右往左往しているような、もしくは立ち止まっているような、そんな感じがありました。絵筆を持つわたしとしては、「なんだか同じ絵ばかり描いているなあ」もしくは「全然、絵が先に進まないなあ」という感覚。何か大事なものを見落として議論が進んでいるように感じてなりません。
つまり、「走り回るヒト」と「動かないヒト」がグラフィックに登場するのは、議論が堂々巡りをしていて「本当の課題をまだよく見つけられていない」「大事な本質を見落としている」といったサインなのではないかなと思えてきました。
実際、議論をする皆さん自身もまた同じように感じ始めます。「走り回る」部下や学生、「動かない」従業員や若者についてひとしきり議論が出ると、そのうち必ずどこからか
「どちらがいいという議論ではないよね」
という発言が聴こえてきます。すると、そこから途端に描く絵が変わり始めます。
つまり議論の流れが一気に変わり始めます。
- 「そもそも今取り組むべき、本当の課題は何なのか」
- 「私たち自身が進みたい方向は何だ」
- 「本来、進むべき先はどこだ」
必ずといっていいほど議論は「改めてじぶんたちが大事にしなければいけないもの」に立ち戻っていくのです。 どんなテ―マでもどの会社でも、こうした議論の流れの変化が同じように起きるのです。
それを絵筆で実感するグラフィックファシリテーターとしては、「走り回るヒト」と「動かないヒト」が描けるとそれは「見落としがちな本来の議論のポイントに自らが気付けるいい絵だなあ」とも思えてきました。つまり「走り回るヒト」と「動かないヒト」が描けると、それは議論の参加者自身が「そもそも大事なことって何だっけ?」と本質に立ち戻るサインとも言えるのです。
立ち戻るところは「坂の上の雲」?!
わたしたちはどのぐらい得体の知れないものに翻弄されているんでしょうね。「得体の知れないもの」は絵筆を持つ私にとっては「具体的な絵に描けないもの」としてとてもやっかいです。しかし改めて思うことは、「具体的な絵として描き出す必要はない」とも思っています。
具体的な絵に描けないぐらい曖昧なものに、わたしたちは走らされたり、もしくは動けなくさせられたりしているという「状態を俯瞰できる」だけで十分なのではないかなと思います。得体の知れないものの「存在」に気付けるだけで、論点ががらりと変わるからです。
もし、みなさんの会議の場でも、議論が「あっちこっちに走り回ったり」と「動かなくなったり」してきたら、そこには必ず「得体の知れない」「具体的な絵に描けない」アメーバお化けがいるはず! と思い出してみてはいかがでしょう。その何者かの「存在」に視点を移してみるだけで結構、議論の流れがすっと変わってくると思います。
「そもそも大事なことって何だっけ?」に立ち戻れるチャンスです。
ちなみに、そんなアメーバお化けの存在に気付きを得た参加者の皆さんが、立ち戻って本来のあるべき姿を議論する中で、最近、何度も描いている絵を、最後にご紹介しておきます。
それは『坂の上の雲』の世界。
「静」と「動」をあわせもつ象徴なのかなと思いましたがどうでしょうか。特に昨年末は本当によく描いた絵でした。
ということで、 今回はここまで。 今の職場で感じている違和感やモヤモヤしたものの解決のヒントになればと思って、もうしばらくよく描く絵をご紹介していきます。ということで、次回も楽しみにしてください。
グラフィックファシリテーターのゆにでした(^-^)/