春の終わりから初夏にかけての花に、クマガイソウとアツモリソウがある。熊谷と敦盛、源平合戦のエピソードで名高い。
どちらもラン科の多年草。茎も葉もまるでちがうが、一つだけ、よく似ている。ともに球形で袋状の花をつける。クマガイソウは緑がかっている。アツモリソウは赤い。源氏の荒武者、熊谷直実(くまがいなおざね)がはおった母衣(ほろ)に見立てたのが熊谷草。平家の若武者、平敦盛の母衣にたとえたのが敦盛草というわけだ。
いつごろ、そんなシャレた名前がついたのだろう? クマガイソウには「おおぶくろばな(大袋花)」「ほていそう(布袋草)」といった異名がある。布袋さんのお腹のような袋状の花からしても、いかにもピッタリである。地方によっては、キンタマバナとかキツネノキンタマと呼ばれてきた。オオイヌノフグリと同じ名づけ方であって、庶民感覚に応じている。アツモリソウにも同じような異名があるにちがいない。
それが、歴史上の人物を借りた「高級な」名前になった。いつごろ、誰が名づけたかはわからないが、おおよそは想像できる。江戸の半ばごろ、花好きの中級武士、あるいは江戸の豊かな町人が命名した。歴史上の人物を借りたというよりも、芝居上の人物から思いついたのではあるまいか。
徳川将軍家の初めの三代、家康、秀忠、家光は、いずれも花好きで、自分では「花癖(かへき)」と称した。花や庭木や盆栽をめぐる、いろんなエピソードが残っている。家光遺愛の五葉松盆栽といわれるものが、いまも宮内庁にある。
将軍が花好きとあれば大名がまねをする。競って園芸に精出した。将軍や大名は手ずから世話をするわけではない。庭師や植木屋に指図して、自分は鑑賞するだけ。
お殿様が園芸好きとなると、重臣や家来もまねをする。大名は参勤交代で国に帰るから、江戸の「花癖」が地方へもひろがった。江戸時代の半ばになると、『花譜』といったタイトルの本が出はじめた。花の種類や品種の解説書である。時代が下ると、栽培法や育て方が加わってくる。
中級武士や町人もたしなみはじめたからだ。こちらは殿様とちがい、庭師や植木屋にまかせるというわけにいかない。自分で土を選び、植えつけ、世話をする。ハウツー本が必要だ。
歌舞伎の「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」が大坂、ついで江戸で人気を博したのは宝暦年間(1751~)のこと。熊谷直実は一谷で平家の公達(きんだち)平敦盛を組み伏したが、あえて命をとらず、代わりにわが子小次郎を犠牲にして、その首を差し出した。そののち武士道を立てることの無常をさとり、出家して諸国行脚に出る──。
以後、代々の名優が演じてきた出し物であって、歌舞伎のレペルトワールに欠かせない名舞台というものだ。
涙をこらえての一節、「ヤア、愚か愚か、このたびの戦い」の名セリフは、店の小僧でも使いに出る道すがらに口ずさんでいたらしいのだ。
となれば推測がつく。園芸の趣味が中級武士や町人にひろがってきたとき、特徴のある花をいうのに「おおぶくろばな」や「ほていそう」では芸がない。キンタマバナやキツネノキンタマは、教養と趣味が許さない。当たり狂言を借用し、熊谷と敦盛に見立てて新しく名をつけた。そんな想像をしてみたのだが、まちがっているだろうか。
よく見ると、クマガイソウの花の表面には、ピンクがかった網が走っている。理不尽な武士道の約束に泣きはらした目玉とそっくりだ。アツモリソウの花袋には薄紅の筋が走り、若武者のおシャレなデザイン性をおびている。花の精がミエをきったぐあいなのだ。
熊谷草(くまがいそう) 画:外山康雄
花データ
ラン科の多年草/花期:4~5月。下側の袋状の花びらを、源氏の武将熊谷直実の母衣に見立てた。ラン科植物の中でも最大級の花。
敦盛草(あつもりそう) 画:外山康雄
花データ
ラン科の多年草/花期:5~6月。下側の袋状の花びらを平敦盛の母衣(武具)に見立てた。血に染まった母衣の色を表している。
外山康雄「野の花館」だより
5月も終わりの29日。今年は大雪だったので、標高500メートルに満たない山麓の森林にも、まだ残雪が沢山。ゴールデンウィークを過ぎても、猩々袴(しょうじょうばかま)、片栗、菊咲一輪草など、早春の花が盛りです。おかげで、描いたばかりの作品とモデルの花々を一緒に飾ることができ、おいでいただいたお客様にも喜ばれています。
28日には、野の花館開館3周年記念の友の会イベントを湯沢町大源太で催したのですが、匂辛夷(たむしば)、桜が満開で、足もとには春竜胆も咲いていました。季節の花々に囲まれ、山国に生活している幸せを噛みしめています。
小千谷市のO氏から熊谷草の見事な鉢が届きました。原画と一緒に飾れ、感謝です。
(5月30日)