元オリコン編集長☆イノマーの『叫訓』

第3回10年続けたら見えたモノ

広告収入がなければ雑誌は成り立たない

取材といっても、雑誌にはいろいろとある。インタビュー取材もあれば、レポートであったりと、とにかく、それはもうさまざまだ。

今回は音楽系の取材について話をしたいと思う。アーティスト(いつから、こんな呼び方をするようになったんだろう?)が新作をリリースする際のインタビュー取材。その流れを簡単に説明すると……。

まずはレコード会社のプロモーターが編集部にやって来る。ぜひともページをお願いします、と。雑誌に広告をうちます(出す)ので、なんて話もある。

雑誌の広告なんて何百万円から何千万円の話である。予算があるレコード会社はお金を積んで表紙をください、なんてことも言ってきたりする。

営業は大喜び。でも、編集は複雑。だって、取材したくないアーティスト(やっぱり慣れないな、この呼び方)のページを作らないといけないんだもの。

ま、その辺のさじ加減は大人の仕事である。会社の利益というものを編集部も考えないといけない。社会人としては当然。好き好き大好きだけでは通用しない。でも、編集の人間はどちらかというと、自分の感性で仕事をしたがるものだ。

そして、営業はお金。ページのクオリティなんてどうでもいい。とにかく銭、銭、銭。ぶっちゃけ、そんなもんです。

オイラはお金の話が本当に苦手だった。過去形じゃなく、今もそうなんだけど、大人の話ができない。弱ったもんだ。

数字が苦手。

だから、編集長時代のオイラはそういったことの大半は副編集長に任せていた。クライアントの接待、印刷所とのやりとり……。

だって、できないことはできないんだもの。ごめんなさい。開き直っちゃいけない。でも、できないんだよなあ。むー⁠ーーん。

嘘も方便

編集長を務めていると、事務所やレコード会社から接待されることも多い。オイラはこれが嫌で逃げてばかりいた。

会社があったのは六本木。もう、街に出ればキャバクラだらけ。まずはお寿司かなんかをごちそうになり、その後はキャバクラへと連れていかれることも多々。

うらやましい話じゃないかと思うかもしれないが、とんでもない! 週刊誌を作っていると、ぶっちゃけ、そんな時間はない。

もちろん、そういうことも編集長の仕事といえば仕事なのだろうけど、オイラは極力避け続けた。

キャバクラ嬢と話すことなどない。そもそも、オイラは人と話をするのが苦手なのだ。もう、ある意味、拷問ね。みうらじゅん氏はキャバクラを修行の場だと言っていたが、まさにその通りだと思う。

しかし、女のコに気を使って高いお金を払うってすごいシステムだよなあ。

キャバクラで朝方まで飲んで、その後、編集部に戻り仕事。飲んでいたって締切のことが気になって酒の味がしなかった。

で、これはまずいと思い、オイラはある日から別人格を作ることにした。⁠お酒が飲めない人間⁠になった。⁠いやあ、お酒は体質的に飲めないんですよ」と。黒い交際を絶つために(笑⁠⁠。

いわゆる下戸っていうやつね。これが見事に成功。半年もすれば夜は仕事に集中することができた。

でも……その反動でオイラの昼食はガラリと変わった。昼から高級料亭で石焼の霜降り牛肉である。もちろん、接待。

「次のアルバムのタイミングで表紙をください」⁠見開きでページをください⁠⁠、そんな類の話をしながら、食べたくもない高級肉を食べた。バブルだったんだなあ。

塩で食べるお肉。

母ちゃんの作ってくれた三枚肉のしょうが焼きが恋しかったもの。あの安い感じが。

のり弁当を食べていた人間がいきなりそんな待遇を受けても困惑するだけだ。何より胃が悲鳴をあげた。基本、オイラは魚派で肉はあまり好きじゃない。…って、何で肉の話をしてるんだ?

そうだ、だから、インタビューにもいろいろあって、編集部と営業部との戦いであるということを言いたかったんだ。

事務所やレコード会社とのつきあいで、どうしてもやらなくちゃいけないパターンがある、と。政治ってやつね。

CD発売前後は「金太郎飴」みたいな雑誌だらけに

で、雑誌の掲載日が決まると、それに合わせて取材日を決める。無事に取材が終わればあとは原稿を印刷所に。

インタビューをライターさんにお願いすれば、自分の負担はかなり少なくはなる。

でも、オリコン時代、オイラは基本的にライターさんを使わなかった。すべてのインタビュー&編集を自分で行った。

なぜか? その理由は逆に面倒だったから。ライターさんに発注するため、電話をかけて段取りをつけるという行為が面倒だった。

だったら自分でやればいい。

音楽系のインタビューであれば、音資料や紙資料を郵送しなくてはいけない。まずそこが面倒だ。レコード会社に資料をもらい、それからライターさんにそれを郵送する。あ~~~、めんどい。

インターネットが普及している今ではどうなのかわからないが、10年前はそんな感じだった。ウィキペディアなんてなかったからね。ライターさんに取材対象の説明が必要。

もちろん、ライターさんにもスケジュールというものがある。それを調整するのも編集の仕事。

そして、何より数人の尊敬する人をのぞいて、音楽ライターと名乗っている人間の原稿がどうにも好きになれなかった。

金太郎飴。判を押したような内容。読んでいてもまったくおもしろくない。

  • [バンド結成のキッカケ]
  • [作品のコンセプト]
  • [レコーディング中の制作秘話]
  • [最近のメンバー内でのブーム]
  • [休日の過ごし方]
  • [読者に向けてのコメント]

うんざり。

作品リリースのタイミングになれば、同じアーティストの同じようなインタビュー記事が書店やコンビニに溢れることになる。

み~んな一緒。でも、レコード会社のプロモーターはそれで何の問題もない。ページを取れたことが大事なのだから。

それがすべてなのだ。

インタビュー心得:音楽の話をしない

オイラが最初にインタビュー取材をしたのは桑田佳祐だった。人生初のインタビュー。マーケティング部から編集部に異動して1週間も経たなかった頃の話だ。

知り合いのライターさんもいなかったオイラは自分でやればいいやと軽い気持ちで取材現場へと向かった。

しかも、ほっとんど新作の音源も聴かずに。だから、新作CDの話など一切できなかった。でも、それが功を奏した。

「君、おもしろいね~」と、桑田さんに気に入ってもらった。もちろん、何を聞こうかはあらかじめ考えてはいた。

くだらない質問だ。

新作を出せば20~30のインタビューをアーティストは受けることになる。さすがに、同じ質問に答え続けるのは飽きるだろう。

だから、オイラは誰もしないであろうと思える質問を用意した。いや、何度も言うけどくだらない質問ばかり。音楽の話はしなかった。

「楽しかったよ」とインタビューの後、桑田さんは右手を差し出してくれた。それがオイラのインタビュー人生のスタート。

確かに新作の話はしなかったけれど、レコード会社からしたらインタビューの内容よりも、ジャケット写真と発売日が掲載されることのほうが重要度が高いのだ。

そんなもんだ。

インタビュー心得:相手の懐に入り込み、下に潜って攻めること

それから約10年、オイラはインタビューを取り続けた。1日に3本、4本は当たり前。音楽からお笑いまで幅広く。

江頭2:50の後にザ・ハイロウズ、その後、GLAYで最後は天童よしみとか(笑⁠⁠。

ハッキリ言ってムチャクチャである。オリコンという雑誌媒体の性格上、そうなった。

何を聞き、何を話したのかさっぱり覚えていない。現場に行き、テンションの高さで乗り切った。おかげで、仕事以外ではまったく話さない無口な人間になった。

インタビュー取材に関しては自分の中でのルールというか、やり方というのがあった。とにかく、下に下に……という手法。

音楽ライターさんの中には上から目線でアーティストに話を聞く人もいる。何様?という感じ。オイラはそれが嫌だった。

とにかく、下から話をする。相手よりも常に自分が下にいるよう心がける。すると、いつの間にか相手は普段は話さない自分のひどい話や失敗談を話してくれるものだ。

そうやってオイラはさまざまな話を引き出してきた。ま、原稿チェックでNGになることは多かったけれども……。

石の上には10年!─⁠─3年じゃあ、経験値は上がらない

20代前半から30代前半までのオイラは、昼間にインタビュー取材にあけくれ、夜に編集部に戻り、ゲンコーを朝まで書いた。編集部の中にダンボールで寝床を作り、そこで数時間寝て、そして、また取材現場へと向かった。

月曜日から金曜日まで編集部で寝泊り。家に帰るのは土日だけ。週5日、編集部で生活。

27歳のときに学生時代からつきあっていた女性と結婚したのだけれど、彼女は3年で家を出て行ってしまった。

当たり前だ。

せっかく手に入れた家庭は壊れた。でも、それとひきかえにでも手に入れたいものがあった。それは何だったんだろう?

それはものすごく曖昧なものだったような気がする。ただただガムシャラな日々。

そんなインタビュー三昧の約10年を過ごし、大橋巨泉ではないけれどふと、引退しようと決めて会社をやめた。仕事のやり方を変えようと思った。がむしゃらにインタビューを取り続けるのを終わりにしようと思った。

理由は……疲れたから(笑⁠⁠。

いやいや、自分の中でもういいかな、と思ったというのが本音。違う立場で雑誌を作りたかった。だから、会社をやめて、自分で会社を立ち上げて雑誌を作ることにした。それが『STREET ROCK FILE』という雑誌だった(現在、絶賛休刊中・涙⁠⁠。

そういう時期だったんだと思う。

20代前半、上司に言われて忘れられない印象的な言葉がある。

『今は質にこだわる必要はないよ。とにかく、やれるだけ仕事をこなすこと。限界まで。質より量が大事な時期があるから。質にこだわるのは10年先でいい』

オイラはこの言葉に背中を押され、約10年、頭と心を真っ白にしてインタビューと取り原稿を書き続けてきた。

才能も経験もないオイラは、とにかく数をこなすしかない、と。場数を踏めば、ある意味、図々しくなり度胸が据わるってなもんだ。

度胸が据われば、落ち着いて冷静に仕事をすることができる。シラフでバカになれる。経験値を上げることは大事なことだ。

知らないということは恥ずかしいことではない。知ったフリをすることが何よりカッコ悪い。逆にオイラは知らないフリをして仕事をしてきたような気がする。

下に、下に……。

『質にこだわるのは10年先でいい⁠⁠、上司にそう言われたオイラは10年経ったので会社をやめた。その選択が正しかったのかは今ではもうわからない。

だって、別にいまだに質にはこだわってないもの(笑⁠⁠。

でも、量にこだわっていた時期があって本当に良かったと思う。

それが糧にはなっている。

叫訓3

質より量!

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