カバーをかばうわけじゃないけど……
倖田來未のカバーアルバム『Color The Cover』が世間を騒がせている(みたいね? 知らなかった)。賛否両論ってやつ。
まー、話題になるだけ良いことだ。何が悲しいって無視されることくらい寂しいものはない。肯定も否定も賛辞だとオイラは思っている。作品とはそういう宿命にある。
カバーアルバムって手軽に思えるかもしれないけど、オリジナル作品よりも気を使ったりして、それなりに大変。
ぶっちゃけ、オリジナルのほうがラク。誰にも文句は言われない。はい、今の自分たちはこんなもんです、と開き直れる。
オイラのバンドも過去にTHE BLUE HEARTS、JUN SKY WALKER(S)なんていうバンドのカバーアルバムに参加させてもらったことがある。何か妙な気分だった。
大学生の頃に大好きで聴いていたバンドのカバー。曲はカバーアルバムのリリース元であるレコード会社の人に決めてもらった。
「曲は何がいいですか?」と担当者さん。
「何でもいいですよ」、オイラは言った。「一緒に参加するバンドが選んだ後でいいです。」
「えっ、本当ですか? みなさん、あれがいい、これがいいって……。」
「はい、大丈夫です。」
「はあ、そうですか。」
限界のあるカバーという作業
倖田來未の話に戻るけど、いろいろとニュースになっているのは小沢健二の「ラブリー」らしい。原曲が好きな人にとっては、誰がどんなアレンジでカバーしようと納得はしないものだろう。
で、PVを観てみた。倖田來未のカバーする小沢健二の「ラブリー」。別に……とくに悪くはない。いや、これこそがいちばんの酷評になるかもしれないけど、“普通”だった。
可もなく不可もなく。あー、こんな感じになったんだ、って。それはそれで特筆することもなく。まー、目くじらたてることもないでしょ? みたいな。
つーか、映像も凝っていたし、しっかりと作りこまれていた。問題ナッシング。でも、オリジナルに思い入れの強い人にとってみれば、ガマンできなかったのかも。
だけど、カバーソングって、どんな力量のあるアーティストがやったって感動にまで持っていくのは難しいと思う。
よっぽどムチャクチャやらないと原曲を超えることなんてできない。原曲をブッ壊して、オリジナルがわからないくらいに解体しないといけない。
で、超えたところでどうだ? ってな話だ。つーか、原曲を超えるって意味がわからない。だって、これを言っちゃ終わりだけど、オリジナルにはかなわないもの。ま、音楽は勝ち負けじゃないけど。
カバーには限界がある。オリジナルという大きな壁が立ちはだかる。
SEARCH & DESTROY!
“スクラップ&ビルド”なんて言葉を最近、よく耳にする(昔からある言葉だけど)。ちなみに、AKB48の楽曲とは関係ないッス。
SCRAP & BUILD
[非能率的なもの・ことを逆転させること。廃棄して立て直す]
ふうむ。
でも、1966年生まれのオイラには“サーチ&デストロイ”のほうがしっくりとくる。イギー・ポップが歌ってた。
探し出してブッ壊す!
その後は? しかるべき、誰かがやるだろう。壊す側は壊すことが目的だ。その後なんて考えていない。でも、壊す人間がいなかったら、新しい何かは生まれない。
ポップミュージックがあるから、パンクロックがある。もちろん、ポップミュージックはマスだ。でも、ポップミュージックでは救われない人間も確実にいる。
オイラもそんな数少ないひとり。
メイジャーがありマイノリティが存在する。でも、いずれマイノリティはメイジャーを打ち崩し、望む望まずにかかわらずメイジャーとなる。ところが、やがて、新たなるマイノリティの出現により、その座は奪われる。その繰り返し。
今のマイナーは次のメイジャーだ。
わかりやすく言うと……『8時だョ! 全員集合』があったから、『オレたちひょうきん族』がある。そして、『めちゃイケ』があって、今は『ピカルの定理』。
って、余計にわからなかくなったか?
いや、でも、そういうこと。結局、若い世代は敬意を込めて自分よりも年上の先輩をブッ壊さないといけない。そして、いずれは自分も新たなる世代に足をすくわれることになることも覚悟しておくべきだ。
これはどんな世界でも一緒。政治界、芸能界、スポーツ界、学術界……ヘンに遠慮をするのは逆に失礼にあたる。「そろそろ、引退なさってはいかがでしょうか? あとはお任せください。」
実は諸先輩方もそれを望んでいたりする。そういう新しい存在が現れることを。いつまでも、トップの座でいるのは疲れるってなもんだ。それが後輩の先輩に対する親孝行。
愛じゃなくても恋じゃなくても……
オイラのバンドでカバーソングをレコーディングしたとき、いちばん考えた、気にかけたのは申し訳ないのだけれど、カバーさせていただくバンドへのリスペクトとか、愛とかではない。それは他のバンドに任せた。
だって、そういう大切な気持ちを曲で理解してもらうのはどう考えてもムリだと思ったから。リズムを変えるとか、メロディをこねくりまわすとか?
いやいや、それこそ失礼だ。テクニックで誤魔化すのがいちばん違うと思った。ま、そもそも、うちのバンドにはテクニックなんてないんだけどね。へけ。
とにかく、オリジナルの曲名こそ変えることはできないけれど(変えたらカバーじゃないか?)、まったく元ネタがわからないようにしたかった。
それが自分たちの“やり方”。
エゴと思われても仕方ないが、そうするしかなかった。だから、曲は何でもよかった。レコード会社の担当者は何度も「本当にこちらで決めていいんですか?」と言った。
よっぽど不安だったんだろう。
倖田來未は小沢健二、「ラブリー」のカバーをした。もろもろあったであろうが、最終的に決断をしたのは彼女だと思う。
小沢健二の代表曲ともいえる名曲のカバー。あーだこーだ(倖田)言われるのは覚悟の仕事。でも、彼女は仕上げた。
そして、世間はざわざわ。やかましーわ!
どのネタにするか? なんかじゃない
そんな一連の倖田來未カバー騒動を見ながら思った。結局は……。
うん、そうだ。
どんな仕事でも一緒。これは音楽業界云々の話ではない。
仕事があるとする。さて、どれをチョイスしようかと考える。そして、悩む。どの仕事が今の自分にいちばん大切なのか? と。
でも、実際、そんなことはどうでもよかったりする。倖田來未はたまたま、小沢健二を選んだ。それだけの話。
寿司職人がネタにこだわるのはわかる。まあね、高級食材のほうが“握り”にしたとき美味いに決まっている。
これは大間の……ってか?
週刊誌を作っているとき、オイラは基本的にNGを出さなかった。来る仕事は受けるようにした。デビューしたての新人取材も喜んで受けた。だって、そんなん、いちばん美味しいじゃないの? 一緒になってページを作れる。それなりのアーティストとなるとやりづらいことも多くなる。
でも、雑誌の編集者は後者を選ぶ。なぜなら、売り上げ部数のことを考えて数字を持っているアーティストを選ぶから。そのほうが無難だ。当たり前の選択。
その結果、コンビニ、書店ではリリースに合わせて同じ顔ばかりがずらりと並ぶ。どれも変わり映えしない。内容も一緒。
雑誌を作っている以上、人気のあるアーティストやタレント、人気のある店、人気のあるファッション・ブランド……取り上げるのは必須。必要なことだ。でも、それ以外に大切なこともあったりする。
雑誌取材で誰を選ぶか? カバーソングでどの曲を選ぶか? ぶっちゃけ、どうでもいい。そんな現場は小学生でもこなせる。
そうじゃないでしょう?
今回の叫訓35でオイラが言いたかったことはそういうこと。素材にこだわるのがプロだと思われてるけど、そんなん、大きなカン違い。プロだったら、どんな素材でも美味しくできなければ嘘だ。
オイラは逆にどんな高級素材でもクソ不味くする自信があるけど。
つーことで、今回の叫訓↓