J-POPって便利なワード
先日、音楽番組を観ていてふと思った。“歌謡曲”もずいぶんと変わったなあ、と。そもそも、歌謡曲というジャンルがもう曖昧だ。
ま、一言でいえば“流行歌”ということなのであろうが、AKB48もEXILEも氷川きよしも……何もかも同じ歌謡曲と言い切ってしまうのは語弊があるような気がしてならない。
とにかく、スタイルが違う。違い過ぎる。
オリコンランキングの上位に入っているのが歌謡曲というわけでもない時代だ。ヒットチャート=歌謡曲、という方程式が通じた時代のほうが音楽雑誌編集を仕事にする人間にとってはラクだった。
今じゃ、もうぶっちゃけわからないもの。雑誌を作るにあたってはページの流れというものがある。なるべく、読者が混乱しないようスムーズにまとめたい。
でも、それが困難になってきている。雑誌という束の中にまとめるのは不可能に近い。だから、音楽雑誌がどんどん廃刊、休刊となる中、アーティスト単行本というのはなくならないのだろう。もう、単体で物事を考えないと本なんて作れない。
そういった意味では“J-POP”って便利な言葉だ。だって、J-POPって言っておけばいいんだもの。J-POPという闇鍋の中にブチ込んでしまえば間違いはない。
パートナーとしての音楽価値について
個の時代なんだと思う。このアーティストは好き。でも、それ以外は興味はないからパッケージ(CD)は買わない、チケットを取ってライブにも行かない。
だから、現在の音楽シーンはどこか閉鎖的。広がりようがない。音楽がそれほどエンターテインメントとして、重要視されなくなっている傾向にある。そりゃそっか。他にも楽しいことは山ほどある。
ちと、話はそれるけど最近のヤングは車に興味が無くなってるみたいね。ま、それどこじゃないか? 車なんて贅沢品だ。所有率もハンパなく低くなっている。
オイラの世代(1966年生まれ)の高校男子は車の免許を取って、彼女と好きな音楽を聴きながらドライブをするのが夢の一つだった。
CDだったり、FMラジオだったり。音楽は価値のあるものだった。今の時代は音楽を常に携帯できる。イヤフォンで音楽を聴きながら街を歩いている人を多く見る。
でも、それは音楽が身近になったというよりも、音楽がスペシャルなものではなくなり、手軽というか、適当かつ、ありがたみのないものに成り下がってしまったのではないかとさえ思う。
昭和の歌謡曲(アナログ時代)
昔話になってしまうけれど、オイラの時代、シングルレコードの値段は確か1枚、500円とか600円だった記憶がある。
小学生の頃から音楽が好きだったオイラはお金を貯めてはレコードを買った。月のお小遣いは500円。レコードは貴重なものだった。
だからこそ、こつこつと貯金をして買ったレコード1枚のありがたみったらハンパなかった。もう、使い古された言葉だけれど、本当に擦り切れるまで1枚のレコードを居間のやたら大げさなステレオセットの前で何度も何度も聴いた。うん、下手すりゃ、正座して聴いていたような気すらする。
レコードを聴くというのは、オイラにとって特別な行為だった。沢田研二のシングル「勝手にしやがれ」なんてA面はレコード針でつるつるになった(その後にセックス・ピストルズのデビュー・アルバム『勝手にしやがれ!!』で人生が狂うとは……)。
LPレコードは2,500円。小学生にとっては高価なものだったので、誕生日、クリスマスに買ってもらった。もちろん、お年玉はすべてレコードに費やした。
1970年代後半、歌謡曲は最大の娯楽だった。阿久悠(作詞家)&都倉俊一(作曲家)のコンビがビシバシとヒット曲を生み出していた。
1980年代には主流となるニューミュージック(自作自演)とは違い、作家の先生が曲を作り、歌手が歌うというシステムがヒットチャートを占めていた時代の話。
すまんね、古い話をしちゃって……そうじゃない。今回はちゃんと話したいことがあったんだ。オイラの悪い癖。前置きが長い。
時には娼婦のように……
今の音楽や、それをとりまく環境、ユーザーの意識にいちゃもんをつける気はない。そういう時代なんだもん。常に変化するもんだ。
変化についていけない人間は取り残されるだけだ。アナログからCD、そして、ノンパッケージのダウンロードへと。
でも、思う。昭和の時代は大人が大人に向けて本気で音楽を作っていた。それを子供が聴いていた。オイラ、小学生の頃、黒沢年男の「時には娼婦のように」が好きでレコードを買って歌ってた。娼婦の意味もまったく知らなかったのに。
今、あらためて歌詞を読むとかなり激しい内容ではある。でも、小学生のオイラは好きだった。意味もわからずにね。作品としての完成度が高かったんだろうと思う。
作詞・作曲は、なかにし礼。60万枚の大ヒット。オリコンでの最高位は2位。もちろん、立派な歌謡曲。
当時の60万枚という数字は今の600万枚以上だ。大人はもちろん、子供も口ずさんだ。これが、歌謡曲の醍醐味だと思う。教室で歌ってたら女の先生に怒られた。「そ、そんな歌をうたっちゃいけません!」って。
都はるみがレコード大賞を取った「北の宿から」なんていう演歌もクラスのほとんどが歌えた。けして子供向けの曲ではない。
これは大人用、これは子供用なんていう考えで曲は作られてなかった。
驚くべきJSカルチャー
子供は大人が思っているほど子供ではない。子供向けに作ったモノに今の子供たちは反応を示さない。お子様ランチも苦戦しているとのこと。グッズをつけたり、ブランドとコラボしないと難しいと知り合いのレストラン経営者がこぼしていた。
もちろん、食材セレクションや料理工程にもこだわるため、経費も手間もかかるのでメニューから外す店も少なくないらしい。
子供だから味もわからないだろうと、いい加減に作り、提供していると大変なことになる。子供は正直だ。まずいものはまずい、と言う。美味しいものもちゃんと知っている。
出版不況が叫ばれる中、JS(女子小学生)のファッション誌が売れている。気になったので、どんな内容なのかと思い読んでみることにした(買うの恥ずかしかった~)。
いやあ、大人のファッション誌とほぼ作りは変わらない。ビックリ。人気読者モデルなんかもいたりして、これが、まー、その、何ていうか……確かに可愛かったりする。認めざるを得ない。
きっと、彼女たちはJS誌では満足できず、もっと上の世代が読んでいる雑誌も買っているのだろう。
子供向けという発想はナンセンス
そう、だから今回の叫訓でオイラが言いたかったことは“文化とは背伸びである”ということ。音楽にしろ、本や映画、食事にしろ子供が子供ワールドの中だけで生きて、満足しているわけではない。
子供は大人が聴いている音楽、読んでいる本、観ている映画、食べているもの……すべてに興味があり、そして、順応もできる。
いや、もちろん中にはNGを出さないといけないこともある。甘やかすわけではない。甘やかしてはいけない。
ただ、もっと甘やかされてはいけないのは大人たちのほうだ。
≪話は冒頭に戻る≫
テレビで観たアイドルが歌っている楽曲にこれでいいのかなあ? なんてつい思ってしまった。あまりにも幼稚で……子供をなめてんじゃねーぞ! と。ま、今年47歳になるオイラが怒ってもしょうがないんだけどね(笑)。
子供をバカにしてはいけない。ちゃ~んと、いろんなことを知っているし、見ているもんだ。そして、未来を作るのは子供たち。
つーことで今回の叫訓↓
叫訓37
大人が本気にならないと伝わらない
子供をなめたら痛い目にあう