出てくる体験
紙からデジタルへの転換を進めているために紙の新聞は取っていないので、毎日見る新聞のサイトと、朝日新聞の一面が情報源の一つです。
その新聞サイトで、讀賣新聞の2009年1月15日号に、レーザーディスクの生産中止の記事がありました。レーザーディスク。非接触ゆえに無劣化という、じつに魅力的な媒体でした。じっさいには記録時間の関係で、映画だと途中で裏返ししないといけないあたりが、のちにリバーシブルプレイヤーなんてのも出ることになったりして、いまから見ると牧歌的な時代だったのかもしれません(そんなことをいえば、DVDだって2層のときには切り替えで静止したりもしますけれど) 。
30年も前の映画になってしまいましたが、フェイバリットムービーである『ルパン三世 カリオストロの城』( 1979)なんて、レーザーディスク、DVD、英語版(boss, samurai, wolf etc.) 、英語新版(オープニングが静止画!) 、Blu-rayと、いったい何度買っているのかという気もします。その昔LPレコードでドラマ編、ドラマ編(完全版)なんてのもありました。フィルムコミックも完全版と2種類出てました。絵コンテもあるし…。ビデオは学生時代で高くて手が出なかったです。
朝日新聞の一面とWebサイト
朝日新聞は、毎日1面をWebで公開しています。表示に使っているのは、『 PileDesktop』の発展形である『PictureView』 。
讀賣新聞のWebページ、2009年1月15日号の掲載記事
レーザーディスクの生産中止を伝える讀賣新聞のWebページ、2009年1月15日号の掲載記事。
『ルパン三世 カリオストロの城』と『ルパン三世』のテレビ第1作。なんかたくさんもってます
1932年9月10日生まれの山田康雄は、1979年11月18日(日) ~19日(月)の収録のとき47歳。声のピークを38~39歳当時の1971年『ルパン三世』( 1st.)とすると、代表作とするにはすこし艶が失われているか。テレビカメラを担いだ不二子に続いて銭形警部が突入するシーンで、最初のサウンドドラマ版にはBGMがあり、映画本編にはBGMがない。ここは盛り上がるシーンだけに、BGMありのサウンドドラマ版がベストに感じられる。いつか機会があれば、その部分だけ加工したオリジナル版を見てみたい。マニアだ…。ちなみに、筆者らの年代では結構普通だったのですが、筆者も『カリオストロの城』を、全シーンリアルタイムで再生できます。いや、そんなことできても別に自慢になんないと思っていたのですが役に立ったことがあったことのほうが驚きです。
『ルパン三世 カリオストロの城』の英語版(新版)
『ルパン三世 カリオストロの城』の英語版(新版)である『LUPIN THE III THE CASTLE OF CAGLIOSTRO』 。翻訳が変更されて日本語で見るオリジナル版に近づいています。でもまさかオープニングが静止画になっているとは…。
レーザーディスクをざっと数えてみると100枚ほどももっていたでしょうか。30×30cmのLPサイズのジャケットは、取り扱いはしにくいものの、一枚の絵として迫力を感じさせました。それにしてもレーザーディスクがなくなることには、一つの時代の終焉を感じます。感慨深いものです。
光ディスク関係の歴史をひもとけば、音楽用コンパクトディスクの仕様書が発表されたのが1981年1月。1980年代は光ディスクの時代だと、にわかに家電業界は盛り上がっていました。音楽用CDの商品化は1982年10月1日(金) 。ソニーがCDプレイヤー「CDP-101」を発売しました。当時の価格は16万8000円。
レーザーディスクは、音楽CDに先行すること1年前の1981年10月に商品化されています。パイオニアのレーザーディスクプレイヤーLD-1000。22万8000円でした。音楽CDよりも、レーザーディスクのほうが商品化は早かったのです。
PileDesktopのモチーフ
この1981年10月には、いまは『観用少女』で知られる川原由美子が、小学館の『週刊少女コミック』誌上で『すくらんぶるゲーム』の新連載を開始しています。ミニコミ誌の編集部のどたばた騒動を扱うこの第1回目の表紙の背景に注目です。編集部の壁を見ると、写真や地図やメモや紅葉(こうよう)の紅葉(モミジ)が無造作にとめられています。
『週刊少女コミック』1981年11月5日号。
雑誌なので月号表記は1カ月進んでいます。この背景の無造作なメモや写真のレイアウトは『SmartWrite』や『PileDesktop』や『PictureView』を彷彿とさせます。
いまあらためてこのイラストを見ると、これまで作ってきた『SmartWrite』や『PileDesktop』や『PictureView』のモチーフは、ここから生まれているのだ、ということをしみじみと感じます。紙と写真とメモとオブジェクトを混在できる自由度の高さ、手書きならではの表現力の再現、無造作で無作為であるようでいて全体として統一感のある自然さ。重ね合わせと重ねによる影、文字のサイズや書記方向の自由さ、etc.
な~んだ、これを作りたかったのか、という感じ。無造作で無作為なものが好きなのは世阿彌の影響かと思いますが、つくづく、自分の底の浅さというか、自分を構成しているものの多くの出典を知ることができることに、不思議な感覚を覚えます。
前回 、保坂和志の「自分がしゃべっている言葉の出処を忘れているかぎりにおいて、その言葉は自分の言葉ということなのだろう」( 保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』新潮社 pp.271)という言葉をご紹介しましたが、『 帰ってきた時効警察オフィシャル本』( 太田出版)を読んでいたら、映像作品をめぐるオダギリジョーのインタビューの一節にこんな話が出ていました。
オダギリ: 僕のなかでの、フェリーニに対するオマージュであって、ほかにも僕の好きな作品、監督に対してオマージュ的に撮らせてもらったシーンがいくつかあります。
―― 作品というのはすべて、経験的な記憶で出来上がってるものですからね。そこも含めて"自分らしさ"だという。
オダギリ: どう吸収したかってことがアウトプットするときに"自分らしさ"に変わっていくのでしょうね。
『帰ってきた時効警察オフィシャル本』( 太田出版 pp.20)
『帰ってきた時効警察オフィシャル本』( 太田出版)
映像作品をめぐるオダギリジョーのインタビューより。『 帰ってきた時効警察オフィシャル本』( 太田出版 pp.20)
出処を忘れていないというか、出処は忘れていても、ライフログシステムによって、容易に出処が出てくるわたしにとって、自分はばらばらにぶちまけたパズルのピースのようにばらばらな存在に感じられます。津野海太郎の『新・本とつきあう法 活字本から電子本まで』( 中央公論社)に、本を読むと本が考えてくれてしまうという話が出てきます。自分と外から来るものとの関係に自覚的になることとは、マイケル・ポランニーのいう「暗黙知」を明晰知に変えることでしょうか。
本を読むったって、本を読むだけで終わったんじゃ、つまらないでしょう。ウェーバーについて詳しく知ったって、ウェーバーのように考える考え方、なるほどさすがにウェーバーを長年読んできた人だけあってよく見えるものだなあ、ウェーバー学も悪くないと思わせる見方を身につけなければしかたがない。論語読みの論語知らずといいますね。字面の奥にある「モノ」が読めてこなけりゃなりません。本をではなくて、本で「モノ」を読む。これが肝心で、つまり、真の狙いは本ではなくてモノです。
内田義彦『読書と社会科学』( 岩波書店)
自分である、というのは長い道のりであることです。ほんとうに。
内田義彦『読書と社会科学』( 岩波書店)
懐かしい感じのする岩波新書です。ときおり読み返してます。
本を読むのでなく、読んだから深い考えをもつようになる、というのが重要だというわけです。
しみじみしみじみ。ふむふむ。
ファッション
じっくりこの『週刊少女コミック』1981年11月5日号(22号)の表紙を見ていると、もう一つ気になることが出てきました。『 PileDesktop』のモチーフよりももっと無意識で身近なこと。主人公の深町絢が着ている黄緑色のシャツです。このシャツに見おぼえがあるのです。
じつはわたし、黄緑色のシャツがけっこう好きなのです…。まさか自分の好みである黄緑色のシャツまでもが、このイラストの影響かもしれない、そんなことってあるでしょうか? もしそうだとしたら…。なんてことを否定しがたいものがあります。これってやっぱりコスプレでしょうか。
お気にいりのグリーンのシャツ
懐いちばん好きないろはスカイブルーだと思っていたのですが、なぜかシャツはグリーンを愛用。なぜでしょう。並べてみたら、ボーダーの有無と袖の膨らみの違いはありますが、そっくりな気がします。それよりも問題が!
並べてみていたら、ルパンもグリーンじゃん
グリーンジャケットのルパン三世。ジャケットとシャツは違う。そりゃそうですね。でもなにか、深層心理が…。ありえん…。
だれかにあこがれておなじ格好をするのは、ファッションの入門としては、もっともポピュラーな入り口です。パンクロッカーのやませみヘア、ヒッピーの長髪、セシールカット、ボブカット、タカアンドトシのトシの坊主頭、皮ジャン、袖のふくらんだワンピース、etc.
それにしてもね~。
と、ふと机の上を見ると、いま読んでいるジョン・アーヴィングの『また会う日まで』の表紙の配色が、この『週刊少女コミック』1981年11月5日号(22号)の配色に酷似している偶然に気づきました。黄緑色と茶色。これは偶然なんでしょうか? 世のなかに偶然などないとしたら、なにかのつながりがあるのでしょうか。たとえば『また会う日まで』って、秋の話なんでしょうか。まだ上巻の50ページくらいまで読んだところなので、よくわかってないんですけど。
ジョン・アーヴィングの『また会う日まで』と『週刊少女コミック』1981年11月5日号(22号)
配色の酷似は偶然でしょうか。理性は偶然だというものの、悪魔かなにかの「偶然などない」と耳元でささやく声が聞こえるのは気のせいですよ。きっと。
好きなものを見ると好きなものになる。でも不思議なのは、ものを見たときに、まんべんなく好きになるわけではなくて、ほとんど瞬間的に好きなものとそうでないものを選んでいる事実です。好きなものだけを選び分けているところに、ライフログのなにかキーがあるのではないか、と考え始めています。