デジタルから紙へ回帰する!? なんてことは…
デジタル化したデータを使って自分だけのオリジナル・トレーディングカードを作ろうと考え始めました。トレードしないトレーディングカードというのは形容矛盾ですがそれはそれとして、知人に打ち明けたら、「えっ美崎さんが」と絶句されちまいました。それでなくても奇人だの変人だのと、ありがたいご評価をいただく今日この頃。毎日10cmずつスキャンしているからといって、紙は好きなんですよ。何度もいいますけど。
コンピュータを使ってデザインするトレーディングカードを考え始めると、カードのデザイン的な仕様もそうですが、デジタル的な仕様にもむずかしさがあります。
物理的なカードの枚数というのは制約があります。いっぽう、デジタルのデータにはほとんど制約がありません。7桁のデータでさえ扱ってますし。2TBのハードディスクだって出てきて、Googleは全書籍をデジタル化する今日この頃。デジタルの可能性は確実に開けています。無限という概念に近いのです。
仮に1冊の本200ページを1枚のカード表裏にするとして、それをデジタルに対応させる場合には、1対200の対応表を作ることになります。ではその1対200を本としたとき、本のどのページがその本をもっとも象徴しているのか。
表紙なのか奥付なのか目次なのか扉なのか背表紙なのかバーコードなのか。惹句の帯か、袖の折り返しってことはないでしょうか。それとも決定的なひとことの書いてある「あの」(どの?)ページなのか。考えさせられる「この」ページなのか。
志水辰夫の『背いて故郷』(新潮文庫版)を読んだら、新潮文庫版の『裂けて海峡』の「たった4文字」について、池上冬樹(とファンと志水辰夫が)熱く熱く語っていました。その本のもっとも特徴が4文字に凝縮されることもあるわけです。
1対多対応のデザイン
本のなかで大切なのは、心情的には「決定的なひとこと」や「決定的な写真」の写った特定のページといいたいところです。そのひとこと、その1枚が、人生を変えるくらい印象的であるからこそ、本には本の存在価値があるのです。だからひとはくり返し本を読むのだし、その本を大事にするのだと思います。
そこに本の価値はあり、表紙も奥付も目次もストーリーもキャラクターも、すべては夾雑物なのだ。夾雑物なのだよ。
ただひとことでいいんです。それだけで本は宝物になります。本だけでない。友人だって恋人だって家族だってペットだって、特別な一瞬を過ごしたから仲よくなれるのであって、その一瞬こそが光なのだと。
決定的なひとことがいくつも出てきたらどうするか、決定的なひとことがいくつも出てきたらどうするか。決定的なひとことが、ページまたがりをしていたらどうするか。長台詞、長広舌で何ページにもわたっていたらどうするか。1対多対応のものをどうデザインするのかを考える必要があります。
ここがじつはいちばんむずかしいことです。可能性を広げれば、買った店へのリンク、買った日へのリンク、作者のホームページやblogへのリンク、掲示板へのリンクなど、いくらでも可能性が出てきます。デジタルの可能性を狭めないでどう表現すればよいのか。
デザインの着地点
デジタルのもつ可能性の広がりのむずかしさに較べれば、デザイン的なむずかしさなどは着地点が見えやすいです。2メートル四方のようなものを作るわけではないので、デザインには物理的な制約があり、制約がデザインをかたちにしやすくするためです。制約とは可能性の別名なのです。
1対多対応のデジタルデザインとして、最初に思いついて、思いついたのはもう3~4年以上も前でしょうか。4年も考えて、それからちっとも進展していないというのは、わがことながらなかなかのろのろとした歩みです。ちっとも冴えてない。
もっとも、大切なことが1日2日でできるほど簡単であるわけはないのだし、4年もかけたからこそそのものごとが大切なものになるのだ、と逆接的ないい方もできるはず。かもかもかもね。
なんか、そんなこと、前にも書いていませんでしたっけ。どうも進歩しない。
最初に思いついた方式とは、ランダムアクセスです。200ページのなかからランダムに任意のページを表示するようにすれば、1対多対応でも、なんとか最低限のかたちにはなるでしょう。あまり芸はないですけれど。
評価と個性とライフログ、そして制約からの解放
もうひとつ考えているのは、評価です。
1枚の音楽CDにベストな曲は1曲あればよいほうでしょう。よほどすばらしいアーティストがのりにのっている瞬間に作ったアルバムに、すべてがベストといえるようなアルバムがないとはいいませんが、まず普通のアーティストのアルバムなら1曲か2曲あれば御の字。
短篇小説のアンソロジーは、10作あったらベストは1作。どうしようもなく波長に合わない作品が3つか4つあるのが普通です。
雑誌はお気にいりの連載と読みごたえのある特集があればそれでよく、読み飛ばしている連載やわからないことを書いているものが半分位はあるってものではないでしょうか。
おなじように、1冊の本も、決定的なひとことのページを頂点として、それ以外のページとは扱いを別にすることを考えているわけです。それが評価です。
評価の問題は、評価をするのは人間、もっといえば自分自身でなくてはならぬこと、本をページ単位でばらして扱うことは、本を本のまま扱うのとは違う別の種類の体験、別の種類の読み方にならざるを得ないことにあります。
連載の第3回目に、『PileDesktop』で氷室冴子『海がきこえる』『海がきこえるII アイがあるから』(徳間書店)の近藤勝也のイラストを一覧したことがありました。ページをめくって本を読む場合には、このように複数のページを同時に見ることはありえないわけです。それが本のもつ制約のひとつです。デジタル化することは、その制約から本(やコンテンツ)を解き放つ可能性があるのではないだろうか、と考えています。