Lifelog~毎日保存したログから見えてくる個性

第26回「出てくる体験」「思い出」違い

本を読んでも出てくる体験

本を読んでいました。五十嵐貴久の『Fake』⁠幻冬舎)です。

はじめて読む作家だったので、どんなストーリーなのか見当がつかず、わくわくして読み始めました。冒頭がもたつきましたが、結局巻措く能わざるおもしろさでのめり込みました。すっかり夜更かしです。

五十嵐貴久『Fake』⁠幻冬舎)
五十嵐貴久『Fake』(幻冬舎)
内容もなにも知らず旅行用に買った本。じつは帯買いだったりする。だれかと思ったら、K-1甲子園のナビゲーターの香里奈でした。内容は大満足でした。

その冒頭、なににもたついたのかというと、主人公の紅茶に関する記述です。

秤の分銅に目をやりながら、慎重にティースプーンを傾ける。ディンブラ、ルフナ、ヌワラエリア。

すこしずつ形の違う葉が均一に混ざったところで、ポットの湯を勢いよくそそいだ。濃い清涼感のある香りが漂う。把手を掴(原文は旧字)んで、慎重に揺すった。

鮮やかな赤。美しい。世の中にこれほど純粋な色があるだろうか。

ただ、俺の予想とは少し違った色合いだった。暗い赤になると思っていたが、ディンブラの割合が多かったのだろうか。やや明るめの色だった。初めてのブレンドに試行錯誤はつきものだから、これは仕方がない。

五十嵐貴久『Fake』⁠幻冬舎)p.12-13

ディンブラ、ルフナ、ヌワラエリアというのは、まるで呪文のように響くかもしれませんが、いずれも地名で、スリランカ産のセイロンティーのブランドです。紅茶といえば、イングリッシュブレックファーストとかアッサムとか、もっと知られているブランドがあるのに、なぜにディンブラ、ルフナ、ヌワラエリアなんでしょうか。

筆者も1995年9月に、まだ「解放のトラ」が現在ほど激しく活動していなかったころにスリランカに旅行したときから、セイロンティー、とくに紅茶農園を訪れたヌワラエリアの紅茶をかれこれ13年も愛飲してきました。最近、ディンブラやルフナも飲むようになりました。単に好きなブランドがおなじだったというだけなのでしょうか。

ディンブラ、ルフナ、ヌワラエリア
ディンブラ、ルフナ、ヌワラエリア
ディンブラはすっきりしていてひと晩おいても濁らないのでアイスティーやモーニングティーに向き、ルフナは歯が小さいので濃くいれてミルクティーに向くと思います。

描写されていることばが、記号や暗号ではなく、実体験として「出てくる」のは、とてもリアルな体験です。単に文字面ではなく、それが目の前にあるものと一致するためです。

同時に呼んでいた片岡義男の『謎の午後を歩く』⁠フリースタイル)も紅茶の話で始まりますが、そこではオランダ紅茶、というだけでそれ以上詳しいブランドは描写されていません。紅茶であるというだけでも紅茶つながりとはいえますが、わざわざ並べたものが完全一致というのはなかなかのことです。

たまたまではない

モノについて知るということは、モノの違い、すなわち商標、ブランドを知ることではないか、それは大人になって体験を積み重ねれば、自然と身についてくることではないか、とも考えられますが、ライフログ的な観点からいうと、そのブランドの違いをログとして記録しておき、適切なタイミングで出てくればなお一層体験が深まる、といいたいわけです。

紅茶について知る
紅茶について知る
モノについて自分の知識を整理しておくことは重要かなと思います。たとえばこんな風に。

で、この「ディンブラ、ルフナ、ヌワラエリア」についてライフログの記事を書こうと思ったのが2009年2月14日でした。記事を書くために、写真を撮りました。記事じたいはすこし先行して書きためてあったため、じっさいに記事を書き始めるまでにはすこし間が空きました。4月上旬になって記事を書こうと気にし始めたころでたまたま『Fake』を読み始めたら、冒頭の1行が出てきて、お、また出てきたよと、そういうことに相成ったわけです。

「たまたま」といま書きましたが、はたしてこういうのをたまたまというのでしょうか。

一度や二度なら「たまたま」でセレンディピティだといえますが、こういうことが年中あるのは、すでになんどもご紹介してきたとおりです。

統計を取った限りでは、このような「出てくる体験」はとてもひんぱんに起きていて、年間に500回もあるということがわかっています。とうてい偶然ではありません。

ライフログのもつ個別具体性

もちろん、いま書いたように、それが「大人になる」ことなのだ、ともいえます。大人になるということは、ほとんど無数と思われる体験を記憶にとどめることであり、ほとんどあらゆる場所を訪れ、したことのない体験をなくしていくことだ、ということもできます。

小学生や中学生のときと異なり、大人になると、ほとんどすべてのことはすでに体験ずみであるともいえます。なにを体験しても新しい感じはしなくなり、いつかどこかで体験したことに感じられることでしょう。ごくまれに、まったくしたことのないことを体験して新鮮な気持ちになることはありますが、たいていの体験はどこかでしたなにかに似ていて、まったく新しいことというのはまれになっていくでしょう。

この「出てくる体験」は、それではそういう無数の体験とおなじことをいっているのでしょうか? ライフログとは、単に大人になったことを意味するのでしょうか。

それは違うだろうと感じています。

どこが違うのかというと、ライフログでは、体験した体験が、いつかどこかでしたなにかという曖昧さをもたずに、より具体的なあの日あのときあの場所で飲んだ/食べた/見た/会った/読んだ体験としてよみがえってくるところが決定的に違うのだと思います。さらに、それらは整理されていて、容易に「出てくる」ところが違っています。流行歌を聴いてその年のことを思い起こすというのともまた違っていると思います。大ざっぱに思い出すのではないためです。なつかしく回想するのではなく、もう一度体験するのだといってもいいです。具体的だから、完全一致があるわけです。

記憶の曖昧さと、ライフログの具体性と。おなじ「体験」でありながら、ログが適切なタイミングで出てくることによって、なにか別の人生や別の体験をしているような気がしてくるのには、理由があるのです。

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